61、ビーチボール
「じゃから、ローザ会長がキャプテンになるとは限らんじゃろう」
かき氷屋の軒先で、浄令院千夜子は木製の受話器に向かって文句を言っている。
「ビドゥの学園新聞がローザを推すのは当たり前じゃ。アヤギメはもっと公平な視点で書いたらどうじゃ」
千夜子は女学園新聞の内容に疑問があるらしく、新聞部の生徒にねちねちとアドバイスをしているのだ。彼女は正義感がある賢い少女なのだが、こだわりが強く、頑固なところがある。
「年末にはおそらく選挙になるじゃろう。それまでマーメイドとキャプテンの候補はあらゆる可能性を考えて・・・」
するとその時、見覚えのある少女たちがかき氷屋の前を通りかかった。千夜子は電話のコードを伸ばしながら軒先から顔を出した。
「百合たちじゃ。珍しいのう」
アヤギメ学区に百合たちが来るのは、とても珍しいのである。
「そこ左だよー!」
「オッケーデース!!」
軽やかなサンダルの足音が、ちょっぴり和風な大正浪漫の路地を駆け抜けていく。
月美、百合、ルネ、キャロリン、桃香、銀花といういつものメンバーは、海水浴をするためにアヤギメ学区までやってきたのだ。
海水浴にピッタリな場所と言えば、ストラーシャ学区の広大なビーチであり、しかも月美たちはそのビーチのすぐ近くの寮に暮らしているから、夏休みは泳ぎ放題なわけである。しかし今回、わざわざ島の東側までやってきのはワケがあった。
「わぁお! ホントに借り切りデース!!」
松林の向こうに、白い砂浜と青い海原が輝いていた。
先頭で浜に飛び出したキャロリンは、自分と太陽の間に広がる全ての空間が、自分専用の宝箱であるような高揚感に包まれ、気付いたらもう、波打ち際に向かって駆けだしていた。
「冷たいデース!!」
キャロリンの素足とサンダルの間に流れ込んだ波は、とても爽やかでくすぐったかった。もう彼女のワクワクを止められるものはいない。
「泳ぎマース!」
服をぽんぽんぽーんと脱ぎ捨てたキャロリンは、浮き輪を抱えて海に飛び込んでいった。シャツの下に水着を着てくるのは基本である。
「月美ちゃん! 早く早く♪」
海水浴に乗り気でない月美は、松林の道を敢えてのんびり歩いていた。
「も、もう・・・そんなにはしゃがないで下さい」
「そこ、段差があるよ。手ぇ繋ごうか?」
「や、やめて下さい!」
「ふふ♪ じゃあ早くおいで」
百合はわざとスキンシップを取ろうとして月美の反応を楽しんでいるところがある。
「貸し切り貸し切り! いつもここはビーチバレー部が使ってるんだけど、今日からしばらく夏季休暇だってさ」
ルネは麦わら帽子に乗せていたサングラスを目に掛け、松の木陰にレジャーシートを広げた。
「百合、私あの海の家行ってくるね。営業してるみたいだし」
「はーい!」
砂浜の照り返しによりルネのワンピースはちょっと透けていて、ライトブルーの水着がふんわり見えている。そんな彼女の美しい後ろ姿を、幼い月美は横目で追っていた。
(水着になりたくないですわぁ・・・)
月美もルネみたいに雑用をこなしていく係になりたいものである。
「わ、私も海の家に行ってきますわ」
「月美ちゃん、逃げようとしてなぁい?」
「し、してません・・・」
百合はレジャーシートの四隅にクーラーボックスや日焼け止めのボトルなどを置いて風対策しながら笑って言った。桃香ちゃんはキャロリンに誘われるまま泳ぎに行ってしまったし、いつも月美のそばにいる銀花ちゃんも静かな波が打ち寄せる渚の魅力に負けて貝殻を探しにいった。今は月美と百合の二人きりである。
「月美ちゃん、高校生の時に海水浴した?」
「こ、声が大きいですわよっ」
「誰も聞いてないから大丈夫♪ 去年の私と、泳ぎに来たのかな」
「いや、んー・・・」
去年のことを思い出すと月美はほっぺがハイビスカスみたいに染まってしまう。去年、高校生だった時の月美は、百合と一緒に海までは来たが特に泳ぐことはなく、岩陰でこっそり水着を見せて貰った経験があるのだ。神々しい百合の水着姿を前にして、あの時の月美は照れまくってしまったわけである。
「よいしょ」
「え」
レジャーシートの上に、百合の脱ぎたてシャツがふわりと落ちてきた。
顔を上げた月美の瞳の中で、水着姿の百合が太陽に向かってグッと伸びをしていたのだ。
「ななな、なんで脱いでるんですか!!」
「え、海に来たからだけど♪」
たしかに、これは百合が正しいわけである。
しかし百合は、月美を恥ずかしがらせようとしてわざと目の前で脱いだ感じもある。
クールな生き方をしてきた月美お嬢様は、フレンドリーなコミュニケーションや、距離感を無視した積極的な接し方に対して、異様に照れる傾向があり、その様子が可愛くてたまらないのだ。
「ほら、海に来たんだから普通でしょ♪ 月美ちゃんも脱いで♪」
「ま、待って下さいいい・・・!」
レジャーシートに膝をついてグイグイ迫ってくる水着姿の百合に、月美は尻もちをついて後ずさりした。手のひらで感じる砂浜は温かくてふかふかである。
「月美ー! 百合ー! 早く来るデース!」
「はーい!!」
百合がキャロリンに返事をした時、月美は危うく百合の胸元を直視してしまうところだった。百合のおっぱいは月美のお嬢様精神を破壊する最大の敵とも言えるので、気を付けなければならない。
「海きもちぃデース!!」
キャロリンたちが呼んでいる。日焼け止めを塗ってきたとは言え、夏の太陽はじりじりと肌を焦がしているから、波音に誘われるまま水面にザブンと飛び込んだらきっと気持ちいいだろう。
「じゃあ私、先に行ってるからね♪ 水着になって、すぐに集合するようにっ」
「あっ、はい・・・」
百合は月美に手を振りながら砂浜を駆けていった。
(こ、今年の百合さんは、前よりも積極的というか、ぐいぐい来ますわ・・・!)
高校生の時の月美はかなり美しいお嬢様だったから、百合はそれに対して無意識のうちに緊張したり照れたりしてたわけである。ところが今の月美は超キュートな小学生だし、中身とのギャップが余計その可愛さを増してしまっているから、百合はこのように遠慮なしなのである。
(まあでも・・・銀花さんと一緒に水遊びもしてあげたいですし、水着にはならないとダメですわね)
誰もいなくなったレジャーシートの上で、月美は静かにシャツとスカートを脱いだ。脱いだ服をしっかり畳むのがポイントである。
「こんにちはー。どなたかいますかー」
その頃、ルネは海の家に辿り着いた。
海の家というよりは小粋な喫茶店といった感じだったが、テラスに面した全てのドアが開いていて開放的であり、風鈴の音も涼し気で、夏の雰囲気は満載であった。
店員の生徒が一人、奥でかき氷器を洗っており、カウンター席には大人のお姉さんが一人いた。
「あれぇ、ルネちゃん? 珍しいところで会うもんやなぁ」
関西弁のそのお姉さんは、水着の上にオレンジ色のパーカーを羽織っている舞鶴先生だった。いつも白衣を着てストラーシャの保健室にいる先生が、海の家でメロン味のかき氷を食べているから、ルネは一瞬その人が誰か分からなかった。
「舞鶴先生! こんにちは。どうしてアヤギメに?」
「うちは今日、この浜のライフセーバーや♪」
この島にいる3人の保健医は夏の間、ビーチの安全を守る役割も担っているのだ。舞鶴先生はいつも、開いているのか閉じているのか分からない目をしており、にこにこフェイスの可愛さには定評があるのだが、医学と体育において抜群の知識量と実践力を持っているのだ。人は見かけによらないわけである。
「ライフセーバーって、溺れそうな子を助けてくれる人でしたっけ?」
「そうやぁ♪ でも今日は誰もビーチに来ぉへんから、かき氷タイムや」
「あ、たった今キャロリンたちが来たので、ライフセーバーお願いします」
「えぇ、今食べ始めたとこなんやけどぉ・・・」
「キャロリンたちのほうが大事ですよ」
かき氷のお代わりもするつもりだった舞鶴先生を無理矢理連れて、ルネはビーチに戻ることにした。
「もー、ルネちゃん元気やなぁ」
「ほらほら、先生も運動しましょー!」
ルネは太陽みたいににっこり笑った。去年月美が見て来た世界では丘の上の療養所にいたコンビが、今は熱い砂浜を駆けているのだから不思議な巡り合わせである。
仲間に入れて~、みたいな事を言うのが恥ずかしい月美は「とりあえず水の透明度だけでもチェックしますか」みたいな真面目な顔をしながら波打ち際まで歩いてきた。サンダルを脱いで歩くと足の裏が気持ち良い。
「月美ぃー! ビーチボールするデース!」
「わっ」
砂浜に打ち寄せた波は透き通るカーテンレースのように幾重にも重なって月美の素足を濡らしにきており、その上にカラフルなビーチボールが飛んできた。ボールを拾って顔を上げると、月美の視力の限界まで続く広大な海原と、仲間たちの笑顔が迎えてくれた。
(ゆ、百合さんもいますわああああ!!)
分かってて近づいたくせに、いざ側まで来るとつい視線を逸らしてしまう。
水深1メートル未満の遠浅のビーチはガラスのように透き通っており、銀色に輝く水平線の手前を大型船がゆっくり横切っていくのが見える。寮の目の前にある大きな浜は三日月型で、両端が海に向かって出ているわけだが、ここはその真逆の弧を描いているから、とにかく海が広く見えるのだ。
「月美さん、こっち~!」
月美がビーチボールを持ったままぼーっとしていると、珍しくハイテンションな桃香が手を振ってきたので、月美は投げ返すことにした。
しかし、これには少々問題がある。
(ビーチボールの投げ方なんて、知りませんわ・・・!)
月美は海で全く遊んだことないお嬢様なので、そもそもこんな空気の入った丸いビニールを抱き上げたのも初めてである。適当に投げ返せばいいのだが、百合も見ているこの状況でカッコ悪い動きはできない。月美はバスケットボールやバレーボールの授業を真面目に取り組んでいるのだが、その時の動きを、未知のビーチボールに対して応用できるほど運動センスに恵まれてはいなかった。
(格好良く投げたいですけど、私にそんな技術ありませんわ・・・!)
月美はこういう細かいところに非常に神経を使うお嬢様である。
(う、美しく投げられるかしら・・・! 阿波踊りのワンシーンみたいな変なポーズになっちゃったらどうしましょう!!)
阿波踊りをバカにしないで欲しいものである。
(普通に・・・人の背中をポンと押すような動きでボール投げられるかしら・・・!)
桃香ちゃんまではポメラニアン15匹分くらいの距離がある。高校生の背丈があった時ならまだしも、今は小学生だし、柔らかい砂の上に立ち、足首まで小波が打ち寄せているこの状況では届くかどうか怪しいものだ。
(で、でも、普通に投げるしかないですわ・・・!)
さっさと投げて欲しいものである。
(届いて下さいぃ・・・!)
月美は祈るような気持ちで、やや上方に向かってビーチボールを放ることにした。
「えいっ!」
水に濡れたビーチボールが、太陽に向かって濃い陰を作りながら飛んでいった。
サラサラ弾ける波音が月美の耳をくすぐり、火照った頬を風が駆け抜けていく。ビーチボールが宙に浮かんでいる瞬間は、ちょっぴり長く感じられた。
ビーチボールはそっと触れられた地球儀みたいなゆるやかな回転をしながら、やがて桃香の腕の中にスポンと収まった。お見事である。
「ありがと月美さん!」
桃香はそのまま自然にビーチボールをキャロリンにパスした。
(やりましたわぁああ!!)
月美は思わず、小さく飛び跳ねたのだった。
しかし、その様子を百合は見逃していなかった。
(月美ちゃん、可愛いいい!! ビーチボール真っ直ぐ投げられてあんなに喜んでる!! 硬派なお嬢様だから、やっぱりこういう遊びほとんどした事ないんだ!)
百合に見られていることに気付いていない月美は、困難を乗り越えた達成感から、クールな顔をしながら自分の髪をサッと撫でるお嬢様ポーズを決めた。
(つ、月美ちゃん! かっこいいポーズしてる! すっごい可愛いいい!)
お嬢様ポーズは高校生の時にやると本当に美しくてクールなのだが、今は逆効果かも知れない。
(月美ちゃんの可愛いところ、もっと見たいなぁ~・・・!)
百合たちはまだ海に来たばかりなので、月美の可愛い表情を見るチャンスはたくさんある。百合は銀花ちゃんからパスされたビーチボールを月美に向かって優しく投げながら、何か面白い作戦がないか考えていた。