60、アテナの赤面
アテナは非常に感情の起伏が少ない硬派な女である。
ストラーシャ学区の高等部2年生は美少女レベルが高く、百合やルネ、翼などがいるわけだが、その中でもアテナはクールさとエレガントさにおいて異彩を放っている。
「ブレンド頂けます?」
「かしこまりました」
夕立の強い雨脚に追われて喫茶店に入ったアテナは、まずカウンターでコーヒーを注文した。雨音が遠くに聞こえる店内には、ハチミツ色の電飾に照らされた味のある木製テーブルがたくさん並んでいる。エアコンが効いていてとても快適だ。
(人は少ないわね)
夏休みに入ったので街はちょっぴり静かだった。生徒のおよそ半数がフェリーに乗って帰省する予定であり、島にいる生徒の数は既に7割程度になっている。
梅雨が明けたというのに、なかなか強い雨だった。
女学園島は本来、カラッとした暑さが特徴の、爽やかな夏が来ることで知られる島なのだが、今日はじめじめしていた。
「あら?」
雨水のすだれが光る窓ガラスを何となく見渡していたアテナは、隅っこのテーブル席に見覚えのある生徒の姿を見つけた。あまり親しく話したことはないが、時々顔を合わせている百合だ。
(百合さん、お一人かしら)
挨拶くらいはしておいたほうが良い距離感である。アテナはレジの生徒からコーヒーを受け取ると、百合の席に向かった。
一方百合は、アテナの存在に気付かず、今日も月美のことを考えていた。
(月美ちゃん、喜ぶといいなぁ~)
喫茶店のすぐ隣の本屋で高校の参考書を何冊か買った百合は、喜びのアイスココアを味わっていた。参考書を月美にプレゼントする気なのだ。
(月美ちゃん、これからは堂々と高校の勉強していいわけだもんね。もちろん私と二人きりの時だけだけど♪)
二人だけの秘密が百合をドキドキさせた。あの可愛い月美ちゃんの中身が高校生だなんて、誰も夢にも思わないわけである。
ふと、柱時計に目をやった百合は、その横のブラックボードに貼られた一枚のポスターに気が付いた。そこには、ティーポットのように蒸気を噴き上げながら虹を飛び越える白い機馬が描かれており、『ストラーシャ機馬部メンバー募集ぅ~!』と記されていた。翼先輩の活躍により、ストラーシャの機馬部には注目が集まっている。
(高校生の月美ちゃんも機馬に乗ってたのかなぁ。きっとカッコ良かったんだろうなぁ)
白馬に乗り、夏の高原を風のように駆け抜ける背の高い月美ちゃんを想像して、百合はキュンとしてしまった。高校生の月美が可愛い系ではなく綺麗系の美人であることは明らかなわけだが、その見た目で実はこっそりクレープに憧れを抱いているというギャップもたまらない。
(そういう意味では、すっごく可愛いんだよねぇ・・・!)
百合はうっとりした。今すぐにでも月美に会いたい気分である。
(あら・・・?)
百合の席に向かっていたアテナは、百合の表情に気が付いた。機馬部のポスターを見ながら、恋する乙女みたいな顔でぼーっとしていたのだ。
(もしかして百合さん・・・)
ポスターには翼の活躍を称えるイラストが載っている。
(翼さんのこと考えてるのかしら)
アテナは見事に勘違いしてしまった。
(翼さんに・・・好意を抱いているの?)
とんでもない勘違いである。
(翼さんねぇ・・・)
翼のことを考えると、アテナは心がざわついた。
アテナにとって翼は、あくまでもただの同級生である。
アテナがマーメイドの座に就くためには、パートナーとなる女性が必要なのだが、それはほぼローザ会長で決まりである。アテナはローザ会長のことを別に愛してはいないのだが、自分をマーメイドに導いてくれる人物として尊敬しているわけだ。そのローザ会長の人気をより強固にするための体育祭で、予想外の活躍をしてくれちゃった翼のことを、アテナはむしろ厄介に思っているくらいだ。
(翼さんがどんな人なのか、私よく知らないのよね・・・)
学園のスターであるマーメイドを目指し、幼い頃から英才教育を受けてきたアテナと比べると、いささか田舎者感があり自由人でもある翼は、全く別の世界の住人であると言えるし、アテナの興味の対象ではなかったのだ。
(まあいいわ・・・)
何はともあれ、アテナは百合に挨拶することにした。
「こんにちは」
「あっ! こ、こんにちは!」
百合は慌てて姿勢を正し、前髪を整えた。あまりしゃべったことがないアテナお嬢様が声を掛けてきてくれたのだから、これくらいの反応は自然である。
しかし、アテナは勘ぐった。
(慌てて機馬部のポスターから目を逸らしたわね・・・。やっぱり翼さんのこと考えてたんだわ)
アテナは一緒に腰かけていいか確認してから椅子に腰を下ろした。エアコンのお陰で席でひんやりしていた。
二人の間に、ジャズと雨音とコーヒーの香りがゆったり広がっていく。百合は緊張してしまってなかなか口を開けなかったわけだが、こうして静かにティータイムをするのも悪くはなかった。
「百合さんはさっきまで、どなたかの事を考えてらしたの?」
「え!」
アテナが突然、意外な質問をしてきたので百合は動揺した。
「い、いや・・・いえいえいえ、考えてたというか、ええと・・・!」
百合は誤魔化そうとしたが、自分の慌てぶりが可笑しくってちょっと笑ってしまった。別に恋愛の話ではないのだから、もう少しフランクにしゃべっていいはずだ。
「そ、そうですね。暇な時につい考えちゃう人がいるんです♪」
「そうなの」
アテナはコーヒーを一口飲んだ。
(翼さんのことを、つい考えちゃうってことかしら。だとしたら、それはもう恋だけど・・・)
しかしまだ、相手が翼だと確定したわけではない。
百合は初等部の子たちのお世話担当の生徒であるから、その子たちのことをつい考えちゃう、という可能性もまだあるわけだ。
「その人ってもしかして、あなたよりずっと年下の子かしら?」
アテナは一応そう尋ねてみた。
「え? んー・・・」
百合は考えた。
(私にとって月美ちゃんは小学生じゃなくて、同級生なんだよねぇ・・・)
少し考えたのち、微笑みながら百合は答えた。
「ある意味、同級生ですよ♪ 年下とも言えるんですけどね」
「ある意味・・・? 面白い人ね、百合さんは」
アテナはこういう含みのある会話は嫌いじゃない。
(同級生ということは、やっぱり翼さんだわ。翼さんの純朴な性格から垣間見える幼さを差して言っているのよ。もうすっかり翼さんに夢中みたいね・・・。あの人のどこが良いのか、単純に気になるわ)
アテナは翼という人物に興味があるというよりは、百合の性格や嗜好について知りたいと思った。
「百合さんは、あの人のどういうところに惹かれているの?」
「え、あの人!? 誰のことしゃべってるかバレちゃってるんですか?」
「当然よ。私はエスパーじゃないけど、人の考えていること、ある程度なら分かるわ」
百合はちょっとドキッとしてしまった。まさか自分以外に、月美の正体を知っている人間がいるのだろうかと思ったからだ。しかし冷静に考えると、百合と月美の仲睦まじさを見抜かれただけのようだったので一安心である。
「えへへ・・・実はそうなんですよ。すっかり仲良くなりまして」
「やっぱり?」
「はい。私さっき本屋に行って参考書を買ったんですけど、これはプレゼントしようと思ってるんです」
百合はカバンの横の紙袋を差して笑った。
「あら、あの人そんなに学力不足なの?」
「いえいえ! むしろ私より勉強熱心なくらいですよ♪」
「そうなの。一緒にお勉強するってことなのね」
「はい♪」
「百合さんは親切なのね」
「いえいえ、私がお節介してるだけです♪」
アテナの知っている翼といえば、機馬の改造に夢中の変わり者といった感じなので、勉強を頑張っているのは意外だった。アテナはいつも総合成績が5位以内なので、その辺りの常連の生徒の成績しか知らないのだ。
「二人一緒にお出かけはするの? 勉強してばかりじゃないでしょう?」
「そうですねぇ」
クレープを食べに行った話は照れ屋の月美ちゃんのために内緒にしようと百合は思った。
「二人きりっていうのは滅多にないんです。海辺で散歩したり、っていう程度ですね」
「そうなの。あの人、海が好きそうだものね」
「はい。海をぼーっと見つめてる時もあります」
「なんとなく想像できるわ」
違う人物を想像しているのになぜか会話が噛み合っている。
「本当はもっと色んなところに行きたいんですけど、親しくなったのは結構最近なので、これからですね」
「あら、そうなの」
(親しくなったのは最近・・・ねぇ)
やっぱり愛の告白みたいなのがあったのかしらとアテナは思った。たしかに、体育祭の時の翼の人気っぷりは凄まじく、王子様キャラとしての地位が確立された様子だった。天使のように美しくて優しい百合とも釣り合うのかも知れない。
「なるほど、二人ともお似合いよ」
「え! お、お似合いとかじゃなくて、ただの友達ですけどね!」
百合は笑いながら手をひらひら振った。
「お互いの足りないところを長所で補い合えるような素敵な関係よ。あの人のどういうところが好き?」
「す、好きとかじゃなくて!」
「じゃあ、あの人の尊敬できる点を教えて。私あまり知らないから」
「そ、尊敬ですか。それなら結構ありますよ」
百合はちょっと照れながら、月美の横顔を宙に思い描いた。
「すごく頼りになるところとか、親切なところとか、ですかね」
「そうなの。親切なのね」
「はい。動物にも優しいですよ」
「動物にも、ねぇ」
アテナは、機馬の頭を撫でていた翼の笑顔を思い出した。
「確かに、あの人は生き物にも優しそうだわ」
翼のことは良く知らないが、結構良い人なのかも知れないなとアテナは思い始めた。機馬はもちろんロボットなのだが、物を大切にする人は生き物にだって好かれるだろう。
「優しいですよ~♪ ピヨちゃんっていう青い小鳥と仲が良いんですよ」
「青い小鳥? 縁起がいいわね」
「そうなんです。最近は私にも懐いてくれて、とっても可愛いです」
百合と翼が小鳥と遊んでいるところを想像して、アテナは微笑ましい気持ちになった。
「二人だけで食事へは行くの?」
「あー、あんまり行けませんね。だいたいいつも寮の友達が一緒なので」
「そうよね。この学園は誰かと二人きりになる機会が作りにくいのよ」
アテナと百合が二人きりでしゃべっているこの瞬間は、かなり希少な機会だと言える。
「レストランと言えば、百合さん、アウトドアはお好き?」
「はい、好きですよ」
「それなら、ちょっと面白いレストランがあるわ」
「教えて下さい!」
「アヤギメ神宮の裏手の屋外レストランなんだけどね、調理は料理部の生徒がやってくれるんだけど、鉄板の下の炭はお客が自分で火を点けるらしいのよ」
「へー! キャンプみたいですね」
「そうなのよ。私はアウトドアが苦手だけど、もし興味があるなら、薪割りも体験できるらしいわ」
「興味あります! 面白そう!」
「それは良かったわ。緑風庵っていう店だから、行ってみて」
「はいっ。教えてくださってありがとうございますっ」
「いいえ」
アテナはコーヒーをそっと飲み干した。
「翼さんもきっと楽しめると思わ」
「え、翼さん?」
「え?」
「え?」
二人は顔を上げ、目を見合わせた。
「あ、翼さんもアウトドアがお好きなんですか。じゃあ、月美ちゃんと三人で行ってみようかな」
「え?」
「え?」
アテナのまばたきが一気に増えた。
「つ、月美さん? 月美さんって、初等部の?」
「え、はい」
「あ・・・」
アテナは珍しく、本当に珍しく赤面してしまった。
感情の起伏がないことで有名な超クールお嬢様アテナが、線香花火の火の玉みたいに顔を赤くしたのだ。
(あ、私・・・何を勝手に勘違いを・・・! 月美さんの話だったのね。ということは、本当に恋愛の話じゃなかったってことなのね。私ったら、勝手に恋愛トークしてしまったわぁ!)
月美のことを「ある意味同級生です」などと妙な言い方をした百合が悪いわけだが、とにかくアテナは恥ずかしい勘違いをしてしまった。
「あの、アテナさんって翼さんのことお詳しいんですか?」
「ちょ、ちょっと用事を思い出してしまいました! 私はこれで、失礼します」
「えっ!」
アテナはコーヒーカップを持って席を立ち、小走りに去ってしまった。
(翼さんのことなんか普段考えていないのに、翼さんに詳しい人みたいに誤解されてしまったわ! な、なんでしょう、この気持ち・・・! 「私はエスパーじゃないけど人の考えてることは大体分かるわ」なんて言っちゃって・・・! 私、は、恥ずかしいぃ!!)
すっかり動揺しているアテナは、雨が上がっていることに気付かず傘を差して大通りを駆けていった。
(アテナさんって、ミステリアスな人だなぁ♪)
百合はそっと微笑みながら、彼女の背中をガラス越しに見送った。
光差す西の空が、濡れた路面に金箔をまぶしており、その上をいくアテナの姿は美しい切り絵のようである。高校生の月美ちゃんも、あんな感じの素敵なお嬢様だったんだろうなぁと百合は思ったのだった。