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48、朝飯前

 

 眩しい波音が、早朝の澄んだ空気を静かに揺らしていく。


 温かい布団の中で寝返りを打った月美は、カーテンの隙間からこぼれてくる小鳥たちのさえずりに小さな耳をくすぐられ、ゆっくりと目を開けた。


「あ、おはよう♪」

「ん・・・?」


 ベッドのはしにそっとひじをついて、百合が女神のような優しい瞳を月美に向けていたのだ。

「ひい!」

 月美は飛び上がってしまいそうだったが、百合に「しー♪」と言われて我に返った。月美が寝ていたのは二段ベッドであり、すぐ上の段では小学2年生の銀花ちゃんがまだ眠っているのだ。

 布団に潜り直して頬を染め、目を逸らす月美に、百合はそっと唇を寄せた。

「朝ごはんの前にやることがあるんだけど、一緒に来てくれない?」

 百合のささやき声は月美の耳を一瞬で真っ赤にした。

「や、やること・・・?」

「うん」

「どうしてわたくしですの?」

「え?」

 お手伝いが欲しいなら、向かい側の二段ベッドで寝ている6年生のキャロリンや桃香が適任なはずである。わざわざ9才の月美を誘う理由が分からなかった。

「んー」

 百合は何気なく月美の布団に手を突っ込みながら、首をかしげた。

「なんとなく、かな♪」

 月美は恥ずかしくって枕を抱きしめ、顔を隠した。

「一緒に来てくれる?」

 少しの間、二人の沈黙に小鳥たちの声とかすかな波音が流れていたが、やがて月美は首を縦に振ったのである。

「ありがとう♪」

 百合さんからお願いされて断れるわけがない。



 月美が小学生になってしまってから一週間あまりが経つが、元の姿に戻ったり、前いた世界に帰れる気配は一向にない。自分が小学4年生であると納得することは永久にないだろうが、今いる世界が自分の居場所だという覚悟は月美の中に芽生えつつある。というか、前いた世界が何らかの理由で変貌し、この状態になったと考えられるので、帰る場所など元々ないのだろう。


「・・・あら、いい匂いですわ」

「朝ごはん作ってくれてるみたいだね」

 早起きのルネさんが煮込むスープの香りが、寮のエントランスの辺りを心地よく満たしていた。月美はパジャマの上にクリーム色のふわふわセーターを着ただけだが、今朝はそれほど寒くないので大丈夫である。制服に着替えるのは朝食後でいい。


 外へ出ると、透き通った空気の向こうに、みずみずしい青空が広がっていた。

 ちぎれかけのわたあめみたいな雲が、早朝のライトブルーの中に繊細なマーブル模様を描いており、生まれたての新鮮な海風に乗ってゆっくり動いている。月美はなんだか、旅先の旅館で迎えた朝のようなまっさらな気分になった。


「じゃあ今から、この辺のお花に水あげていくよ」

「あ、なるほど。わかりましたわ」

 寮の前には機馬車が停まれる小さなロータリーがあり、外周や中央部に花壇が作られているのだ。朝露に濡れているように見えるがそれは葉の光沢であり、鮮やかな花たちの下には乾いた土があるはずだ。たっぷり水を飲んでもらおう。

「ホースはどこですの?」

「ここだよ」

 百合は葡萄のツタが彫刻された白い立水栓りっすいせんの蛇口をひねり、ホースから水を出した。葉を濡らしていくサラサラした水音に、月美はなんだか聞き入ってしまった。


(去年の百合さんって・・・いつからわたくしのこと好きだったのかしら・・・)

 百合の横顔を盗み見ながら、月美はそんなことを考えた。百合から好かれていた事自体信じられない月美にとって、去年の出来事を客観的に整理していくことは難しい。


 しばらくすると、ビーチ沿いの大通りを駆ける機馬のひづめの音が迫ってきた。

「おお。おはよう百合ちゃん。それに月美ちゃん」

 機馬に乗って現れたのは、フード付きの黄色いパーカーという軽装に身を包んだ翼先輩だった。

「おはようございます、翼さん!」

「おはようございますわ」

 月美は百合から一歩離れてから翼先輩に挨拶した。仲良しだと思われるのが恥ずかしかったのだ。

「やあ月美ちゃん、朝早くから偉いね。お手伝いかな?」

「べ、別に・・・」

 子供扱いしないで欲しいものである。照れている月美を見て、翼先輩は爽やかに笑った。

「翼さん、もしかして機馬の朝練習ですか?」

「いや、今日はちょっと探し物さ。機馬の部品を内海で落としたみたいなんだけど、早く回収しないと砂に埋もれちゃうからね」

「潜って探すんですか?」

「ボートの上から探して、見つけたら潜るよ。潜ると言っても、海底までは1メートルだけどね」

「風邪引かないで下さいね」

「うん。ありがとう」

 機馬の部品がなぜ海に落ちているのか月美には疑問だったが、それ以上に気になったのは、百合と翼は同級生であるはずなのに、百合だけが敬語を使っている点だ。もしかしたら、去年の世界の名残りがこういう細かいところに現れているのかも知れない。


「かわいいお馬さん♪」

 百合は翼が乗っている機馬の顔を撫でた。

 機馬は後ろ足が車輪になっているロボット馬だが、なかなか可愛い顔をしており、自分の機馬を所有している生徒はたいてい馬に名前を付けている。ちなみにこの子の名前はルルちゃんであり、首や前脚に綺麗なライトブルーの装飾がされているのが特徴の白馬で、いかにもストラーシャ学区の機馬といった感じである。

「体育祭の機馬レースにはこの子で出場するんですか?」

「いいや。この子は当日、応援席にいるよ」

 春に体育祭が開かれるのは今回の女学園島でも同様らしい。月美は今まで自分のことに手一杯で、学園行事に一切興味を持ってこなかったが、クールな女として生きていくためにも、ちょっと知識を増やしておいた方がいいかも知れない。

「あのー、体育祭に機馬レースなんて競技ありますの?」

 月美は百合から受け取ったホースで水を撒きながら質問した。

「あるよ。機馬部の生徒だけじゃなく、色んな生徒が参加するんだ。グランドを飛び出して色んなところを走るから楽しみにしててね」

 去年より科学技術が進歩しているので、機馬を使った新競技が生まれているらしい。マラソンのような長距離レースになるようだ。

「楽しみにしてますわ。でもちゃんとヘルメットとかして下さいね」

「え? うん。手足にもサポーターを付けて走るよ」

「競争とは言え、スピードの出しすぎは危険ですわよ。制限時速とかありますの?」

「あ、一応、あるよ。レースって言ってるけど、機馬の操縦技術を競う障害物競走だからね」

「じゃあ馬術の仲間ですのね。それならまあ安心ですわ」

「う、うん」

 9才の月美が異常にしっかり者なので翼は少々驚いている。


 花壇に綺麗なフリージアの花を見つけた翼は機馬を下り、ロータリーの真ん中で深呼吸をした。

「この寮は日当たりがいいなぁ。花たちも嬉しそうだ」

 翼はちょっと少年っぽいところがあるが、優しい瞳で朝の空を見上げながら、長い髪を海風に揺らす様子は、ちょっとエレガントで美しかった。月美は翼の横顔に少し見とれてしまった。


 すると、ビーチ沿いの大通りの東の果てから、一台の銀色の機馬車が近づいてきた。この大通りはストラーシャ学区で暮らす生徒にとって重要な幹線なので馬車が通るくらい全然珍しい事ではないのだが、朝日を反射させて走るその姿が妙に美しかったので、月美たちの目を引いたのだ。

「綺麗だねぇ」

「う! そ、そうですわね」

 耳元で百合にささやかれた月美は手元が狂い、水をめちゃめちゃな方向に撒いてしまった。耳が敏感な月美に対しわざとやっているとしか思えない。


 3人はしばらく機馬車をぼーっと眺めていたが、やがて翼が挙動不審になってきた。

「ん? あ・・・。そうか・・・えーと、どうしよっかなぁ」

「どうかしましたの?」

「い、いやぁ別に! そ、そろそろ私は行くよ」

 急に慌て出した彼女の様子に、月美と百合は首を傾げたが、大通りの機馬車が寮に近づいてくると、徐々にその原因が明らかになる。

「あれもしかしてアテナ様の馬車かな」

「え、アテナ様ですの?」

 月美はまだアテナ様に会っていないが、今回の女学園島でも大人気のお姉様であるようだ。高校二年生ということなので百合や翼と同級生である。

(もしかして翼先輩、アテナ様が来たから焦ってますの?)

 機馬に乗ろうとする翼の背中を見ながら月美はそう思った。

(まあ、動揺しちゃうその気持ち分かりますけどね・・・)

 百合さんの前で平常心でいられた試しがない月美にとって、なかなか機馬に乗れずにあわあわしている翼先輩には共感できた。

 月美は小声で百合に尋ねた。

「あの、百合さん」

「なに?」

「翼先輩はアテナ様と仲良しですの?」

 去年の女学園島の二人はルームメイトであり、大親友だった。下手をすれば、公言していなかっただけの恋人同士だった可能性すらある。

「え? どうだろ、あんまりしゃべってるところ見たことないかな」

 王子様みたいな翼先輩と、王女様みたいなアテナ様のコンビに憧れていたのは月美だけではなく、大勢の生徒たちが二人を尊敬してた。あの組み合わせが見られないのはとても残念である。

「んー」

 月美はちょっと、お節介を働いてみることにした。

「翼様」

「な、なんだーい」

「アテナ様とおしゃべりしたいんですの?」

「うわぁ!」

 翼先輩はようやく上りかけた機馬から滑り落ちてしまった。

「な、何言ってるんだい月美ちゃん!」

「だって、あの馬車にアテナ様が乗ってるますのよね。見たとたん動揺しまくりですわよ」

「そ、そんなことないよ!」

「いつも乗りこなしてる機馬にどうしてまたがれませんのよ」

「うぅ」

 さっきのエレガントな翼はもう見る影もない。

「い、いや・・・私みたいに年じゅう土まみれの機馬マニアが話しかけられるようなお人じゃないんだよアテナ様は。あの人はホントに、雲の上の人なんだから」

「あらまあ。翼様だって王子様みたいな人になれますわよ」

「そ、そんなの無理だ・・・。喋り掛けることもできない」

 翼先輩は機馬の鞍の辺りにおでこを付けて寄りかかり、ぐったりしてしまった。お姫様に恋してしまった農家の純朴な少年みたいになっている。

「アテナ様はいい人ですわよ。急に声を掛けて怒るような人じゃありませんわ」

「え、あ! ちょっと!」

 月美は花壇をぴょんと飛び越え、大通りに顔を出した。機馬車は進行方向に生き物を感知すると自動で停車するようになっているのだ。二台の機馬に引かれた銀色の馬車は、やがて月美たちの寮の前でゆっくり停まった。

「アテナ様! おはようございますわ。呼び止めてしまってすみません」

 月美がサンダルをペタペタいわせながら駆け寄ると、馬車のドアが開き、中から長い金髪の美女が顔を出した。

「あなたは、初等部の・・・?」

「月美と申しますわ」

 月美はきちんと頭を下げてご挨拶した。

「今少しお時間よろしいですか?」

「いいけど、どうして私のことを知っているの?」

「あ、いえその、先輩が教えてくれたんですわ」

「先輩?」

 ふと顔を上げたアテナの視線は、ロータリーの花壇の前で立ち尽くす翼に向けられた。翼はガッチガチに緊張しながら、ブリキのおもちゃみたいにぎこちない会釈をした。

「それで、何かご用? 月美さん」

「はい。ご存知の通り、体育祭では機馬レースが行われるわけですけど」

「機馬レース?」

「はい」

 月美は小さな手のひらで翼を差して言った。

「そのレースに翼先輩が出場するんですけど、オススメの応援席があるみたいですわよ」

「え!?」

 月美が意外なことを言い始めたので翼はビックリである。

「そうですわよね翼先輩。ストラーシャの選手たちが活躍できそうな場所で、応援に最適なカフェテラスとかそういうの、さっきおっしゃってたじゃないですか」

 応援して欲しい、というストレートな表現では翼先輩が恥ずかしがると思った月美はこのように機転を利かせたのだ。場所の紹介くらいなら、照れ屋の翼ちゃんにも出来るはずである。

「そ、そうだな・・・。エム・ジラフィーの三階席かな。美味しいポトフで有名なストラーシャのレストランさ。あそこは眺めがいいから、レースの後半からゴール付近までだいたい見えるはずだよ」

「ですってアテナ様! 応援するならエム・ジラフィーがオススメですわ!」

 アテナは少々不思議そうな顔で翼と月美を見比べていたが、やがて優しく微笑んで頷いてくれた。

「分かったわ。教えてくれてありがとう。応援するわね」

「はい!」

 二台の機馬がキヒューッと音を立てたかと思うと、銀の機馬車はゆっくり大通りを滑り出した。月美は馬車の背中に深々とお辞儀をしてアテナを見送った。


「月美ちゃん、キミは本当に、度胸があるね・・・」

 翼はなぜか息を切らしており、額の汗を手の甲で拭っている。相手を知っているという事は、ただそれだけで大きなアドバンテージであるようだ。月美は得意な顔をしながら自分の髪をサッと撫でた。

「こんなの朝飯前ですわ」

 丁度その時、寮のエントランスからエプロン姿のルネが顔出した。

「朝ごはんよー♪」

 まるで月美がダジャレを言ったかのようなタイミングになったが、偶然である。

「ふふっ♪」

 水をいっぱい浴びたフリージアの花たちに囲まれて、百合は優しく微笑んだ。

 

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[良い点] 月美ちゃんやっぱり優しい…
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