56、月美の居場所
水彩絵の具が微かに香る、不思議な暗闇である。
シャワー上りの月美は寮の二階の大部屋に一人でこっそりやってきて、電気のスイッチを入れた。
「ばぁ!」
「ひいい!!」
「ふふっ♪」
なんと、月美より先に百合がいた。百合は近所のお風呂屋から早々に戻ってきていたらしく、待ち合わせ場所であるこの大部屋の暗闇に息を潜めていたのだ。
「も、もう! 古典的ないたずらして!」
「えへへ♪」
ルネが運営する美術クラブの活動に使われることが多いこの大部屋には、メインの蛍光灯以外にもお洒落な調光電灯があり、寝る前の時間をのんびり過ごすのにちょうどいい明るさと雰囲気を演出できる。照明を暖色で統一すれば、静かな夜の海が見える大人のアトリエに大変身だ。
「さてさて」
百合はコーヒー用のミルクを溶いたホットココアをローテーブルに二つ置き、月美を手招きした。
「面談始めますよ~」
「め、面談・・・?」
「誰にも内緒の、秘密の面談ね♪」
そろそろ体育祭の疲労が睡魔に化ける時間帯だが、最低限のお話をして貰わなければ百合は眠るに眠れない。「ちょっと散歩してくるね」などとルネに言い残した百合は、月美と約束した大部屋に来たわけだ。
「座布団あるよ。どっちがいい? ウサギのやつと、お花のやつ」
「どっちでもいいですわ・・・」
「もっと小学生らしい可愛い反応しないと、高校生だってバレちゃうぞ♪」
「はい・・・」
大部屋は基本的に、フローリングの上に椅子やテーブルを置いて、絵を描いたり工作したりする場所なのだが、部屋の一部には芝生色のもこもこカーペットが敷いてあり、ゴロゴロしながらくつろげるようになっている。絵の具で汚れると面倒なので、カーペットは美術部の活動時間外に敷いて使う、リラックス用だ。
「さて、じゃあ何から説明してもらおっかな♪」
「・・・何でそんなに嬉しそうですの?」
「えへへ♪」
二人きりの空間に緊張している月美は、ポメラニアン二匹分くらいの間をとって座布団に腰を下ろした。湯上りのさらさら素足とカーペットが触れ合ってちょっと気持ちいい。
とにかく月美は、自分を信じてくれた百合のために誠意を持って説明しなければならない。しかし、何から話せばいいか分からないほどに事態は複雑である。
「えーと・・・何から聞きたいとか、あります?」
「じゃあ一個目はねぇ」
百合は白いパーカーの紐を指先でくるくるといじりながら質問を考えた。
「月美ちゃんは、別の世界から来たってこと?」
その通りなのだが、なんだかそう表現されてしまうと一気に嘘っぽくなってしまい、月美は少々恥ずかしくなった。
「ええまあ・・・。でもそんなファンタジーな感じじゃないんですのよ。この学園の高校一年として普通に生活してたら、12月のある日に気絶しちゃって、気が付いたら9才の体になってて、おまけに4月になってて、学園の様子も変わってたってことですの」
「なるほど。どうしてそんなことになっちゃったか心当たりあるの?」
「ないですわ」
「全く?」
「はい。なんで私だけがこんなことになってるのか、なんで私だけが別の女学園島の記憶を持ってるのか、そういうのも不明ですわ」
「そっかぁ」
ここ100年くらいの科学の進歩を見れば、現在の常識では説明できない現象を必ずしも空想の話だと切り捨てることは出来ないだろう。月美の身に起きた謎の現象が、いつか解明される日が来てもおかしくはない。
「あの・・・本当に信じてくれますの?」
「うん、信じてる♪」
百合は即答した。百合は第六感とも言うべき根拠のない感覚に従って月美を信じているわけだが、これは去年のことを百合が心のどこかで覚えているからなのかも知れない。
「ねえ、もっと色んなこと聞かせて。去年月美ちゃんが経験した女学園のこと」
月美はホットココアの湯気が明かりに照らされて金色に揺れる様子を見ながら、そっと頷いた。
「私と月美ちゃんはどんな関係だったのかな」
「うっ・・・」
月美はドキッとしてしまった。愛の告白を経てキスまでしちゃっているのだから二人は恋人同士なのだが、そんなこと恥ずかしくて言えない。
「ルームメイトだったんだっけ? 仲良しだった?」
「そ、そうですわね。仲良しというか・・・」
月美はココアを口に運び、気持ちを落ち着けてから続けた。
「私は去年、高校一年生で、ビドゥ学区の生徒として三日月女学園に入学しましたわ。それでまあ、ローザ会長が色々絡んでくることなので端折りますけど、百合さんもビドゥ学区に来て、私のルームメイトとして暮らすことになったんですの」
「その世界にはローザ会長もいたんだ」
「はい。というかここにいるほとんどの生徒がいましたわ。・・・綺麗子さんってご存知です?」
「綺麗子さんって・・・山田綺麗子博士のこと? ウツクシウムガスを発見した伝説の卒業生って言われてる」
「はい。その綺麗子さんなんですけど、去年は私たちの同級生で、しかも隣の寮部屋に住んでましたわ」
「えええ!?」
「ちなみにウツクシウムガスを発見したのは完璧に偶然で、たしかあの日は、化石を見つけたいとか突然言い出して私たちも同行しましたのよ。そしたら地面からシュ~って風が出て来たらしくて・・・とにかく綺麗子さんは思い付きで行動するタイプでしたわ」
「そ、そうなんだ・・・」
「まあ、面白くて凄く良い人なんですけどね。キャロリンさんみたいな感じですわ」
「へー。なんかちょっと意外だなぁ」
この世界の綺麗子は天才科学者として知られており、数学の新公式を12個発見したとか、原子を並べて自画像を描いたとか、そういう天才的な逸話がたくさんあるのだが、その全てが本人による作り話である。綺麗子はちょっと幸運だったためにガスを掘り当てただけのポンコツお嬢様であり、同時にとっても可愛い、愛されキャラでもあった。このことを知っているのはこの世界では月美だけなのだ。
「話が逸れちゃいましたけど、とにかく私たちは、まあ、いいお友達でしたわよ」
「一年間一緒に暮らしたの?」
「そうですわね。正確に言えば9か月くらいですけど」
百合はランプの明かりを見つめながら指折り何かを計算した。
「私は今高校二年生なんだけど、じゃあ月美ちゃんも本当は今頃高校二年生ってことかな」
「えーと、まあ、3か月くらい眠ってたならそうなりますわね。とにかく、百合さんとは同い年ですわ」
「へー♪」
百合は何度も小さく頷きながら、月美の瞳を覗き込んでいたが、やがて月美にもたれかかるように迫り、彼女の小さなほっぺをつついた。
「こんなに可愛いのに?」
「や、やめて下さい! 私は百合さんの同級生なんですの!」
「こんなに可愛いのにぃ!?」
「も、もう! 子供扱いしないで下さい!」
大好きな百合さんが、今まで以上に親し気なコミュニケーションを図ってくる。月美は冷静さを失わぬよう、わざと不機嫌そうな顔をした。
「しかも私、ただの同級生じゃありませんから。すごくクールで評判のお嬢様でしたのよ」
「へー♪」
「ほ、本当ですのよ!!」
百合は笑いながら月美の髪を撫で、「信じてるよ」と囁いた。その声だけはどこか真剣で、ふざけているようには聞こえなかったから、月美は余計ドキドキしてしまった。
「・・・ゆ、百合さんはもうちょっと、距離感を弁えて下さいます? 私スキンシップは好きじゃありませんのよ」
「はーい♪」
「だから! 近いですってばぁ!」
百合が月美に対し、グイグイいくのには理由が二つある。
一つ目は単純に、月美のことが可愛いからだ。
自分は高校二年生だとか、クールな女性なのだとか説明しており、実際その通りなのだろうが、体はどう見ても小学四年生なのである。いっぱい可愛がって、照れている様子を見たくてたまらなくなってしまうのだ。
そして二つ目は、百合が感じている運命的な絆への信頼である。
この子、普通の小学生じゃなさそう・・・と直感的に疑い、アプローチし続けたら、本当に凄い秘密を持っており、しかもその人と秘密を共有し、特別な関係になれたという運命的でドラマチックな経験、これが百合を積極的なお姉さんに変身させている。
「他に伝えておきたいことと言えば・・・んー」
月美は、ローザ会長をはじめとする仲間たちの顔を思い浮かべた。
ローザ会長はルネと、そして翼はアテナとラブラブになるはずであり、少なくとも、月美が見てきた去年の世界ではそうだった。しかしそれがこの世界でも同様かは不明である。
(もしも違う人と恋人になっちゃうような世界だったら・・・私と百合さんが恋人同士になれるとは限らないということになりますわ・・・。今の私は所詮小学生。大人の魅力を持った高校生のお姉様たちが百合さんに猛アタックしてきたら、運命も変わっちゃうんじゃないかしら・・・)
それだけは絶対避けたい悲劇である。
「月美ちゃん、脇腹苦手?」
「あ! ちょっと!」
深刻な表情で口をつぐんだ月美を元気づけるため、百合はくすぐりを敢行した。
が、あまりの不意打ちになったためか、月美が意外にも全く逃げず、結果として百合は月美に密着してしまった。
(あ、どうしよう)
可憐なシャンプーの香りに少しキュンキュンしてしまった百合は、照れ隠しをするために、「わ~」みたいな適当な声を出しながら、バランスを崩したフリをして、そのままぐでーんと横になることにした。
一方月美は、百合への恋心を持て余すうちに、百合に対する抵抗力を失っており、ちょっと押されただけで倒れちゃうくらい脱力したぬいぐるみ状態だったから、百合の優しい腕に軽く抱かれたまま一緒に横になってしまった。
月美の小さな背中に、百合のおっぱいがギリギリ触れない感じの絶妙な距離感で、二人はカーペットの温もりに体を預けた。恋の火照りとは別に、体育祭の疲労感もじんわり足から広がっていくので、月美はぼーっとなってしまった。ローテーブルの大きな陰の向こうで、ハチミツ色の座布団がランプに照らされているのが見える。
「月美ちゃん、元いた世界に帰りたいの?」
百合の優しい声が月美のうなじをくすぐった。
何気なく訊いているようだったが、これは二人にとってとても重要な問いである。
「帰る場所なんてありませんわ」
これが月美の答えだった。
「どうしてそう思うの?」
「私は・・・去年一緒に暮らして百合さんと、今私の背中にひっついている百合さんが、別人だとは思えないんですわ」
しゃべりながら月美は自分の耳が赤くなっていくのを感じた。
「だから、去年いた女学園島が形を変えて今の姿になっているというのが私の結論ですのよ。帰る場所なんてありませんわ」
百合への恋心を間違って吐露しないよう月美は発言のひとつひとつに精神を集中している。
「一人きりで、色んなこと、考えてたんだね」
「まあ、その・・・はい」
月美は、自分の小さな胸の中から孤独感がほどけて消えていくのを感じた。月美の毎日は、足元がおぼつかない玉乗りみたいな心境の中にあったのだが、ここでようやく地に足が着いたように思えたのだ。去年までの記憶が、セピア色に焼けて額に縁どられ、アルバムの中に閉じられたように感じられた。
「じゃあ月美ちゃん。月美ちゃんの帰る場所は、ここってことだね?」
百合は月美の細い体に温かい腕を回し、優しく抱きしめた。
ずっと心細かった月美にとって、愛情に溢れる百合の言葉と心遣いは涙が出るほどありがたいが、とりあえずちょっと離れてくれないと月美の体が恋の熱でどうにかなってしまいそうだった。
一方百合は、秘密を共有して特別な絆で結ばれることになったこの月美ちゃんという不思議な少女が、自分とは違う場所を目指して歩いて行ってしまうことを無意識に恐れ、寂しく思っていたのだが、ここにいてくれると確認出来てとても嬉しかった。妙なことだが、これがとってもとっても嬉しかったのだ。
「ねえ月美ちゃん!」
百合は空気を変えるため、ちょっと明るい桜色の声で尋ねた。
「なんかさ、目標とかある? 早く大きくなりたいとか?」
「いや・・・そんな急成長は無理だと思ってますわよ。私タケノコじゃないんで」
「じゃあ、高校の制服着たい?」
「・・・30センチくらいのブーツも貸していただけます?」
「高校の勉強教えてあげよっか!」
「・・・百合さんこの前の積分の宿題結構間違ってましたわよ」
「もー♪」
くすくす笑う百合の手の温かさは、パジャマ越しに月美の肌に染み込むようだった。
またしても軽めにくすぐり始めた百合の手から逃れるように、月美は小さな体をもぞもぞ動かして寝返りを打った。ランプに照らされた百合の優しい横顔と向かい合うと、月美はなぜか動けなくなってしまった。街角を歩いていたら不意に美しい満開の桜に出会い、思わず立ち止まってぼーっと見上げてしまった経験がある人もいるかも知れないが、それとだいたい同じ現象である。
「月美ちゃん、これからよろしくね」
月美と百合が本当の意味で出会ったのはこの瞬間かも知れない。月美はカーペットに頬をつけながら、小さく頷いた。
「月美が行方不明デース!!!」
「うわああああ!!」
泣きじゃくりながら大部屋に飛び込んで来たキャロリンは、両脇に桃香と銀花ちゃんを抱えていた。キャロリンの声に仰天した月美はお嬢様らしからぬ大きなリアクションをしてしまったわけだが、そのお陰でキャロリンは薄明りの中からすぐに月美の姿を見つけることが出来たのである。
「月美ぃいいい! 桃香のおっぱいを触りにいこうと思ったら、隣の二段ベッドに銀花しかいなかったデース! 消灯時間はオバケが出マース!」
キャロリンは月美に抱き着いて肩をぶんぶん揺さぶりながら泣いて喜んだ。安心した桃香は遠慮がちに笑いながら座布団に腰を下ろし、銀花は月美の手をそっと両手で握った。こんなに心配されると思ってなかった月美はちょっぴり目を丸くしてしまった。
「ふふっ♪ 大丈夫。月美ちゃんならここにいるよ」
そう、月美ならここにいるし、どこか遠くへ行ってしまうこともないのだ。
この女学園島で、愛しい百合の眼差しに抱かれ、誰かの笑顔に囲まれている・・・この場所こそが、月美の新しい居場所なのだ。