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54、スタート前

 

 ランチタイムの窓辺に、カモミールの香りが立ちのぼっている。


 アテナはレストランの三階席の窓辺でお茶を飲んでおり、体育祭の賑わいがグランドから街中へ広がっていく、お昼休みのストラーシャを見渡していた。


(翼さんっていったかしら。あの人がオススメしてたからここに来たけど。確かに眺めは良いわね)


 エム・ジラフィーはポトフやスープで有名なレストランだ。お腹をポカポカ温める感じのメニューはどれもこれもハイレベルであり、アテナが注文したカモミールティーにも濃厚なミルクと香り高いハチミツがセットになっていて、スプーンでかき混ぜるだけで、ヨーロッパ一周旅行の気分を味わえるような、色とりどりで繊細な香りが鼻をくすぐってくるのだ。パステルカラーの内装もお洒落で、なかなか良いお店である。


(ローザ会長は今頃、何をされているかしら・・・)


 窓辺のサンスベリアの葉の向こうにぽっかりと浮かぶ白い雲を眺めながら、アテナはローザ会長のことを考えている。


 実は、今回の女学園島のアテナは翼のことをほとんど知らず、自分とローザ会長の関係に強い関心を持っているのだ。と言っても、ローザ会長を愛しているわけではなかった。重要なのは、アテナがマーメイドの地位に就けるかどうか、ということなのだ。

(ローザ会長がキャプテンに選ばれれば、そのお相手は私のはず。そういう約束ですもの)


 ローザ会長の一つ年下であるアテナは、三日月女学園の伝統の頂点に輝くマーメイドとキャプテンの栄光に幼い頃から執着していた。

 アテナの叔母が三日月女学園の生徒だった頃、惜しくもマーメイドになれなかったというエピソードがきっかけとなり、マーメイドになることがアテナにとっての家族孝行であり、最上の自己実現となっていったわけである。

 アテナはマーメイドに選ばれるために、誰よりも一生懸命計算問題を解き、古典を読み、ヴァイオリンを学び、日本語を覚え、量子物理学にまで取り組んだ。アテナは権力が欲しいわけでなく、自分を支えてくれた家族に恩返しをしたいのだ。それにアテナは何事に対しても最善を尽くさなければ気が済まない性格なので、マーメイドの座は彼女の人生の目標として最適だった。

 ローザ会長は悪い噂もある女性だったが、パートナーに自分を指名してくれている以上、アテナはローザ会長の素行になど興味はなかった。マーメイドになるチャンスを与えてくれる先輩として、ローザを尊敬しているくらいである。


「あら・・・?」

 眼下の大通りをなんとなく見渡していると、アテナは見覚えのある生徒の姿を発見した。

(あれは・・・浄令院千夜子様。何してらっしゃるのかしら)

 アヤギメ学区で寮長やクラス委員などを歴任する有名な毒舌同級生、浄令院千夜子が、ほうきを使って道路を掃き清めているのだ。よく見ると千夜子以外にも、ストラーシャの同級生である百合や、初等部の女の子も一緒だった。体育祭というビッグイベントの昼休みにわざわざ掃除などしなくていいのに、ちょっと不思議な光景である。

(何かトラブルでもあったのかしら・・・。まあ、ローザ会長なら何があっても優勝してくれるはずだけど)

 アテナはカモミールティーをもう一口飲んでから、日本語の長文読解の問題集を開いた。アテナはローザが1位になって名声を上げ、海賊船長の座にグッと近づく事を信じて疑っていない。



 昼休みが終わりに近づく頃、グランドの隅にある機馬レースのスタート地点は、賑わいと白煙に包まれていた。

 機馬はここから走り始め、ストラーシャやビドゥの丘を駆けてグランドに戻ってくるのである。体育祭で一番盛り上がる種目なので、お昼ご飯そっちのけで応援席を確保している生徒もたくさんいる。

「ローザ様ー!!」

「会長がんばってー!!」

「きゃーー!!」

 ローザ会長にはファンが多い。

 会長が機馬のスイッチを入れ、ウツクシウムガスの蒸気をパシューと吹かすと、それだけで歓声が上がった。

(このレースは必ず私が勝利するわ。ライバルは機馬の操縦と改造が得意な翼さんだけど、用意周到な私の敵ではないわね)

 ローザはふわふわな巻き髪を束ね、ヘルメットを被ろうとした。

 その時である。


「ローザ会長、これに心当たりございますか」

 冷ややかでみやびなこの声は浄令院千夜子のものである。


 千夜子は着物のそでのポケットからパラパラと何かを地面に落とし、ローザに冷たい視線を送った。太陽に焼けた砂地の上に散らばったのは、直径1センチ未満の小さなガラス玉だった。

「こんなものを道に散りばめたら危険でしょう。あなたはアホですか?」

「あらあら、何のことかしら? 可愛いガラス玉ねぇ♪」

 ローザはしらを切った。

 千夜子と月美、そして百合が協力し、レースに使用する道を点検したところ、ゴール手前のカーブに大量にばらまかれたガラス玉を見つけたのだ。ガラス玉は透明なのに光が反射しにくい加工がされていたから、レンガの道にすっかり擬態しており、明らかに機馬の車輪をスリップさせるための罠であった。

「ローザ会長の機馬にはスリップしない細工でもしてあるのですか? それともあのカーブだけは大回りして回避するつもりでしたか?」

「惜しいわ♪ 抜け道を通って安全にかわす予定だったの♪」

 あっさりと自白した。

「はぁ・・・初等部の児童の前で不正を暴かれるなんて、みっともないですね会長。実にみっともない」

 千夜子は百合と同じ二年生なので、三年生のローザ会長へは丁寧な言葉遣いをするのだが、やはりちょっと毒舌気味である。

「残念ねぇ。私以外の選手の皆さんがころころ滑っていく様子を撮影してポストカードにして販売する予定だったのに♪」

「ならばローザ会長が反則負けになった記念に切手を発行しましょう。ピースして下さい」

「はーい♪」

 千夜子が記録用のカメラを向けると、ローザは笑顔でポーズを決めた。追い詰められているはずなのに余裕な態度を全く崩さないので、周囲にいるローザのファンたちはきゃあきゃあ喜んでいる。

「でもねぇ浄令院さん。コースにビー玉をばら撒いてはいけませんっていう規則は無かったら、私は反則にはならないわ♪」

「はぁ・・・月美よりもあなたのほうがよっぽど小学生ですね」

「ふふ♪ それにぃ・・・」

 ローザ会長は意味もなく月美に歩み寄り、月美のほっぺを人差し指でむにっとつつきながら怪しげに笑った。


「この私がそんなあっさり見破られる策だけしか用意してないと思う?」


「え?」


 月美の胸に冷たい予感が走った。ローザの瞳に映る自分の姿が、いつもよりずっと小さく見えた。

「も、もしかして他にも何か・・・!?」

 月美がそう尋ねるのと同時に、ちょっと音割れしたアナウンスがスタート地点に響いた。

『間もなく午後の部、機馬レースが始まります! 出場選手の皆さんはご準備下さーい! 応援は指定の応援席でお願いします』

 これはまずいと月美は思った。

「浄令院様! 百合さん! 会長はこの他にも罠を仕掛けてるみたいですわ!」

「なるほど。甘く見ていたのう」

 今からコースを全て点検することなど出来ない。手分けして危険そうなポイントだけを大急ぎでチェックするしかない。

「私は本部へ行って、競技の進行を停止し、スタートの時間を遅らせるように要請してくる。月美と百合はさっそくスタート地点とゴール周辺を見てきてくれ」

「わ、分かりました」

「もしかしたら私が間に合わず、レースがすぐに始まってしまうかも知れないが、諦めずに罠を探して排除するぞ」

「はいっ」

 ローザ会長からヒントを聞き出す努力を全くしないのが浄令院らしい点である。浄令院千夜子は時間の無駄を嫌う合理主義者なのだ。



 さて、この超ギリギリのタイミングで、翼が機馬に乗ってスタート地点に現れた。

「間に合ったぁ!」

 レース直前まで熱心に機馬を整備していたのだ。

(ん? な、なんか盛り上がってる?)

 生徒たちのざわめきと歓声の中心にローザ会長がおり、そこから千夜子や月美や百合が飛び出して走っていくのが見えたので、翼は首を傾げた。

(まあいいか。とにかく今はレースに集中しなきゃね)

 ローザが卑怯な手段を使おうとしているなど微塵も思っていないピュアな翼は、深呼吸して落ち着きながら、愛馬の背中を撫でた。白と銀とブルーが基調のこの機馬には、翼の愛情がたっぷり注がれており、速度よりも動きの柔軟性と安全、そして美麗さを追求した仕上がりになっている。結局のところ、細い路地や急な上り坂を軽やかに越えていった機馬が優勝する障害物競走なので、スピードよりも動きやすさのほうが重要だというのが翼の考えなのだ。


 翼は手足のプロテクターを最終確認してから、ヘルメットを被った。機馬は自転車程度の速度しか出ない乗り物なのだが、乙女の顔に傷がつくといけないので、フルフェイスのヘルメットを使用するのが規則である。


「やっほー翼さ~ん♪」

「ど、どうも。こんにちは」

 ローザ会長が、ヘルメットに内蔵された無線通話で声を掛けてきた。ちなみに会長の機馬はビドゥのイメージカラーである黒や赤や金の装飾がほどこされており、ゴージャスである。

「翼さんは優勝候補よ。頑張ってね♪」

「いえいえ、皆が優勝候補ですよ。私はただの機馬マニアですから」

「謙遜しちゃってぇ♪ 空飛ぶお馬さんは開発できたのかしら?」

「そ、そうですね。この前1メートルほど跳んで海に落ちました」

「あらあら♪」

 ちなみに翼が今回乗る機馬に羽はついていないので空を飛んじゃう心配はない。

「まあでも、最善を尽くします。会長も頑張って下さい」

「いや~ん翼さんったらホントに爽やか♪」

 翼は苦笑いである。



 熱気と歓声に包まれるスタート地点に、12台の機馬が並んだ。

 色とりどりの美しい馬たちが、前脚のひずめと後ろ脚の車輪を並べて声援を浴びている。ガソリンの役割をする塩化ナトリウム水溶液が反応する度にウツクシウムガスという謎の白煙がパイプから立ち上るのが機馬の特徴なのだが、その煙の甘い匂いがグランドに広がっていった。千夜子が本部に辿り着くより先に、スタートしてしまいそうである。全てローザの作戦通りなのだ。



「月美ちゃん!」

「は、はい?」

 大急ぎで路面をチェックしながら、月美と百合はストラーシャの街角を駆けていた。

「月美ちゃーん!」

「な、なんですの?」

「ふふっ♪」

 幼い月美の揺れる黒髪を追いながら、百合はちょっぴり頬を染め、楽しそうに声を掛けてくる。かなり緊張感のあるこのタイミングでも笑顔が絶えないのが百合の凄いところだ。

「月美ちゃんって凄いね! 月美ちゃんの言う通り、ホントにローザ会長が罠仕掛けてたんだから!」

「は、はい。そうみたいですわねぇ」

「どうして分かったの?」

「えーと・・・」

 決め手になったのは『早朝にローザ会長が不審な行動をしていた』という目撃情報を先程入手したからなのだが、百合が気になっているのはそこではなく、なぜ月美がそもそもローザ会長のことを疑ったのかという点である。ローザ会長は確かに女好きでちょっと危険な人物として知られているが、不正をはたらいてまで勝利を手にするタイプの人間だとは思われていなかったのだ。

「まあその、虫の知らせというか、その・・・」

「ローザ会長のこと、昔から知ってたの?」

「そそ! そんなことないですわ・・・」

「ふふ♪ じゃあどうしてなの? 凄く不思議」

 百合は、月美が今日打ち明けてくれるはずの秘密を猛烈に意識しながら会話しているのだ。

 図書館とローズガーデンの間の道で走りを少し緩め、罠がないか探しながら、百合はさらに話を続けた。

「月美ちゃんってさ、この学園出身のお姉さんとか親戚、いないんでしょ?」

「はい」

「なのにこんなに詳しいなんて・・・もしかして、未来人?」

「み!」

「ふふっ♪ なぁにその反応」

 百合は冗談で言っているのだが、月美は結構焦った。半分正解みたいなものだったからだ。


「それとも、人の気持ちが読めちゃう人なの?」

「そんなわけないですわ・・・」

「そうなのぉ?」

 この時百合は、ちょっと意外な行動にでた。

 月美をふわっと抱き寄せてしゃがみ、月美の瞳を覗き込んだのだ。当然月美の体温は急上昇である。

「この機馬レースが終わったら、教えて。月美ちゃんの秘密・・・」

 こんなに顔が近づいたのは、12月にキスをしてもらった時以来である。あの時のドキドキがもし蘇ってしまったら、また気を失ってしまうかも知れないので、月美は懸命に理性を保とうとした。百合から離れようともがいてみたが、月美の細い体を優しく抱いている百合の腕から逃れることは出来なかった。

「私は口固いし・・・それに私、何があっても、月美ちゃんの味方でいてあげる」

 百合の言葉は、ミルクとハチミツたっぷりのカモミールティーのように、月美の胸の中にじんわりと染み入り、ハートを温めてくれた。

「味方・・・ですの?」

「うん」

 それは心理的に一人ぼっち状態である今の月美に一番必要な存在である。

「月美ちゃんの味方でいる自信だけは、なぜかすっごくあるの・・・」

 信頼関係だけは時空を超えているのかも知れない。

「だから、私のこと信じて」

 百合は優しく微笑みながら顔を近づけていき、自分のおでこを月美の小さなおでこにトンと当てた。月美はもうドキドキを通り越して頭がぽわ~っとなってしまい、ぬいぐるみのように立ち尽くしてしまった。秘密を打ち明ける勇気を貰えたことへの感謝の気持ちだけが、とろけるような恋のドキドキの中で辛うじて形を保っていた。


 そんな月美の理性を呼び覚ましてくれるアナウンスが、ここでローズガーデンに響き渡るのである。


『全校生徒大注目の機馬レース、たった今スタートしましたぁ!』

 

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― 新着の感想 ―
[良い点] やっぱりどんな時でも尊いっ…!!!
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