63、仲良し馬車
夜明けの風は、とても瑞々しい。
海に浮かぶ入道雲も、夢の中で見かけるような優しいオレンジ色だ。
まだ月が出ている空は爽やかなブルーと紫のグラデーションを見せており、蝉たちより早起きをする海鳥たちの声と静かな波音だけが、朝の空気を独占していた。
「おはようございまーす! 郵便でーす!」
その静寂を破ったのは、郵便部の生徒の元気な挨拶であった。
こんな朝早くの郵便は何も言わずにポストに入れておいてくれればそれでよいのだが、初等部寮にも早起き自慢が一人いるから応対はできる。
「はいはーい! おつかれさまです」
寮の裏手の花壇に水をあげていたパジャマ姿のルネがロータリーに顔を出した。
「おはようございますルネ様。これ、浄令院千夜子様からお手紙です!」
「あらどうも。私宛て?」
「初等部寮の皆さん宛てです」
「へー。珍しい」
ルネは、粗い手触りがカッコイイ和風の便箋を受け取った。
「ちなみに、私たち郵便部員は今日から三日間、夏休みになりますのでご了承ください!」
「え、今日から? 今日はもうお休みってこと?」
「はい! でもこのお手紙は、ついでにお届けしました」
郵便部の彼女は大きな荷物を持っており、このまま午前中のフェリーで帰省するようだ。親切にも、ビドゥ学区の港へ行く前に、ここへ寄ってくれたらしい。
「ルネ先輩、サイン頂けますか?」
「あ、はい。そうでしたね」
ルネは受け取りのサインを書くつもりでペンを借りたが、少女が差し出したのは大きな色紙だった。
「サインって・・・ここにサインするんですか?」
「はいぃ・・・」
郵便部の生徒は頬を染めながらうっとりした。百合がハイパー美少女であるせいで、ルネはいつもそんなに目立っていないが、実は結構モテるのだ。
「夏祭りがあるデース!?」
一番最後に起きてきたキャロリンが、朝食のマフィンを頬張りながら飛び上がった。
「うん♪ 来週にね。その夏祭りの日、千夜子さんのとこの寮に泊りに来ないか、って誘われたよ♪」
「わーお!」
百合はダイニングで月美の髪を梳かしながら、手紙の中身を紹介した。月美はクールな顔を保つのに必死である。
(夏祭りねぇ・・・)
月美が過ごしていた去年の世界では、このストラーシャ学区の内海で大規模な花火大会があった。
もし同じ場所で今年も花火が上がるなら、この寮は最高の観覧席になるはずだったのだが、残念ながらアヤギメ学区で開催されるらしい。この学園の生徒の多くは日本出身だから、夏祭りと言えば神社というイメージがあるので、和風のアヤギメ学区がぴったりなのは確かである。
「私、浴衣が着たいデース!」
「千夜子さんの寮で浴衣貸してくれるって♪」
「千夜子ナイスデース!」
ちなみにキャロリンは千夜子が誰なのかよく分かっていない。
「問題がひとつありますのよ」
月美は百合に髪をいじられながらキャロリンに言った。
「千夜子さんの寮の電話が故障中らしくて、お手紙を使ってお返事するしかないんですけど、郵便部の生徒さんたちが今日から数日、夏休みになるんですのよ」
「オーノー」
「なので直接会いに行ってお返事しなきゃいけませんわ。機馬車に乗れば15分くらいですけどね」
早めに返事をしないと千夜子の来週の予定が立たないはずなので、月美たちはさっそく今日、アヤギメの千夜子に会いに行くつもりなのだ。
「それは機馬車で行くデース?」
「そうですわよ。キャロリンさんも一緒に行きます?」
「じゃあ私と桃香は歩いて行くデース!」
「ええ!?」
桃香が巻き込まれた。
「2グループに分かれる意味ありますの?」
「夏と言えば徒歩デース! 冒険しマース!」
キャロリンはただ桃香と一緒に遊びたいだけらしい。
キャロリンと桃香に全てを任せて月美たちは家で待っててもいいのだが、今のキャロリンの表情を見るに、ちゃんと目的地まで行ってくれる確率がかなり低そうなので、やはり月美たちは必要である。先に千夜子に返事を伝えてさっさと帰ってきてしまうことをキャロリンに理解して貰った上で、別行動することになった。
「じゃあ私と銀花はお留守番してようかなぁ」
「え!?」
キッチンでお皿を洗いながら話を聞いていたルネがそんなことを言い出したので月美は焦った。
「結構お外暑いから、今日は寮でゆっくり過ごそうと思って」
今年のルネさんはハイパー健康なので大丈夫だろうが、確かに銀花ちゃんの体力には不安がある。今日のように特に楽しいイベントがない日のお出かけ頻度は少なめにしたほうがいいかも知れない。
「じゃあ銀花ちゃん。私と月美ちゃんは隣街に行ってくるけど、お留守番しててくれる?」
「うん」
「お外暑いからね」
「うん」
百合に頭を撫でられて、銀花は嬉しそうである。
(わ、私と百合さんの二人で行きますのぉ!?)
なぜか月美は自然な流れで百合と二人きりになることが多い。毎日が試練である。
日傘さえあれば、暑さなど怖くない。
一度使うと手放せなくなる快適さとはまさにこの事で、体感温度がグッと下がるうえに紫外線までカットしてくれる究極の木陰がずっと自分についてくるようなものだから、心に余裕を持って夏を楽しみたい者にはオススメのアイテムだ。日傘そのもののデザインや立ち振る舞いも重要だが、お嬢様度を上げるのにも役立つはずである。
(ん~、美しい日傘ですわ・・・)
月美は自分の隣を歩いている百合のことを忘れ、現実逃避するために、懸命に日傘のことを考えている。
機馬車に乗るために月美たちがやってきた学舎前のロータリーは、意外なほど賑わっていた。
「え! あれ、百合様よ!」
「本当だ! 百合様ぁー!」
「月美ちゃんも一緒じゃん!」
「月美ちゅわ~ん」
直射日光で頭をやられた少女たちがどんどん集まってくる。
月美は元来、ちやほやされるのが大好きなお嬢様なのだが、小学生の姿を可愛がられるのはプライドが許さない。
「ゆ、百合さん。もうあの機馬車に乗っちゃいましょう」
「そうだねっ」
アイボリーの車体が美しい中型の機馬車を見つけた二人は、逃げるようにそれに飛び乗った。
窓にガラスがついていないタイプなので、きゃあきゃあ言う生徒たちの歓声はちっとも遠ざかっていないが、とりあえずひと安心である。
「ふふっ♪ そんなにきゃあきゃあ言われるのイヤなの?」
必死に逃げていた月美の姿に、百合はちょっと笑ってしまった。
「それはもちろんイヤですわよ・・・」
「そうなの?」
「ハイ・・・」
月美が持っている美意識とか、恥ずかしさの基準などを、かなり理解しつつある百合は、月美の表情の変化を見るのが近頃の楽しみになっている。
空の様子をよ~く観察して、「今日の夕焼けはきっと綺麗だろうな」と判断し、小さな山に頑張って登ってみた結果、本当に美しい夕日を見られた時、とても気分が良いわけだが、百合の心理はそれと同じような感じである。興味の対象を深く観察することは人生の大きな喜びだ。
「じゃあ、馬車の電源入れるね」
このタイプの機馬車はエアコン機能が無いのだが、窓が完全に開いているので、走り出せば案外快適かも知れない。
機馬車が動き出してすぐ、百合は車内の広さがちょっと気になった。
「私たちだけで出発して良かったのかな。アヤギメ方面に行く人と一緒に乗れば良かった」
この機馬車は6人乗りで、向かい合った二つの長椅子の間も広く空いていた。二人だけで乗るのはちょっと贅沢だったかも知れない。
「これで良いですわよ。私は静かな旅がしたいんですの。親しい人以外お断りですわ」
月美は格好つけながらそう言ったのだが、百合のことを「親しい人」と認めてしまった自分の発言が急に恥ずかしくなり、窓の外をプイッと向いた。百合が今の言葉を気に留めないことを月美は祈った。
「え、私のこと、親しい人って言ってくれたの?」
「い、言ってませんわ!!」
月美はこういう時、キャロリンの比じゃないくらいリアクションが大きい。百合は月美の顔を覗き込みながらくすくす笑った。
「言ってくれたよね♪」
「言ってませんわ・・・」
「そうなの?」
「んー! 百合さんちょっと近いですわ・・・! もう少しそっちに座って下さいぃ!」
照れている時の月美は実に可愛い。
しかしあまりグイグイ行き過ぎると月美ちゃんをへとへとにさせてしまうので、百合は適度に距離を置き、違う話題を探すことにした。太陽の弾む幻想的な赤いレンガの街並みが車窓いっぱいに広がっており、左から右へ風のように流れていく。
「ねえねえ、去年の話、もっと聞かせて」
「あら、突然ですわね・・・」
既に月美は、前回の女学園島について色んなことを百合に語っているが、自分と百合の関係については秘密のままである。「百合さんは私に愛の告白をしてキスまでしてくれましたのよ」なんて言えるわけない。
「んーそうですわねぇ・・・」
月美は情報を山ほど持っているが、何から話していいか分からなかった。
「何に関して知りたいとか、希望あります?」
「じゃあねぇ」
百合が再び窓の外に目をやると、ついこの前アテナと二人でおしゃべりしたカフェが見えた。晴れている時に見ると屋根がかなり派手な赤だった。
「アテナさんに関する話、聴きたいなぁ」
「アテナ様ですのね」
「うん。去年の世界で、生徒会長だったんでしょう?」
その辺はもう百合に話してあるのだ。
「そうでしたわよ。アテナ様は私たちより年上で、ビドゥ学区の生徒会長でしたわ。去年は3学区にそれぞれ生徒会長がいたことは説明しましたっけ」
「うん。アテナさんが生徒会長だったっていうのは、たしかに納得だなぁ」
百合は、ビドゥ学区の制服に身を包んで演台の前に立つアテナを容易に想像できた。
(アテナ様に関する別の情報となると、ルームメイトだった翼様の話がいいかしらね)
そう月美が思った時、百合が意外なことを尋ねてくる。
「ねえ、アテナさんと翼さんってどういう関係だった?」
「え!? どうしてそんな事訊きますの・・・?」
この世界のアテナと翼はほとんど接点がないはずなのに、なぜ百合が翼の名を出したのか分からなかったのだ。
「私この前、アテナさんと二人でしゃべる機会があったんだけど、会話に翼さんの名前が出たとたん、なんか変な感じになって、慌てて帰っちゃったんだよねぇ」
「え、アテナ様が?」
「うん」
「変な感じ・・・ですのね」
月美はここで、自分の人生を翻弄している謎の現象のしっぽを掴んだような感じがした。
(細かい変化はあっても、根本的な事とか、重要な事は変化しないんじゃないかしら)
つまり、前回の世界でラブラブだった二人は、今回もラブラブになる運命なのではないか、ということである。
(もしそうなら・・・私と百合さんは結ばれるはずですけど・・・)
月美の外見があまりにも幼くなっているので、なんだか望みは薄いが、諦める必要はないのかも知れない。愛する百合さんを他の誰かに取られてしまうことが月美にとっての最悪のシナリオなわけだが、せめてそれを避けるくらいの努力はすべきである。
(私が出来ることは少ないですけど、知り合いの恋愛も、前回の状態に近づけてあげたいですわね)
月美が把握しているカップルは少ないが、彼女たちの運命を、あるべき位置に導く事によって、まるで夜空の星座のように自分の運命も正しい場所に持っていけるかも知れない。
(ローザ会長とルネさん、そしてアテナ様と翼様・・・この二組が結ばれるように努力しようかしら)
恋のキューピットになるしかないようだ。
(なんだか、ようやく明確な目標ができましたわね)
キューピット役になるためには、伝言のためだけにアヤギメ学区へ向かっている今回のような使命を早めに達成し、寮へ戻って真剣に作戦を練るべきだろう。百合もきっと協力してくれるはずだ。
「百合さん、私、決めましたわ」
「あれっ?」
大事な話をしようとしたタイミングで、機馬車がみるみる速度を落とし、停まってしまった。一体何が起きたのか。
月美が外を確認すると、機馬車のすぐ横に見覚えのある野生動物がおり、つぶらな瞳で月美のことを見上げていた。
「あなたたち、何してますの・・・?」
「ピヨヨ~」
小鹿の背中に乗っている青い小鳥のピヨが、ホイッスルみたいな軽やかな声で返事をした。
今日は白ウサギちゃんも一緒であり、この3匹は前回の女学園島でもよく見かけていた組み合わせだ。こんなところにも運命は作用しているのかも知れない。
「たぶん、この子たちが近寄ってきたから自動で停まったんだね」
月美に体をぐいっと寄せながら百合が言った。
「な、なるほど・・・」
この機馬車は近くに生き物がいるだけで減速し、接近されたら自動で停車する超安全設計なのである。
「ピヨ~」
ピヨたちはストラーシャとアヤギメの間に流れる小川で水浴びをした後、木陰のそよ風で体を乾かしていたのだが、急に人間と遊びたくなって道までやってきたのだ。そうしたら仲の良い月美に偶然会えたから喜んでいるわけである。それにしても、月美はこの青い小鳥が空を飛んでいるところを一度も見たことがない。
「どうしよっか、月美ちゃん♪」
「え・・・それは・・・その・・・」
百合は自分の胸を月美の肩にそっと押し当ててくる。
「うぅっ!」
月美は席を移動して百合から逃げ、顔を赤くしながらちょっと考えた。ピヨたちを機馬車に乗せてあげることも、追い払うこともできる。どちらにすべきなのか。
(他人の恋の成就のために奔走しようと決意した直後に、自分本位ではいられませんわよねぇ・・・)
月美はやっぱり、この広い車内に二人だけで乗っていることに罪悪感を覚えていたのだ。
やがて月美は、機馬車のドアを開けた。
「一緒に来ますの? この馬車はペット持ち込みオーケーですわよ」
ピヨたちは嬉しそうに小躍りしながら馬車に乗り込んできた。小鹿ちゃんはさっそく木製の床に座り、快適な日陰を堪能した。
窓からちょっと顔を出しているピヨが、「どうだ、羨ましいだろう」みたいな顔をしているせいで、近くにいる野生動物たちが集まり、機馬車の様子を興味深そうにうかがっていたから、機馬車は自動でかなりの鈍足走行となった。いつの間にか月美たちは、動物たちのカーニバルの真ん中にいたわけである。
「月美ちゃん、あれってアライグマ?」
レッサーパンダにも見える謎の動物を指差しながら、百合は月美にグイッと体を寄せてきた。
「ちょ、ちょ、ちょっと待って下さい」
「ん、なぁに?」
月美は体をぐにょーんと曲げて百合の香りから逃げながら、さっきから気になっている疑問を百合にぶつけた。
「先程からどさくさに紛れて私にぐいぐい来てません!?」
「え? ぐいぐい?」
「なんかこう、触ってきてますわよね? わざとですの?」
百合は、実はこの質問を待っていたのかも知れない。
覚悟を決めるためのほんの一瞬の間を挟んでから、百合は笑って言った。
「わざとなわけないでしょ♪」
「いや、でも・・・」
「とってもクールで硬派な高校生だった月美ちゃんは、スキンシップに全然慣れてないから、顔を近づけたり肩に触ったりしただけで凄く敏感に反応して、ほっぺも耳も真っ赤にして恥ずかしがるのがすーっごく可愛いから、ついやっちゃうなんてこと、ないからね♪」
「や、やっぱりわざとじゃないですかぁあ!!」
赤面に気付かれていたことが判明して、月美は一層恥ずかしくなった。
「月美ちゃん、今は小学生なんだから、クールなお嬢様生活は忘れて、もっと私たちに甘えて良いんだよ♪」
「お嬢様生活とかじゃなくて、性格なんですのよ! 性格!」
「私のことお姉ちゃんだと思ってね♪」
「同級生だって知ってるくせに、無理な注文ですわ」
「顔赤いよ♪」
「もーう!!」
クールな性格と温かい友情の間に翻弄されて赤面しているというのは実は百合の勘違いであり、恋心に気付かれていないのは月美にとって不幸中の幸いであるが、こんな風にぐいぐい来られると月美はパニックである。
「月美ちゃんは、高校生の時に色んなこと我慢してたと思うの。だから、せっかく小学生になったんだから、一緒にいっぱい楽しいことしようね♪」
「別に・・・我慢してたわけじゃないですわ」
月美は実際、クールなフリをしているだけのポンコツ少女の側面があるため、そういう優しい事を言われるとウルッときてしまう。百合はなぜこんなに的確に月美の心のツボを押さえてくるのか。
「これからも、月美ちゃんの色んな表情、見せてね♪」
「イヤです・・・」
「私のことお姉ちゃんって呼んでいいよ♪」
「お断りです・・・」
「あ、今度一緒にお風呂入ろうね♪」
「いやいやいや! イヤですわ!!」
「どうしてぇ? ルネさんやキャロリンちゃんたちとは銭湯行ってるでしょ?」
「別に、仲良く一緒の湯舟に浸かってるわけじゃありませんわよ。私、個人行動が好きなので」
「ホントに?」
「はい。親しい人と同じ空間で仲良く過ごすような軟派な女じゃありませんのよ」
「でも私たち、仲良く馬車に乗ってるよ。可愛いピヨちゃんたちを乗せてあげたのも月美ちゃんだし♪」
「そ、それは・・・!」
「それにさっき、私のこと親しい人だって言ってくれたもんね♪」
「そ、それは言葉の綾ですってばぁあ!!!」
この人間たち、よくしゃべるなぁとピヨは思った。
動物たちに慕われる月美たちの機馬車が千夜子の寮に辿り着いた時、先に到着していたキャロリンと桃香が美味しそうにかき氷を食べていた。