69、カリフラワー
白いレースの向こうに9月の海が輝いている。
アテナはストラーシャ学舎のレストランの片隅で、一人静かにランチをとっていた。
「アテナ様、今日もお美しいわぁ」
「本当にねぇ。今どんなこと考えてるんだろう」
「絶滅寸前の生き物のこととか、環境問題とか、多分そんな感じよ」
「立派な女性だわぁ~」
生徒たちは遠巻きにアテナを眺め、好き勝手に彼女の性格や人生を想像してときめいている。
アテナは白いお皿に盛られた温野菜サラダのカリフラワーを見つめながら、遠い記憶の彼方に思いを馳せていた。
『美しく生きなさい。』
それは、アテナが記憶している最も古い言葉の一つである。
「またねアテナさん、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
小学校の通学バスを降りたアテナは、ヴァイオリンケースを抱えたまま坂を駆け上がっていく。若々しい芝の緑が眩しい坂道には、レモン色のアカシアの花が香っていた。
「叔母様! 来てくださったの!?」
自宅の庭に入るなり、アテナは大きな声で叫んだ。
「お、おば様って言わないで。私まだ高校生ですからね」
三日月女学園で暮らす親戚のお姉さんが、春休みを利用し、イギリスのアテナの家まで遊びに来てくれたのだ。
「大きくなりましたね、アテナ」
「叔母様も、ますますお美しくなりましたっ」
アテナの叔母は、才色兼備で完璧なお嬢様として有名であり、アテナの家に遊びにくるだけで街がちょっとした騒ぎになっているほどだ。彼女の女学園における人気ぶりは凄まじく、公式パンフレットの制服紹介のモデルにされているくらいである。
叔母はついさっきここに到着したらしく、庭をきょろきょろして温室を覗き込み「わぁ、素敵・・・」と呟いた。叔母が以前この家に来た時にはこの温室は無かったのである。
「叔母様の学校のお話、聞かせて下さい!」
「いいわよ。土産話はたくさんありますから」
「ハーブティーを淹れます! 叔母様はガゼボでお待ちになって」
「ありがとう。熱めに淹れて」
「はい」
ガゼボというのは薔薇園などにありがちな六角形の屋根がついた休憩スペースである。アテナの家の庭のガゼボは真っ白な屋根と繊細な装飾の柱が特徴で、味のある手作りベンチも魅力的である。
ベンチに腰かけた叔母は、テーブルの上に置かれていた紅茶用の砂糖のビンを何気なく並べ直した。
叔母は潔癖というほどではないが非常に綺麗好きで、叔母の私物が散乱していたり服が汚れたりしているところをアテナは一度も見たことがない。
叔母の視線にアテナは少しドキドキしながら、美味しいハーブティーを淹れた。寒さに強いローズマリーのお茶はアテナの家で昔から愛されている家庭料理だ。
「マーメイドの話は以前しましたよね?」
「はい。三日月女学園の伝統の頂点ですよね!」
アテナは三日月女学園の話が大好きである。
「私、今年いよいよ、マーメイドに立候補しますよ」
「本当ですか! おめでとうございます!」
アテナは銀のティースプーンを回す手を止めて身を乗り出した。
「ところが、マーメイド候補はもう一人いるのです。あの人、私のことを完全にライバル視しているみたいですわ」
「そんなの、叔母様が少し本気を出せば蹴散らせるのでしょう?」
アテナは叔母の能力に対して絶大な信頼を置いている。叔母はカナリアがさえずるように優しく笑った。
「そうね、私にはアテナがついてますもの。きっと勝てるわ」
「学園からお電話いただければ、何でもご相談に乗りますわ」
「頼もしいわ♪」
まだ小学生なのに自分の力になってくれようとするアテナを、叔母はちょっと微笑ましく思った。こんなに可愛いアテナもいつか高校生になり、自分と同じような道を歩むかも知れないと考えると、不思議な気分である。
「そうですわ、私お城が見たいです。今日はよく晴れているからきっと見えますよね」
「はいっ。こちらです!」
二人は家の裏手へ回った。
アテナの家は高台に建っているから、天気によってはかなり遠くまで見渡せる。
叔母が気に入っている古城は、掛布団のように柔らかな起伏を見せる広大な果樹園の丘の向こうにひっそりとたたずんでおり、丘を流れていく雄大な雲の陰を、今日も静かに見守っていた。
「・・・ここは時計の針が似合わない町ですね」
「どういうことですか?」
「時の流れを忘れてしまいそうってことですよ。あのお城は900年近くもあの丘の上にあって、ゆっくりゆっくり動いている雲や、空を渡っていく星を眺めているんだって考えると、私たちの時計は、なんてせわしないのかしら」
薄桃色の城壁を見つめながら叔母は微笑み、しばらくの間、風の音を聴いて黙っていた。近くに暮らしている音大生のピアノの音が小さく聞こえていたので、アテナもその音色に耳を澄まし、叔母の視線の先をじっと見つめた。
「私は何でも完璧って言われてるけど、そんなことありませんのよ」
やがて叔母が再び話し始めた。
「いえ、叔母様は完璧に見えます」
「アテナ、誰にでも弱点はありますよ」
「弱点・・・?」
「アテナにもあるでしょう?」
「え、ええと・・・」
アテナは「私はカリフラワーが大の苦手です」と言いかけたが、何だかとても低レベルな話になってしまいそうだったので口は開かなかった。叔母はもっと高尚なことをしゃべっているのだ。
「私は自分の長所を伸ばしてきました。けれど、本当に完璧な女性になりたかったら、短所の克服をすべきでしたわね」
マーメイドやキャプテンへの道はとにかく厳しいのだ。
「でもアテナなら、できるかも知れませんね。今のうちから自分の得意なものと苦手なものを見つけて、自分を高めていって下さいね」
「はいっ」
叔母はやっぱり素晴らしい人だなぁとアテナは思った。こういう高校生に自分もなりたいと、アテナはいつも感じている。
「あとは、自分に悪い影響のありそうな人を避けることですね」
「悪い影響?」
「そうです。その人がどんなに優秀な人でも、平気で授業に遅刻してくるような人と仲良くしていたら、こちらの品位も疑われてしまうでしょう?」
「なるほど」
「冷たくする必要はないですし、喧嘩もダメですけどね」
「では、立派な人と友人になればいいのですね」
「そうですね。でも、あなたの美しさはあなた一人で生み出せるように努力してください。あなたが完璧で美しい女性になれば、自然と素晴らしい友人に恵まれますから」
「わかりましたっ」
「美しく生きなさい。アテナ」
叔母はそう言って優しくアテナの頭を撫でてくれた。容赦ないほどの意志の固さと、人の温もりを併せ持った女性なのである。
叔母がマーメイドになれなかったという話を母から聞かされた日、アテナは小学校の授業が全然頭に入らなかった。
雪がちらつく坂を駆け上がって帰宅したアテナは、タイミングよく掛かってきた電話の受話器に飛びついた。
「もしもし!? 叔母様!?」
『あら、ごきげんようアテナ』
「マーメイドになれなかったって本当ですか!?」
『本当よ。がっかりさせて、ごめんなさいね』
「い、いえ、私はいいんですけど」
叔母の声は妙に優しく、落ち着いていた。
『私の完敗ですから、いいんですよ。悔いはありませんわ』
「い、一体何があったんです? きっとライバルが卑怯な手段を使ってきたのでしょう!」
『いえ、その、別にそういうわけではありませんよ』
「そんな! 叔母様みたいに完璧な女性が負けるなんて、おかしいです!」
『違いますよアテナ』
「で、ではどうして・・・?」
アテナは鞄を足元に置いて受話器を握り直した。
『恥ずかしいけれど、マーメイドとキャプテンを決める選挙の前日にね、料理で対決したのよ』
「ま、負けてしまったのですか?」
『そういうわけじゃないんだけど、その・・・』
叔母はちょっぴり笑っていて、歯切れが悪い。
『相手のお料理に偶然、私の苦手な野菜が入ってて。フフッ♪ 無理して食べたら、目ぇ回しちゃったのよ』
「へ?」
叔母は家庭科室でぶっ倒れ、ちょっとした笑い話になってしまい、「完璧な人だと思ってたけど、割と普通なのね」みたいな空気になってしまったのだ。お陰で新たなファン層を開拓できたとも言えるが、選挙の結果には大きなマイナスとなる大失敗であった。
「そ、その・・・叔母様が苦手な野菜って?」
『カリフラワーですよ』
「え・・・!?」
嫌いな物が完全に自分と被っていたのでアテナは言葉を失い、ちょっぴり赤面した。親戚というのはそういうものである。
『私、本当に苦手なんです、カリフラワー。たった一つの弱点に足を引っ張られるなんて、ついてないですね♪』
叔母はもう気持ちの整理がついているらしく、清々しい気分で負けを認めていた。アテナはそんな叔母がとても可哀想だった。
(あんなに努力していた叔母様ですら就けなかったマーメイドって、一体どれほど凄い役職なのかしら・・・?)
アテナの将来の目標が「三日月女学園でマーメイドになること」となるまで、そう時間は掛からなかった。
そしてアテナは、叔母から貰ったアドバイスを叔母以上に実践していき、三日月女学園に入学後、学園でもトップクラスの「完璧な」美少女となった。友人は少なく、いつも人形のように固い表情をしているが、その代わりに圧倒的な尊敬を学園じゅうから集めているのだ。
「アテナ様、ずっと考え込んでいらっしゃるわ」
「数学の公式か何かを頭の中で復習してるのよ」
「ランチタイムなのに? 凄いわぁ」
「あ、動いた!」
「素敵ねぇ。身だしなみも完璧だわ~」
「アテナ様は間違いなくマーメイドになれるわねぇ!」
アテナは銀のフォークに映る自分の姿に、美しい叔母の姿を重ねた。
(叔母様、あなたが成し遂げられなかった夢は私が必ず叶えます。そのために私は、完璧な女になりましたよ)
初秋の潮風がそっと頬を撫でる窓辺で、アテナは上品にカリフラワーを口に運んだ。