57、絆創膏
かすみ草のような、可憐な字が並んでいる。
ローザは薄墨色の退屈な眼差しでその便箋に目を通していた。
『親愛なるローザ様。先日の体育祭でのご活躍、とてもステキでした! 惜しくも2位でしたが、あなたの黒馬が風のように駆け抜けていく美しい後ろ姿が忘れられません! 今回は翼さんに負けてしまいましたが、キャプテンにふさわしいのはローザ会長、あなただけです! これからも頑張って下さい! 愛を込めて♪』
ローザはラブレターをよく貰っているのだが、今週届く手紙はみんなこんな感じである。
「ラブレターというより、励ましの手紙ね・・・」
ローザは珍しくイラついた様子で溜息をつき、便箋をベッドの上にポイッと放った。
「うっ・・・」
その拍子に、ローザは便箋のフチでちょっぴり薬指を切ってしまった。人の手紙を投げるなんてひどいことをしたから罰が当たったわけである。
ローザの自室に薬箱はないので彼女は仕方なく寮の一階の洗面所に向かった。生徒会寮にはなぜか、洗面所の引き出しに薬を置く習慣がある。
「あら、最悪・・・」
絆創膏のストックがちょうど無かった。指先の傷など大したものではないが、これを機に近所の寮へ分けてもらいに行くべきかも知れない。こういうのは気づいた時に補充しておかないと後悔することになる。
「ええ!? ローザ会長とルネさんが、恋人同士だったの!?」
「こ、声が大きいですわっ」
こちらはストラーシャの浜辺にほど近い、初等部寮である。放課後の水色の風が吹く二階の大部屋は、今日も百合と月美の内緒話用の部屋になっていた。
「ほ、ホントに? ローザ会長とルネさんって、すっごく仲悪そうだけど」
「私が去年いた世界では恋人というか・・・少なくとも親友でしたわよ」
「へー、びっくり・・・」
この世界のルネは、才色兼備のアテナに憧れており、そのアテナを利用してキャプテンの座を狙うローザのことを敵視しているのだ。百合は、月美が話してくれる去年の世界の話の中で、この件が一番衝撃的であった。
「ルネさんがねぇ・・・」
「はい。信じられないとは思いますけど・・・」
その時、寮の前のロータリーの花壇で遊ぶキャロリンたちの声を耳にした月美は、急にルネの居場所が気になった。
「そういえば、ルネさんは今どこにいますの?」
「図書館に寄ってから帰ってくるみたい。大丈夫、私たちの話は聞かれてないよ♪」
「そうですのね」
「でもさ、仲良しだったはずの二人が犬猿の仲みたいになってると、寂しいよね」
「その通りですわ。去年の記憶がなかったらこんな気持ちにはなりませんのに・・・」
丘の上の療養所で、ローザが訪ねてくれるのを待つ健気なルネの姿を、月美は忘れられない。
さて、近所の寮で絆創膏を一箱分けてもらったローザは、ガルーフィ大聖堂の脇を通っていた。
重厚なレンガの街並みが印象的なビドゥ学区においても、ガルーフィ大聖堂は特に荘厳であり、緻密な建築技術が結集したバロック風のシルエットが天を突いて風を受ける様子は、黒いドレスの女王と称えられる美しさである。
その大聖堂の西口の階段に、少女が4、5人集まって話していた。
「ねえねえ! 今週の女学園新聞見たぁ!?」
「今見てるとこ」
「翼先輩の写真、素敵よねぇ!」
「天翔ける翼、ゴールテープを切る、ですって!」
「かっこいい~!」
週一回発行の女学園新聞は、ビドゥ学区の新聞部が書いているから、ビドゥ学区のスターであるローザ会長をちやほやする記事が多いのだが、今回だけは違うようである。ストラーシャの機馬マニアの変人という扱いだった翼の知名度は、体育祭で一気に上がったのだ。
「面白くないわね・・・」
ローザは香り豊かな海藻チャウダー専門店の前で立ち止まった。
「キキ、ミミ」
「はいなの!」
「はいなの!」
双子の付き人、キキちゃんとミミちゃんはどこからともなく現れる。
「ちょっと話があるわ。体育祭の機馬レース、あれは私が翼さんに負けたって言われているけど、私はそうは思わないわ」
「でも負けてたなの」
「負けてたなの」
意外と辛辣な付き人たちである。
「・・・私は確かに負けたけど、あれは翼さんに負けたんじゃなくて、初等部の月美ちゃんに負けたのよ。月美ちゃんが私のズルに気付いて、百合ちゃんや千夜子さんに告げ口したのが、全ての始まりよ」
「なるほどなの」
「これから先、私の野望の邪魔をしたら許さないわよって釘を刺しておかないとダメね。月美ちゃんと百合ちゃんの今の居場所は分かる?」
「調べるなの」
キキは内ポケットから素早く手帳を取り出して開いた。
「掃除当番も委員会もなしなの。もう寮に戻ってるはずなの」
「じゃあストラーシャの初等部寮へ行くわよ」
ローザはさっそく、大聖堂のエントランス付近に停車していた自動運転の機馬車に乗り込んだ。行動力だけは抜群なのである。
本が5冊も入ったトートバッグを抱え、ルネは寮に向かっていた。
初等部の子たちが楽しめるような美術の題材を図書館で探してみたところ、意外とたくさん見つかったのでルネはご機嫌である。簡単なねんど遊びから毛糸手芸まで、幅広い資料を仕入れてきたつもりだ。
「ん?」
ルネたちの寮が見えてきた頃、コーヒー豆を挽くガラガラという音がこぼれるカフェの向こうから、一台の黒い機馬車が近づいてきた。ビドゥの機馬車がこの道を通るのはちょっと珍しい。
(え・・・! あ、あれって!)
ルネの心臓は急に高鳴った。
機馬車は砂煙を上げながら、ルネの前で停まった。
「あら、ルネさんじゃない。ごきげんよう」
「ロ、ローザ! どうしてここへ?」
ルネは年上のローザを呼び捨てにすることで有名である。
「別にぃ。あなたに会いに来たわけじゃないわよ」
「・・・分かってますけど」
「月美ちゃんと百合ちゃんに用があるのよ♪」
「え? 月美と百合に?」
また悪さをするに違いないとルネは思った。
「それじゃあね♪」
「ま、待ちなさいローザ!」
走り出した機馬車に追いつけるわけはないが、プルメリアの木が生える芝生を突っ切って走れば寮に先回りできるかも知れない。ルネは本を抱えたまま駆け出した。
寮のロータリーに着いたローザは、キキとミミを車内に残して馬車を降りた。
花壇付近で遊んでいたキャロリンたちは既に砂浜へ遊びに行っていたので、そこには初夏の香りの浜風が花を撫でて吹き抜けていく静かな陽だまりがあるのみである。
「・・・なんだか、懐かしい感じがする寮よね」
何気なくそう呟いたローザの元に、息を切らしたブロンドヘアーの少女がやってくる。
「はいはい、ここまでにしてくださーい。どうせ月美や百合に変なこと言うんでしょ?」
「ルネさんには関係ないわよぉ♪」
「帰って下さーい♪」
「いやでーす♪」
二人は満面の作り笑いで攻防を繰り広げるが、ローザより背が低い上にバッグで片手が塞がっているルネはちょっと押され気味である。ルネは少しずつ後退していった。
「も、もう! 帰りなさいよぉ!」
「いやよ♪」
「ローザはしつこいのよ! もっと正々堂々と、自分の力でやりなさいよぉ!」
「今自分の力で前に進んでるわよ♪」
「か、帰りなさいってばぁ!」
ルネの身にちょっとした事件が起こったのは、ちょうどこの瞬間である。
じりじりと後ずさりしていたルネは、花壇を縁取るテラコッタレンガの角に、こつんとかかとをぶつけてしまったのだ。後ろ向きにひっくり返ったルネは、花壇の中の柔らかい土に手を突くことでかろうじて受け身を取ったが、結構派手に転んでしまった。
「あら・・・大丈夫!?」
ローザは思わずそう言った。目の前で人が転んだら、誰だって心配してしまうわけである。
「いてて・・・」
「大丈夫かしら・・・?」
「大丈夫よ、これくらい・・・」
花壇の花たちは無事だったが、ルネの膝のあたりに小さな傷がついてしまった。
(え・・・傷・・・?)
ローザの胸は不思議な高鳴りを始めた。
自分の感情や、ここまでの流れを一切無視した運命的な展開を感じたのだ。
「もー・・・ローザと一緒にいるとろくなことがないわ」
ルネは手についた土を払って起き上がったのだが、そこであまりにも意外なものを目にする。
「え・・・?」
ローザはルネに、あるものを差し出したのだ。
「・・・使いなさいよ。たまたまポケットに入ってたのよ」
それはローザが先程偶然貰いにいった絆創膏だった。
「・・・あ、ありがと」
ルネは礼を言う以外に言葉が見つけられず、胸の中で爆発する恥じらいだか喜びだか分からない感情が行き場を失くして、自分の顔を熱くするのをただ感じているだけだった。
絆創膏はルネの膝の傷をぴったりとカバーし、ズキズキとした痛みを一瞬で取り去ってくれた。元気に走り回れる脚を、彼女は大事にしなければならない。
「あ、そろそろピヨたちが来る時間ですわ」
二階の大部屋で百合と二人きりで話していた月美は、そろそろ恋のドキドキで体が限界を迎えそうだったので、適当な理由をつけて外の空気を吸うことにした。わざわざ一階へ下りなくても、大部屋には広くて立派なベランダがあるため、砂浜と水平線で目を癒すのは簡単である。
ベランダ用のサンダルに履き替えた月美は、鮮やかな人工芝を踏みしめてベランダの手すりに歩み寄った。
「え?」
月美は眼下のロータリーで奇妙な光景を目にする。
「どうかしたの?」
「しー。ほらあれ」
一歩遅れてベランダに出てきた百合も、月美の指差す先を見て目を丸くした。
ローザ会長とルネが、二人並んで花壇の前にしゃがみ、花を手入れしていたのだ。
「どうして私がこんなことしなきゃいけないのよ」
「ローザのせいで私が転んだんだから当然よ。ほら、土を戻して」
「ちょっと! 制服に土がつくでしょっ」
「ごめんなさーい。土が可哀想よね」
「憎たらしい人ね・・・」
口では喧嘩しながらも、二人は花壇を元通りに整えたのである。太陽が透ける洗い立てのシーツによく似た、美しいホワイトペチュニアの大輪が、二人の間でふんわりと風に揺れた。
二人の様子を、百合はちょっぴりうっとりしながら見つめていた。
あぁ、月美ちゃんの言ってることは全部本当なんだなと、百合はこの時思ったのだった。