68、予選
この島に咲く百日紅の花は、白いものが多い。
残暑の日差しと秋めいた風が交差する、ストラーシャ歌劇場前の広場で、月美と百合はもう1時間以上ベンチに腰かけており、雪のように白い百日紅の花を見上げていたのだ。
「どなたも来ませんわねぇ・・・」
「まだ諦めちゃダメだよ、もう少し待ってみよう」
まもなく13時になるというに、やってくるのは青い小鳥とウサギと小鹿だけである。
「ねえ、ピヨちゃん。誰か来てくれるかな?」
「ピヨ~♪」
月美の膝の上のピヨは、百合の質問に呑気な返事をした。
月美は先日、手紙を書いたのだ。『今年のクリスマスイブのお天気をご存知の方は、今度の土曜日の正午に、例の劇場の前に来て下さい』というメッセージを、島内のほぼすべての寮部屋に配達してもらい、その反応を待っているわけである。
現れる人物にどんなことを語ろうかと、月美は昨夜ずっと考えていたのだが、このまま誰も来なければそれも無駄になってしまう。この世界に、去年の世界の記憶を持っている者は月美一人だけということになるのだ。
「私だけなのかしら。こんな状況になっている女」
「そう考えると、ちょっと寂しいね」
「いえ、まあ・・・ハイ」
私には百合さんがいますから、それほど孤独に感じてませんわよと、月美は言いかけたのだが、猛烈に恥ずかしくなってやめた。桃色に染まった頬を百合に見られたくなくて月美をそっぽを向いたのだが、木陰に立っていた小鹿と思い切り目が合ってしまった。何見てますのよ、と月美は思った。
ちなみに今日、キャロリンたちは内海のビーチで海水浴を楽しんでおり、月美ももちろん誘われたのだが断ってここへ来たのだ。「新しく買った巨大たこ焼きのビーチボールを月美の頭にヒットさせるデース!」と息巻いていたところを断ったのだが、よく考えると海で遊べる時期もそろそろ終わりなので、最後にもう一回だけ遊んであげたかったなと月美はちょっぴり思っている。
さて、しばらくすると、小鹿の背中に乗ってウトウトしていた白ウサギが、耳をピンと立てて辺りを見回し始めた。
「あら、どなたかいらしたのかしら!」
「馬車が来たよっ!」
ビドゥ学区のものと思われる黒と金の機馬車が、林檎の木の向こうの日なたに深い陰を落としながら近づいてくるではないか。
しかもその機馬車に月美は見覚えがあった。女好きで尊大な態度が目立つが、実は性格が良い、あの人の機馬車である。
月美が駆け寄ると、機馬車はゆっくり停車した。窓から顔を出したのは、マロン色の巻き髪がエレガントなローザ会長である。
「ローザ会長! 来てくれましたの!?」
珍しく目を輝かせている月美に、ローザは少々驚いた。
「あらぁ! もちろんよぉ! 可愛い月美ちゃんと百合ちゃんのピンチにはいつでも駆けつけるわぁ♪」
「ん?」
「たまたま通りかかっただけだけど、何か困ったことでもあるの? お姉さんに言ってごらん?」
それを聴いた途端、月美はいつもの冷ややかな眼差しに戻った。
「あ、何でもありませんわ。さよなら」
「あら、いつもの月美ちゃんね」
ややこしいタイミングで通りかかるローザ会長が悪い。
「これから私たち、仲良く公務なのよ♪」
「え?」
よく見ると、ローザ会長の機馬車にはアテナ様も乗っていた。月美たちはアテナ様に会釈しておいた。
(アテナ様はローザ会長のことどう思ってるのかしら・・・)
月美が知っているアテナ様は、爽やかな性格の翼様と一緒に学園の平和を見守っているプリンセスみたいな人だった。ローザは非常に思いやりがある女なのだが、悪役みたいな振る舞いと軽薄な言動をするため、アテナ様が彼女を好いているとは考えづらいのだ。
「ご公務って、生徒会長としてのお仕事ですの?」
「そうよ、アテナちゃんにも付き合って貰うの」
アテナ様はクールな横顔を見せながら電子タブレットみたいなものをチェックしている。何を考えているか分からないミステリアスな女性だ。
「どうしてアテナ様と一緒ですの? いつもの双子ちゃんたちはいませんの?」
「ん~、月美ちゃんたちはまだ知らないかしらね♪」
「何をですの?」
「私はキャプテンに、そしてアテナちゃんがマーメイドに立候補することが決まったのよ」
「えっ!」
月美より先に百合が反応した。
「もう正式に決まったんですか?」
「そうよ、12月には選挙が行われるわ」
噂には聞いていたが、どうやらローザは本気で海賊船長になりたかったらしい。
「ローザ会長。そのキャプテンとかマーメイドとかは、生徒会長より偉いんですの?」
「当然よ。偉いというより、三日月女学園の文化的な頂点といったところね。5、6年に一度くらいしか選ばれないのよ」
皆の尊敬の的になることはもちろん、数百年の歴史を誇る殿堂の石版に名を刻むことができるのだ。権力欲に素直なローザは、絶対にキャプテンになりたいわけである。
海賊船長とも呼ばれるキャプテンはリーダーシップの象徴とされ、一方のマーメイドは慈悲の心を持つものに相応しいとされている。キャプテンとマーメイドは二人で一組とされ、個人では表現できない信頼関係の理想も体現することになっているのだ。
しかし月美の目に映るアテナ様は、愛しい人の隣に腰かけている表情はしていなかった。
(アテナ様はローザ会長のこと愛してるわけじゃありませんのよね)
アテナ様はとにかくマーメイドの座に就きたいだけであり、そのためにローザと協力する道を選んでいるのだ。彼女は自分の感情を殺している。
「月美ちゃんたちも一緒に来るかしらぁ? 面白いお仕事だけど♪」
「行きませんわ。私たちは忙しいんですのよ」
月美は小鹿の頭を撫でながらベンチに戻ることにした。
「そう、それは残念だわ」
再び電源を入れられた機馬車は、ウツクシウムの白い蒸気を上げた。石鹸みたいないい香りである。
「翼さんが世界的に有名な大会の予選に参加するみたいなのよ」
「え、翼様が?」
「そうよ。予選はカメラで撮影して、ローマとアテネにいる審査員たちにリアルタイムで見てもらうのよ」
便利な世の中である。
「内海のイーストサイドで撮るから、暇になったら応援しに来ていいわよ♪ それじゃあね」
「あ、ちょっと!」
ローザの馬車が行ってしまった。ビドゥ学区の機馬車は風が吹くようなキヒュ~という独特の音を立てる。
「翼様の挑戦をアテナ様が見守りに行くっていう構図が、偶然ですけど出来てますわね・・・」
「ラッキーだね。二人が仲良くなるチャンスだよ」
「そうですわね」
すると、広場に立ち尽くす月美たちの元へ、もう一台の黒い機馬車がやってきた。今度は6人乗りの機馬車である。
「もしかして双子ちゃんが乗ってるんじゃない?」
「あ、なるほど」
月美は機馬車に向かって小さな手を上げた。
「ごきげんよう。内海に向かってますの?」
馬車から顔を出したのは予想通り、ローザの付き人のキキちゃんとミミちゃんだった。
ちなみに中等部の生徒の夏服はセーラー服であり、よく見ると銀色の刺繍などが入っていて、清楚さとエレガントさを両立した可愛い服である。
「こんにちはなの。ローザ様のお手伝いをするために、内海に向かってるなの」
キキとミミは全く同じ顔をしているので、月美は今しゃべっている相手がどっちなのかよく分かっていない。
「私たちも行きますわ。乗せて下さい」
「月美たちも来るなの?」
「はい」
アテナ様と翼様の関係を見守る必要がある。このままでは、アテナ様はローザ会長のものになってしまうのだ。
「百合さん、行きますわよ」
「うん!」
機馬車に乗り込む時、月美は劇場前の広場を最後にもう一度振り返った。
(去年の世界を知っている人、この世界にはいないみたいですわね・・・)
月美一人ということである。
(去年、手紙を書いた生徒も、今の私と同じで、一人きりだったかも知れませんわね)
一体どんな人だったのか、知る由もないが、きっと苦労したに違いない。
(去年の差出人さんと、何だか友人になった気分ですわ。私には百合さんという最高の理解者もいますし、全然孤独じゃないですわね)
月美は機馬車に乗り込んだ百合と目を合わせてそっと頷き、ドアを閉めたのだった。
「今日の空と掛けましてぇ」
「掛けましてぇ?」
「イチゴ大福10個と解きますなの!」
「その心はぁ?」
「どちらも、秋(飽き)が来そうなの!」
「うまいなのー!」
この双子と行動を共にする場合、かならずこのような謎掛けを聞かされる。
劇場前の広場を出た機馬車はストラーシャの市街地をゆっくり抜けていく。サーフボードを抱えながら百合に手を振る生徒たちや、チェロみたいな大きな楽器を運ぶ楽団の生徒。そして歌いながら手を繋いで歩く陽気な子たち。実に様々な生徒たちの笑顔が、太陽の香りでいっぱいの街角に咲いているのが見えた。明後日から二学期なので、帰省していた生徒たちも全員島に戻って来ているのだ。
内海のビーチには既にギャラリーがひしめき合っていた。
夏の最後の思い出を海で過ごすためにやってきた水着姿の生徒が多い。
靴の中に砂が入らないよう慎重に歩く月美は、キキとミミの案内で無事にローザ会長と合流することに成功した。アテナ様もすぐ近くで日傘を差して立っている。
ローザはタブレット端末に向かって英語で何か説明しており、彼女が時折顔を上げて指差す先には桟橋があり、一台の白い機馬と、ライフジャケットを身に着けた翼がいた。
(あら、もしかして空を飛ぶ距離を競う大会の予選かしら)
月美の予想は当たりである。翼が出場を夢見ているのはイカロス競技会というものであり、手作りの飛行機に乗って飛び、飛行距離と美しさを競う大会である。一般的な小型飛行機を作って挑んでも好評価を得られないのがこの大会の面白い点であり、一見すると飛行など出来そうにないが、実はよく飛ぶという意外性が、得点に結びつく競技なのだ。
「翼さん、あの機馬で滑空するのかな」
「う・・・! そ、そうですわね」
油断していた月美の耳元で百合がささやいた。絶対わざとやっている。
ローザ会長のタブレットから、通話中の音声が聞こえてくる。
今ヨーロッパにいるという審査員のお姉さんたちは、まだ翼の飛行を見ていないのに英語でなにやらコメントをしてくれているのだ。若い世代がどうとか、将来に期待してるとか、そういうことを言っている。
「もしかして、翼さんがすぐに落下すると思ってるのかな」
「離島の子供が応募してきたと思ってナメてるんですわきっと」
翼はただの高校生ではない。
機馬を愛し、空を飛ぶことに憧れ、誰に馬鹿にされても挑戦し続けた女である。そして何より彼女には、体育祭の時に偶然編み出したあの秘策があるのだ。
ローザ会長が手を上げ、翼に合図を送った。
機馬にまたがった翼は、木製のレバーを握りしめ、ビーチから突き出た桟橋の先を見据えた。
(ア、アテナさんがいる・・・! まずい、緊張する・・・)
白砂が透ける波間の輝きが、ヘルメットの中を照らした。ちなみにヘルメットは顔が全部隠れるタイプであり、機馬が桟橋で転んでも美しい顔に傷がつかないようになっている。
(落ち着け・・・私はいつも通りやるだけだ。集中しよう・・・)
歓声と波音が混ざり合い、やがて不思議な静寂を感じた翼は、深く息をしてから機馬を発進させた。
翼の機馬は自転車のように軽やかに動き出し、桟橋を駆けて行く。
そのまま海にドボンと落ちるのだろうと、審査員は皆思った。しかし、生徒たちは分かっている。この後あの機馬は、ペガサスになるのだ。
(ここだっ)
翼は全身を上手く使って、機馬の前脚をひょいっと浮かせた。桟橋を叩いていた蹄の音は宙に消え、後輪が回る音だけが波音を切り裂いて進んでいく。
次の瞬間、小さな花火が炸裂したようなパンッという音と共に、機馬が白煙に包まれたのだ。
ビーチに集まっている少女たちは歓声を上げ、画面の向こうの審査員たちは「オー! 何が起きてるんです!?」みたいな感じで騒いだ。
(まだまだこんなものじゃありませんのよ)
月美はちょっと得意な気分になりながら、審査員たちの声に耳を澄ませて翼を見守った。
飛行機雲のように蒸気を引いて走る機馬は、桟橋の端に到達する同時に二度目の破裂音を響かせた。機馬は30度くらいの浅めの角度で宙に飛び立ち、三度目の破裂音でさらに上昇した。
ウツクシウムの鉱石と海水を反応させることで、凄まじい上昇力を発揮するガスが出ることは以前から知られており、近年の女学園島ではそれを利用して発電が行われるようになったわけだが、機馬そのものを宙に浮かべるというのは盲点であり、体育祭のレースで偶然空中浮遊をしなければ思いつかない発想だった。翼はあの時の経験を機馬改造に活かし、空飛ぶ機馬を作ったのだ。ほとんどコントロール不能なのは相変わらずだが、十数秒間、真っ直ぐに飛べるようになったのだ。
白い機馬は蒸気の跡をほとんど水平に描きながら少しずつ少しずつ高度を落とし、ガラスのように透き通る内海の静かな波間にゆっくりと着水した。50メートル近く飛んだことになる。
「すっごーい!」
「綺麗に飛びましたわねぇ」
月美は機馬にあまり興味がないのだが、数学のグラフみたいな綺麗な軌跡を描いて飛んだのでちょっと見とれてしまった。
審査員たちも大興奮で、オーマイガーとかアメイジングとかブリリアントなどと叫んでおり、月美が聞き取れる英単語は全て翼を称賛するものだった。
翼の機馬は、飛行に失敗し続けた者に特有の優れた防水技術で改造されているので、海面にプカプカ浮かびながらゆっくり前脚で泳ぎ、ローザたちが待つ浜まで戻ってきた。生徒たちの拍手と歓声で迎えられた翼の白馬は、水に濡れて真珠のように輝いており、火照った砂浜に爽やかな雫を降らせた。近くで見ると意外と大きい。
(これだけ活躍すればアテナ様も翼様に興味持つんじゃありませんの!?)
月美は足元に転がっている貝殻を拾うフリをしてアテナの前に出て、彼女の表情を確認してみた。が、アテナはいつも通りの無表情であり、月美と目を合わせて少し瞬きしただけだった。何見てるの、と思われてるかも知れない。
「翼さんおめでとう、審査員5名から合格が出たわ!」
「え!?」
予選突破である。翼はこの日を夢見て頑張ってきたら、胸がいっぱいだ。
「まさか本当に飛んじゃうなんてね、半年前は夢にも思ってなかったわ。おめでとう」
「ど、どうも」
ローザは翼のことをかなりバカにしていた女なので、ここでちょっと改心したようだ。努力家を笑っているといつか恥をかくという教訓である。
「大会は12月、ニュージーランドで開催されるわ。今度は現地に行くみたいね。がんばってね♪」
「は、はいっ!」
ローザたちの話を聞いていた月美は、ここで顔を上げた。
(え、12月・・・? ニュージーランド?)
ローザとアテナは12月に選挙を行い、学園公認のパートナーとなってしまう。そしてその時の翼は、大会のためにニュージーランドへ行っていて不在ということになるのだ。
月美と百合は気づいた。
(え、なんか、離れていってません!?)
これはピンチである。
翼とアテナの距離は縮まるどころか、どんどん遠退いているのだ。
二人が深刻な顔で考え事をしていると、どこからか巨大たこ焼きのビーチボールが飛んできて、月美の小さな頭にボフっとぶつかった。
「月美ぃー! 百合ぃー! 来てくれたデース!?」
空気の読めないキャロリンの笑い声は、月美と百合をちょっぴり癒してくれた。
最近は真剣にいろいろ考えすぎていたので、夏の最後のひと時くらい、頭を空っぽにして遊びたいものである。
「しょうがないですわねぇ」
大袈裟に溜息をつきながら、月美はビーチボールを拾い上げた。
「遊んであげるの?」
「・・・べ、別に。ちょっと投げ返すだけですわよ」
「ふふっ♪」
百合も楽しそうに微笑んだ。
「お返しですわよっ」
月美は靴の中に砂が入ってしまうのも気にせず、巨大なたこ焼きを太陽に向かって力いっぱい投げた。