47、小鹿
今日の雨音は体育館によく響いた。
花を散らす強い風は昨夜から吹き始めたが、目覚めた頃には大きな雨粒がストラーシャのレンガに打ち付けていたのだ。
ちょっとした台風の様相だが、各寮から学舎へは雨天用の機馬車が運行していたので制服が濡れることはなかった。月美はびしょ濡れを覚悟し、カバンにタオルを入れて登校したのだが結局使っていない。
「来週から始まる体力テストは中学生の先輩と一緒にやるでぇ♪ 楽しみにしててなぁ」
「はーい」
なんと、舞鶴先生は今回の女学園島でも保健体育の先生だった。
舞鶴先生は前回に引き続きストラーシャ学区の保健医であり、月美たちの体育の授業を担当してくれるようだ。
(私は小学生になっちゃいましたのに、全然変化がないのは羨ましいですわねぇ・・・)
体操服姿の月美は、体育館の冷たい床にちょこんと座ったまま、先生の綺麗な顔を見つめた。舞鶴先生は肌が白くて関西弁も使うので舞妓先生と呼ばれることがあり、優しい物腰とちょっと腹黒そうな眼差しが、一部の生徒から大人気だ。
「月美ちゃん、何か質問あるぅ?」
「あ、いえ、無いですわ」
「月美ちゃんって、初等部なのになんだか大人っぽいなぁ♪ 高校生くらいに思えるわぁ」
正解ですわよと月美は思った。
この島には大人が3人しかおらず、いずれもお医者様なのだが、体育の指導も担当してくれるのだ。その他の授業は世界中の有名先生がやってくれるリアルタイムの映像授業なのだが、体育だけは児童生徒を直接指導する方式なのである。
「先生ー! 私、ハンプクヨコトビが好きデース!!」
「そうなん? ほんなら来週楽しみにしといてなぁ♪」
「桃香は何が得意デース?」
「ええ、ぜ、全部苦手かもぉ・・・」
「友達と勝負するのも楽しいけど、去年の自分と勝負するのも盛り上がるでぇ♪ きっと勝てるはずやぁ」
(去年の自分ねぇ・・・)
月美は体育館の高い天井の照明をなんとなく見上げた。
舞鶴先生も前回の女学園島のことを覚えていないようなので月美はちょっと寂しかった。丘の上の療養所で、病弱なルネさんを看病し続けた記憶を先生はすっかり失い、あの場所でのやり取りを覚えているのはこの世界で月美ただ一人だけということになる。誰でもいいから同じ悩みを共有する人に会いたいですわと月美は思った。それが無理なら、せめて相談相手が欲しいものである。
(百合さん、今頃何してるかしら)
こういう時、月美はいっつも百合のことを考える。
(百合さんに相談できたら一番いいですけど、勇気が出ませんわ。私は別の世界から来ました、本当は高校生なんです、なんて言ったら、やばい子だと思われちゃいますわね。当面はクールな小学生として普通に暮らしていって、チャンスがあれば誰かに話してみようかしら。たぶん・・・そんな機会来ませんけど)
月美はため息をついた。
今はとにかく、怪しい行動をせずに普通に暮らすことである。
(月美ちゃん、今頃何してるかなぁ)
大教室の授業が終わると、百合はさっそく月美のことを考えていた。
「百合、お願いなんだけど、ちょっとノート見せてくれない?」
ルネはノートの片隅に非常にリアルな二酸化炭素の分子結晶の絵を描いていたら、肝心の板書を書き忘れてしまったのだ。頼りになるのは百合である。
「百合? 聞こえてる?」
「あ! なに?」
「もう、百合って最近ぼーっとしてない?」
「そ、そんなことないよ! 何か用?」
「ノート写させて~」
「ルネさんのほうがぼーっとしてるじゃん」
「えへへ」
自分が月美ちゃんのことばっかり考えていることがバレていなくて百合はちょっと安心した。この気持ちは、なぜか秘密にしておきたいのである。
次の授業の教室に移動しようと二人が腰を上げると、廊下から妙なざわめきが聞こえてきた。
「なんだろう」
「行ってみましょ」
「うん」
百合とルネは意外と好奇心が強い。
雨音が響く一階の廊下には、人だかりが出来ていた。
生徒たちはある一点を中心にして距離をとっており、その大きな輪の中に何かあるようだ。
「どうかしたんですか?」
「鹿が迷い込んじゃったみたいなんです・・・」
なんと、学舎に野生の小鹿ちゃんが入って来ちゃったらしい。
小鹿は雨でびしょ濡れであり、寒さのせいか、あるいは人間に怯えているのか、体を小さく震わせていた。とても可哀想である。
「助けてあげようとしても、逃げちゃうんです」
「上手く外に誘導できないか試してるんですけど」
「外に出したら可哀想よ」
「こんな人間だらけのところに置いておくほうが可哀想よ」
「むしろ温かい部屋に入れてあげたほうがいいんじゃない?」
生徒たちの意見が割れている。
次の授業が始まれば廊下から生徒はいなくなるので小鹿はほっとするはずだが、このままでは風邪を引くおそれがある。今日は珍しく気温が低いのだ。
(助けてあげないと・・・)
百合も知恵を絞ることにした。
「ルネさん、電気ストーブどこかに無いかな。持ち運びできるようなやつ」
「あー、ここに持って来るってことね? んー・・・どこかにあったかなぁ」
女学園島の施設はやたら設備がしっかりしているため、備え付けの冷暖房ばかりである。ポータブルなものは滅多に見掛けない。
「あ!」
「どこかにある?」
「んー、私の記憶が正しければ、保健室にあったような気がするわ。先月行った時、こういう感じの、タワー型っていうのかな、電気ヒーターがあった気がする」
「ストラーシャの保健室?」
「うん。舞鶴先生に借りに行く?」
「そうだね。小鹿さん、素直に温まってくれるといいけど」
有効な手段かどうかは怪しいが、他に出来ることがないので仕方がない。
しかし、百合たちが動き出そうとしたその時、意外な出来事が起こる。
小鹿は学舎の廊下と、渡り廊下がぶつかるT字路に近い場所に立ち尽くしていたのだが、その渡り廊下のほうから体操服姿の月美と銀花がやってきたのである。不意に現れた学園最年少コンビの姿は、静かな池に咲く鮮やかな蓮の花みたいな圧倒的存在感を持っていたので、廊下にいた生徒たちは思わず言葉を失い、見とれてしまった。
「あら」
廊下へ来た瞬間に月美の目に飛び込んでくるのは当然小鹿ちゃんである。明らかに場違いなアニマルの存在に月美は驚いたのだが、実は月美、この小鹿に見覚えがあったのである。
「あなた、ピヨとよく一緒にいた小鹿じゃありませんの。一人で何してますの?」
そう、この子は前回の女学園島でピヨと仲良しだった小鹿ちゃんなのである。
「私のこと覚えてます? って覚えてるわけないですわよねぇ・・・。ピヨとはもう知り合いになりましたの? というかあなた、びしょ濡れですわね」
月美は銀花ちゃんの前では結構自然体である。月美は動物相手にぺらぺらとおしゃべりしながら、カバンに入れていたタオルを取り出し、小鹿の頭や背中をどんどん拭いていったのである。
「もー、これは新品のタオルでしたのよ。人間用のタオルでしたけど、あなた用にしますわ。感謝しなさい」
小鹿は急に体を触られて非常に驚いたのだが、冷たい雨水を拭き取って貰った場所からどんどんポカポカ温まっていく感覚に心地よさを覚えた。この人は悪い人じゃなさそうだと、すぐに感じたのである。
「こんなものですわね。保健室に電気ストーブがありますから、勝手に借りてきますわ。そこの渡り廊下で待ってなさい。人に見つかったら面倒ですからね」
月美は凄まじい手際の良さで小鹿を落ち着かせ、体を拭き、さらに体を温める手筈まで整えたのである。
「銀花さん、一緒に保健室来て下さいます? 二人でストーブ運びましょ」
「うん」
そう言って駆け出した月美は、ようやく状況を把握することになった。
「え!?」
月美の今の言動は、100人近い生徒たちに全て見られていたのである。小鹿から半径10メートルくらいは誰もいなかったので、気付かなかった月美がポンコツだとは言い切れない。
びっくりした月美が阿波踊りのようなポーズで固まってしまうと、我に返った生徒たちが一斉に拍手を送った。
「月美ちゃんすごーい!」
「あっさり解決しちゃったねぇ!!」
「月美ちゃん優しいいいいい!!!!」
「動物とすぐに仲良くなれるのね!」
「ストーブは私が借りてくる!」
「いやいや私がぁ!」
小鹿は「な、なんだこの騒ぎは」みたいな顔で月美に駆け寄ってきた。もうすっかり信頼されている。
盛り上がる群衆の後方で、百合はそっと微笑みながらつぶやいた。
「月美ちゃんって・・・すごく不思議」
小学生のくせにクールで格好良く、誰かに褒めてもらおうというそぶりもなく親切で、しかもかなりの照れ屋である。こんな面白い人、百合は月美以外に知らない。
(月美ちゃん・・・なんで保健室のストーブのこと知ってたんだろう。行ったことあるのかな)
月美は去年、身体測定などでビドゥのほうの保健室に何度か入ったことがあり、そこの備品はある程度知っていたのだ。保健室にある物など学区によって大差ないだろうし、この点は予習済みだったのである。
目を輝かせ、憧れの女性を見るような表情をする百合の横顔を、ルネは見逃さなかった。
「ねえ百合」
「なに?」
次の授業が始まる直前、ルネは不敵に笑いながら百合の顔を覗き込んできた。
「百合ってもしかしてさぁ」
「え、な、なに?」
いつも月美ちゃんのことばっかり考えていることがバレてしまったかも知れないと思った百合は動揺した。
「ペット飼いたいんでしょ?」
「・・・え?」
「ペットが欲しいんじゃない? さっきの目はそんな感じだったよ」
それはなかなか斬新な勘違いである。
「え! う、うん! そうなの! バレちゃった?」
「やっぱり♪ 最近何か考え事が多いなぁと思ってたけど、それだったのね。でも寮でペット飼うのは禁止されてるからね」
「そ、そうだね、だから諦めてるかなぁ~」
素直に「月美ちゃんって面白い子だよねぇ。すっごく興味湧いてるんだぁ!」と言えばいいのに、なぜか誤魔化してしまう自分が不思議で、百合は胸がドキドキしてしまった。こんなこと、初めてだったからである。
雨が上がった放課後、すっかり体を温めた小鹿は、月美たちの周りを嬉しそうに何度も回ってから中庭に飛び出し、水たまりを軽やかに飛び越えて森に戻っていった。