39、百合の恩返し
劇場全体の照明が落ちると、舞台に眩しい太陽が昇った。
早くも客席のあちこちから歓声が上がり、その声は星のまたたきのように暗闇の中を弾んだ。この瞬間から観客の生徒たちは、人魚や海賊が暮らす幻想の世界の住人である。
金色の水しぶきを上げて朝の大海原を走る海賊船のマストには、海賊船長に扮するローザ先輩が乗っていた。
「腹が減るにつれ、太陽の輝きが増していく」
数千人の注目を一身に浴びて、ローザは堂々と劇の第一声を上げたのだ。
「こんな法則は、学校では学べないだろうなぁ」
いつもはセクシーな女性らしさに満ちたローザも、今日はワイルドでミステリアスな海賊になりきっている。
「船長、こんな朝早くからマストに上って何をされているのです?」
終盤でローザと決闘をする月美が、船室から顔を出した。今や月美は学園でも屈指のハイパー大人気生徒なので、ファンが非常に多く、お嬢様言葉を使っていない珍しい月美の登場に、客席は歓声に包まれた。登場するだけでキャアキャア言われたので、お嬢様月美はとても気分が良かった。
「望遠鏡を覗いていた。波間にレモンの木でも生えていないかと思ってね」
「生えていましたか?」
「いいや」
「それはそうでしょうねぇ」
「だが島を見つけた」
「し、島ですか!?」
「おおい! 眠っている船員を叩き起こせ! 上陸準備だ!」
ひっくり返した鍋をローザがカンカンと打ち鳴らすと、船室や木箱の陰から次々と海賊のメンバーが出てきた。人魚役でない出演者はこのタイミングでほぼ全員姿を現すので、客席からは歓声と拍手が湧き起こった。ちなみに綺麗子も海賊船員としてこのシーンから登場するから、いつも元気でちょっぴり幼い感じの彼女をこっそり愛しちゃっている少女たちも大喜びである。綺麗子は年上からモテる。
「船長ぉ! しかしこの辺りは人魚が現れるという話を聞いたことがありまーす! あの島も、彼女たちが見せている幻かも知れませぇん」
綺麗子は演技がちょっと大袈裟だが、そこもカワイイポイントだ。
「このまま海を彷徨っていたら私たちのほうが幻になってしまう。上陸して水と食べ物を探そう」
「はいっ!」
この劇場は盆と呼ばれる回転床や迫り上がりなどの舞台機構が充実している上に、ステージの奥行を利用した複雑な幕の操作も可能だから、暗転して場面転換するシーンを挟まずに劇を進められる。卒業生の先輩が作ってくれた脚本が、この劇場で上演されることを前提としてくれていたおかげで、このようなダイナミックでテンポのいい進行ができるのだ。
「錨を下ろせ!」
「はいっ」
物語は順調に進んでいった。
真っ赤なポインセチアで飾られた雪の道を、ルネと舞鶴先生は急いでいた。
「ちょっと休んだほうがええでぇ・・・」
「いいえ・・・もう少しですから」
ルネは外出する時は車椅子に乗るべきレベルの病人なのだが、この積雪で車椅子は危険なので歩いて劇場へ向かっている。機馬車に乗って移動すればいい話だが、今はほとんどの機馬車が劇場前の広場に集まってしまっているので、運行している機馬車が非常に少なく、これを待っていたらタイミングを逃してしまいそうだったから仕方ないのだ。
生徒たちは皆、劇が見たくて自分の持ち場を離れているらしく、レストランや出店がガラガラで誰もいない。煌びやかな装飾をされた空っぽの街並みは、まるでクリスマスケーキの上に作られた砂糖細工のようである。
「嵐だぁ! みんなつかまれぇ!」
自分たちの島を荒らされたと思った人魚たちが、不思議な力で嵐を起こすシーンがある。ずしんと胸に響く雷鳴の中、海賊の月美は風にピュ~ッと飛ばされて舞台袖に戻ってきた。
(ルネさん、来てくれるかしら・・・)
気持ちの切り替えが早い月美はすぐに素に戻り、舞台袖から客席をこっそり見回してみた。
こんなに盛り上がっている演劇も、ルネさんの告白というビッグイベントを盛り付けるためのお皿に過ぎないのだ。そのことを、観客の生徒たちはまだ知らないわけである。
舞台の光を灯した観客たちの瞳は、とても美しかった。憧れとはきっとこんな色をしているのだ。
「私今・・・すごく生きてるって感じがしますよ、先生」
舞鶴先生に支えられてゆっくり歩くルネは、白い息を吐きながら小さく笑った。
「怖くないのん? 告白なんて、初めてやろぉ?」
ローザ会長が卒業してしまう前に、感謝の気持ちを伝えたい。その想いは舞鶴先生も理解しているが、あんなに気が小さかったルネの成長に戸惑っているのだ。
「怖いですよ、とても。でも私、一人じゃないですから」
真っ直ぐな眼差しで明日を見るルネの横顔に、舞鶴先生の胸は熱くなった。悩みを共有したり、理解したりしてくれる仲間がいるだけで、人はこんなに前向きになれるのだ。
(ん~・・・うちもこの学校で高校生活したかったわぁ♪)
先生は少し照れくさい気持ちになりながら、ルネの肩を抱いて歩き続けた。
ステージの上の百合は、太陽のように輝いていた。
目が合うだけで卒倒する生徒が続出している皆の女神が、虹色の衣装をまとい、光の中でお姫様を演じているのだから、その美しさは宇宙規模なわけである。
しかし、そんな彼女の心の中は新月のようにひっそりとしていて、誰にも分からないのだった。
「ねえヒトデさん。どうして人間を助けてはいけないの?」
海賊たちを助けてしまったことで、翼先輩演じる人魚の女王に叱られてしまった姫は、相談役であるヒトデさんに愚痴をこぼしているのだ。
「姫がやったことは正しいさ。けれど、正しい事を声高に主張することが、正しい世の中の実現への近道とは限らないんだ」
「どういうこと? 私には全然分からないわ」
ちなみにこのヒトデはアテナ会長である。いつもクールで落ち着いたアテナ様が、可愛いヒトデの格好をしているので、ファンたちは歓喜である。
「姫にはまだ難しい話だね。とにかく、正面から女王様に逆らうのはよしなさいな」
「いやよ。私は自分が正しいと思うことだけをするわ」
人魚姫の百合はアテナ会長にぷいっとしっぽを向けて、彩り豊かなサンゴ礁の海を泳ぎ去るのだった。長く美しい髪がキラキラと光る様子に、舞台袖の月美もウットリである。
(百合さん・・・美しいですわぁ・・・!)
月美は頬を両手で押さえてジタバタした。劇に集中して欲しいところである。
さて、そんな彼女たちの頭上の足場で、忍者のようにこそこそと動く少女の影があった。
(チャンスはもうすぐデース・・・!)
人気演劇部員のくせに自ら進んで裏方の仕事を引き受けたキャロリンちゃんである。彼女は今、この劇場でも特に大きなスポットライトの操作ハンドルを握りしめている。まだスイッチはオフだが、電源は繋がっているため準備万端だ。
昨日、下見に来た時に座布団やお菓子を持ち込んでいたので、結構快適な秘密基地となっているのだが、さっきからここで食べているポテトチップスの欠片が、舞台や観客の頭上に雪のようにパラパラと舞い落ちているので、バレたくなかったらそろそろ飲食をやめたほうがいい。
(魔女は強い光が苦手デース。大勢の前でこれを浴びせて、正体をあばくデスヨ~!)
既に月美や百合はステージの上でそれなりに強い光を浴びているのだが、もうひと押し必要なのだろうとキャロリンは考えている。
(注目が集まったタイミングでスイッチオンデース)
キャロリンは暗闇の中でシッシッシと笑った。どちらかと言えばこっちのほうが魔女である。
物語のクライマックスは刻一刻と近づいてくる。
月美も、百合も、翼も、アテナも、千夜子も、綺麗子も、皆が舞台上でルネの登場を待っていた。何も知らないローザの驚く顔は、百年に一回くらいしか見られないので、観客はカメラを構えておいたほうがいい。フラッシュ機能をオフにしておけば写真撮影は自由である。
人魚と海賊のストーリーは、人魚姫の純粋な思いやりと、海賊船長の意外な紳士的側面を交互に織り重ねながら、観衆のハートをしっかり掴み、ついに終盤に差し掛かったのである。
海賊船の停泊している入り江には、巣に帰ろうとする海鳥たちが旋回しており、水彩の茜色を自由に泳がせたような空と海のグラデーションが、真珠色の幻想的な日没を演出していた。
ここで、人魚姫の百合が「待って下さい、海賊さん!」と声を振り絞って登場し、海賊船長のローザが「人魚姫! ここに来てはいけないと言ったじゃないか!」と船上から叫ぶわけである。これは「人魚と海賊」の脚本の中でも特に印象に残るシーンの一つであり、台本を読んだことがある生徒なら、だいたいその台詞を覚えている。
夕焼け色の渚を駆ける人魚姫にうっとりしながら、観客たちは百合の台詞を待ったのである。
「待って下さい! 海賊さん」
百合が口を開くのとほとんど同時に、その声が観客席の闇を切り裂いた。
「え?」
「え!?」
「な、なに?」
ざわめきが広がる。
それは百合の声ではなかったのだ。朝霧の中の鈴蘭のように儚げで、しかしどこか芯が通ったような艶のある声だ。
(ルネさんですわっ!)
月美はこの時、海賊船の甲板の上いたのだが、大喜びで客席を見回してルネの姿を探した。
(ルネさんだぁ!)
百合もまた、人魚姫モードから気持ちが一瞬で切り替わり、パッと笑顔を見せて劇場を見回した。しかし客席は逆光なのでステージからはほとんど見えないのである。
(ん・・・? 誰か来たデース?)
天井付近の足場でイチゴのクッキーを食べていたキャロリンは、客席の異変にいち早く気が付いた。彼女は月美たちと違い、暗い場所にいるので、ステージの明かりにうっすら照らされた客席がよく見えた。
(劇に乱入するなんて、相当な大物デスネー)
普通の人間の感覚を持っていたらなかなか出来ない行動である。もしかしたら魔女の仲間かも知れない。
(よーし、スイッチオンデース!)
キャロリンは特大のスポットライトを点け、水面の満月のように見える大きな光を、ざわめきの中心に向けたのだった。
光の中に立っていたのは、肩で息をするルネだった。
彼女は舞鶴先生と、劇場への案内役で広場に待機していた桃香ちゃんに支えられていた。
細い体に、先生の大きなコートを羽織ったルネは、頬がちょっぴり赤い。
観客たちは驚き、ざわめいているが、一番ビックリしているのはもちろんローザである。
ローザは海賊船長の帽子を無意識のうちにとり、それを胸の前で抱えるような可愛いポーズで目を丸くしている。「ここに来てはいけないと言ったじゃないか!」という台詞が、ローザの口から出ることはなかったが、それに近いことを彼女は今感じているかも知れない。
「ローザ! 私、あなたに伝えたいことがあるの!!」
桃香ちゃんが小型マイクを持っているため、ルネの声は劇場の隅々まで響き渡った。観客たちの戸惑いはやがて、ただならぬロマンチックな予感へと変わって広がっていった。
「こ、この感じって・・・!」
「まさか・・・!?」
ローザ会長のことを「ローザ」と呼んでいる時点で、スポットライトの中の生徒はローザ会長とかなり親しいわけであり、その少女がこんな大事なタイミングで、「伝えたいことがある」などと声を張り上げたのだから、ちょっと頭の回る生徒であれば、何かを察しちゃうのである。
ローザは何も言わず、海賊船の甲板で立ち尽くしていたが、やがて目を伏せ、ささやくような声で言った。
「ルネ・・・どうして、こんなところまで・・・」
ローザの優しい声ももちろんマイクが拾っている。
「あなたに、私の気持ちを伝えるためよ!」
「こんなところまで来たら、また・・・」
ローザはルネの体を心配しているのだ。
「あのっ・・・皆さん、聞いて下さい。私は二年生のルネ・シャノワーヌ。突然お邪魔して本当にごめんなさい。ローザについて、皆さんに知って欲しいことがあるの」
観客たちは身を乗り出して耳を傾けた。
「確かにローザは・・・エッチで、いい加減で、洋服に掛けるお金が凄くて、宿題サボりの常習犯で、わざと胸元見せてるおばかで、綺麗好きなくせに掃除が嫌いで、授業中にガムを噛んでるフリして先生を挑発するやつで、食パンのミミ残すやつで、集合写真の時に隣りの隣りくらいの人の肩に手を伸ばして心霊写真風にして楽しむ最低な女だわ」
新情報満載である。
「でもね、皆さんが思っているより、ローザはいい人なの」
ステージ上のローザは「な、何を言うつもり・・・?」といった目でルネを見つめている。
「ローザは今、ビドゥの生徒である百合をストラーシャの生徒会に入れようとしている・・・交換条件だったとは言え、明らかにイヤがってる百合を無理矢理自分のものにするなんて、悪者だなぁって、皆思ってるでしょう」
ルネの頬を、ダイヤモンドみたいな汗がひとつ伝っていった。久々に体を動かし、熱いスポットライトを浴びたからである。
「でもそれは、丘の上の療養所で一人寂しく暮らしている生徒を思っての行動だったの!」
療養所の生徒というのはきっとこの人のことだなと、観客の少女たちはすぐに察した。生徒たちは我慢できず、徐々にキャアキャア言い始めた。
「ストラーシャの力を強めて、他の学区が進めてる風力発電機の計画を阻止するために、影響力の強い百合を手に入れようとしたのよ。その計画では、丘の上の古い風車をひとつ、取り壊すことになってるんだけど、その風車はね、療養所で暮らしている生徒がずっとずっと気に入ってて、絵の題材にしてたものなの」
この瞬間、ローザ会長が本当はいい人だったことが全校生徒に知れ渡ったのである。感動と興奮のあまり立ち上がってローザの名を叫ぶ生徒もいたが、ルネの次の言葉が気になったらしく、すぐに静かになってくれた。忙しい子たちである。
「だけどねローザ! もういいのよ! 私はあの風車が無くなっても、絵をやめたりしないわ! 確かにちょっと寂しいけど、あの場所に風力発電機を作って皆のためになるなら、私は嬉しいし、あの風車も分かってくれるわよ!」
「ルネ・・・」
「ローザが私のためにここまでやってくれただけで、本当に・・・本当に幸せよ・・・!」
ローザは涙を見られたくなくて、海賊船長の帽子を顔まで上げた。
どうしてルネが発電機の計画などを知っているのかローザには分からなかったが、バレてしまったものは仕方がないし、みんなのためなら風車を壊していいと言ってきたルネがとても可哀想で、泣いてしまったのである。
「ローザ、もういいのよ。今までありがとう・・・!」
いつの間にか青い小鳥のピヨちゃんが白ウサギと小鹿を連れて「その気持ち、分かるなぁ~」みたいな顔をしながらルネに寄り添っていた。この辺りはさっきからクッキーの欠片が降ってくる場所なのでピヨたちもご機嫌なのである。
「取り壊す必要はなくなったよ」
翼先輩の穏やかな声が、春風のように優しく劇場を吹き抜けた。
「どういうこと・・・?」
ローザは顔を上げて首を傾げた。
「昨日の夜、月美ちゃんたちの提案で、全校生徒による大会議を行ったんだ」
「そんな会議、知らないわ・・・」
「わ、私もよ・・・」
ローザとルネだけが知らないのである。
「ローザは昨日、雪が降り始める頃に機馬でどこかへ向かっただろう。そのタイミングを見計らって、三学区総出の会議を行ったんだ。題して、『三学区寄れば文殊の知恵』作戦だ」
絶妙にダサい作戦名である。
「風が強くない場所でも風力発電できるアイディアを全員で考えたんだ。電話のやり取りでね。これがローザ会長のためになるんだという情報だけで始めた会議だったが、みんな本当に一生懸命考えてくれたよ」
観客の生徒たちは大きく頷き、「ローザ様ぁ~!」などと騒ぎながら手を振ったりした。
「そしてなんとか有力な方策が見つかった。そうだろう、浄令院会長」
「ああ。半年前、ここにいる山田綺麗子が掘り当てたありがた迷惑なヘリウムガス。あれは高濃度のくせに適度に酸素を含み人体に害がない上、地中に巨大ボンベでも埋まってるんじゃないかと疑うほど安定して採取できる。あれを利用して風力発電機を回すことに決めたぞ」
アヤギメ学区の化学部の生徒たちが「あれ? 勝手に上昇していくヘリウムガスを使えば巨大な風車回せるんじゃない?」と深夜に思いついたのだ。
「必ず実現させてやるぞローザ、そしてルネ。風が吹く丘を守るために、地の底から風が吹いたのじゃ。これも何かの運命じゃろう」
珍しくにっこり笑った浄令院会長の隣りに、ヒトデの格好のアテナ会長が寄り添った。
「あの古い風車は、中が脆くなってるから、少し補強させて貰うわよ。景観は変えないから安心してね」
「そうじゃな。風車の中はルネに画廊にでもしてやれ。みんな見に行くぞ」
つい最近まで一人ぼっちだったはずのルネは、いつの間にか大勢の仲間たちの思いやりの中にいた。ルネは嬉しくって、熱い涙を流した。
「ありがとうございます・・・皆さん・・・私、嬉しいです・・・!」
すると舞鶴先生は、ルネの耳元で「何か忘れとるで♪」と優しくアドバイスをした。ルネは顔を上げて、ちょっぴり涙を拭いてから、やがて意を決した。
「ローザ・・・私っ!」
そう叫んで前へ一歩出たルネは、よろめいてしまった。先生や桃香ちゃんがしっかり支えてあげたが、そろそろルネは休まないといけないだろう。もうへとへとなのだ。
その様子を見たローザは、マントを脱ぎ捨てて海賊船から駆け下り、ステージから飛び降りて、ルネの元へ走り寄り、彼女を抱きしめた。
「ルネ・・・!」
「愛してるわローザ・・・」
ルネはそう言って、細い腕をローザの背中に回した。
「私もよ・・・ルネ。愛してる」
スポットライトの中に満ちていく幸せを、全校生徒が祝福した。
海賊船の上の月美はもう、やりきった表情である。
陽だまりで目を細める年老いたネコみたいな満足顔で、月美はローザたちを祝福した。
(あぁ、良かったですわ・・・。本当に良かったですね、ローザ様。長い間、ずっと頑張ってきた努力が報われましたのよ。これからは私の番ですわ。百合さんを愛していること、誰にも内緒で、ルームメイトとして、百合さんの平和な毎日を守っていきますわ。ローザ様ほど演技力はないし、時々ゆでだこみたいに顔が赤くなる時もありますけど、クールなお嬢様を演じ続けますわ。百合さんに私の本当の気持ちは永遠に伝えられないでしょうけど、それで充分幸せですわ。本当におめでとうございます、ローザ様、ルネさん)
さてさて、中断している演劇を続けないといけませんわねと思った月美は、まだ客席の通路でルネさんを抱きしめいているローザと、船の側に立っている百合に向かって、思い切って台詞を言ってみた。
「ぬぅ! またも現れた妖魚めぇ・・・! 船長! あやつめを撃ってしまいましょう!」
劇はもうすぐラストシーンだから、最後まで上演してしまったほうが収まりがいいだろう。ローザ先輩も、涙ぐんだ顔を上げてちょっぴり微笑み、ステージに向かって歩き始めた。
しかし、その時である。
さきほど、自分の台詞をルネさんにとられちゃった、ある少女が、ローザに向かって声を上げたのである。
「待って下さい、海賊さん!」
「え?」
ローザをはじめ、海賊役の子はみんな立ち止まってしまった。
声の主は、ステージのほぼ中央で、滑らかな夕空を背景に一人立つ、学園一の美少女百合だった。
「劇に戻る前に、私からも、ある人に伝えたい事があります!」
ここからは誰も知らない展開であるから、翼先輩たちもビックリしているわけだが、ただ一人だけ、百合の行動の理由を知るものがいた。ルネである。
(百合・・・! あなたも、頑張ってぇ・・・!)
百合が挑戦するのは、みんなの前で月美に感謝の気持ちを伝えるという恩返し的な課題なので、ルネがやり遂げた愛の告白よりはずっと簡単なのだが、それでも、これだけ大勢の注目を浴びる場所で、ルームメイトに素直な気持ちを伝えることは、百合の人生でも屈指のドキドキ場面に違いないのだ。涙を拭いたルネは祈るようなポーズで百合と月美を見守った。
「月美ちゃんッ!」
「は、はい!?」
百合は笑顔で振り返り、舞台セットの海賊船の甲板上にいた月美を見上げた。
百合の瞳はルネの告白のせいで既に涙色に潤んでいたが、それが余計に彼女の眼差しの美しさを増す結果となった。
一体何が始まったのか理解が追いついていなかった月美は、なんで百合が自分に声を掛けてきたのかも分からず、ちょっと裏返った変な声で返事をしてしまった。しかもその声をしっかりマイクが拾っていたため、月美は余計動揺した。クールなお嬢様は、どんな混沌にも冷静に対処しなければならないのだが、果たしてどうなるか。
「私、月美ちゃんのルームメイトになれて、本当に良かった・・・!」
伝説級の人気者である百合が、クールビューティー月美にサプライズで何かを語り出したというのに、数千人の観客たちはまだポカンとした顔をしている。
「これからもずっと、私のルームメイトでいてね♪」
「は、はい・・・べ、別に・・・もちろん、いいですわよっ!」
よく分からないが、月美は髪をサッと撫でながらクールに返事をした。
これからも月美と百合がずっと一緒にいられる事が、ルネの告白のお陰で確定したので、それの報告も兼ねた言葉だった。毎晩寮のエントランスで会議して百合の引っ越しを阻止しようとしていた生徒もたくさんいたので、ここですごい音量の拍手が湧き起こった。生徒たちは「おめでとー!!」とか、冗談っぽく「お幸せに~!」などと言ってすっかりお祝いムードであるが、百合の話はこんなもので終わらない。
「月美ちゃんはいつも・・・いつも私の側にいてくれたね」
会場が静かになるタイミングがなかったので、百合は少し照れながら、とにかくしゃべり続けてみることにした。生徒たちはすぐに拍手をやめて意識を百合の言葉に集中させた。
「私って・・・自分で言うとバカみたいだけど・・・昔からモテすぎちゃう女でした。色んな人から好きですって言われると、嬉しいんだけど、恋愛なんて分からないし、断った時の相手の悲しむ顔を見るのも辛くて、いつも困ってたの」
正直、この学園のいる生徒のほぼ全員が百合の美しさにハートをやられた経験があるため、みんな恥ずかしそうにうつむいて照れ笑いした。
「だから、硬派な月美ちゃんと同室になれた時、あぁ、これで普通の生徒みたいに気楽に過ごせるぞって、恋愛のトラブルとは無縁の平和な毎日を送れるぞって思って、すっごく嬉しかった」
生徒たちはうんうんと深く頷いている。
「その後も月美ちゃんは、私に本当に優しく、クールに接してくれて、今回の引っ越しの件も、阻止するために全力で奔走してくれた・・・。運命を変えるための努力をしている人の横顔って、こんな素敵なんだって、私初めて知ったよ」
ピヨたちも天井から降ってくるクッキーの欠片を食べながら頷いた。
百合は少し目を泳がせた後、自分を励ますようににっこり笑い直してから、再び月美を見上げた。
(な、なんですの・・・お気持ちはすごく嬉しいですけど、こんな大勢の前でお礼言わなくても・・・)
月美はクールな顔を作るの必死だったから、早く百合のお話が終わることを祈った。見つめられるだけで体が熱くなり、顔が赤くなっちゃうのだから仕方がない。
「でもね・・・」
百合はここでひと呼吸置いて、近くにいた綺麗子に謎の照れ笑いを送ったりして少し言葉を選んだ。
「でもね・・・皮肉なことに、というか、えへへ♪」
百合は自分の心臓が、未だかつてないくらい強くドキドキと鼓動しているのを感じた。鼓動が速いというよりは、強いといった感じであり、そのひとつひとつの音が、熱い痺れを伴って全身をじんじんと駆け巡っていたのだ。これがきっと、生きているって感じである。
「月美ちゃん」
「な、なんですの・・・?」
「たしか・・・夏休みの終わり頃なの。私が、自分の気持ちに気が付いたのは・・・」
(え・・・?)
ルネは百合の話が自分の想像と違う内容になりつつある事を察知した。
(あれ・・・?)
翼先輩たちも、百合の今の言葉に妙な流れを感じた。
(ん・・・?)
観客の生徒たちも、話が意外な方向に行き始めたことに気付いた。
ただ一人、ポンコツお嬢様の月美だけが何も気づかず、百合の瞳の中で立ち尽くしているのだ。
「嫌われちゃうかもって思ったから・・・ずっと隠してたんだけど」
ここで生徒たちは立ち上がり、「ええええ!?」と絶叫に近い驚きの声を上げた。
「だけど、月美ちゃんなら、本当の私を受け入れてくれると思ったの」
まさか・・・そんなまさか、という思いが徐々に確信へと変わっていく中で、生徒たちの動揺は歓声となって劇場を埋め尽くしていく。
「もちろん、片想いかも知れない。でも、私の気持ちを知って、私を嫌いになるような人じゃないと思ったの」
ここで初めて月美は「あら・・・? 私にありがとうを言う流れとちょっと違うのかしら・・・」くらいの感想を抱いた。実に鈍感なお嬢様である。
「だから私、嘘をついて生きていくこと、今日でやめるんだ♪」
乙女たちのキャアキャア言う歓声は、遊園地のオバケ屋敷に、大好きなアイドルがオバケ役として突然登場した時のような、歓喜の絶叫といった感じであり、それが大海原の潮騒のごとく劇場を満たして空気を震わせた。
そこに偶然生まれた一瞬の静寂の中で、百合はついに、本当の自分を月美にさらけ出すのだった。まっすぐに月美の瞳を見上げて、百合は大きく息を吸い込んだ。
「私、月美ちゃんが大好き・・・!」
月美の理性がその言葉を理解するより先に、月美の胸がドキリと音を立てた。
「愛しています・・・月美ちゃん!」
そう告白した百合は、恋する乙女の恥じらいのある優しいスマイルを月美に送った。
「一言・・・お返事くれたら、嬉しいかな♪」
百合が今までの人生で一番緊張した、愛の告白シーンであった。
「きゃああああああ!!」
「あの百合様が!!??」
「月美様を愛してたなんてーー!!」
小鹿とウサギがビックリして通路で飛び跳ねてしまう大歓声である。これはもう大パニックのお祭り騒ぎだ。
しかし相手は超クールな月美お嬢様である。どんな返事になるか想像が出来ず、生徒たちは慌てて席に戻り、息を呑んで月美の言葉を待った。誰がやってくれたか知らないが、この素晴らしいタイミングで月美にスポットライトが当たった。
人は余程のことがない限り、過去と未来を行き来したい願望を常に少~しだけ持っていると言える。
あれ、あっちのレジのほうが空いてたかな、とか、あっちのシャツのほうが良かったかな、とか、いつも小さな迷いや反省を繰り返しており、ベストを尽くしたと思っていても、過去に戻ってもう一度トライできるなら別のやり方も試したいなぁなどと思ったりして、「今」という時間を100パーセント愛せる者は少ないだろう。
しかしこの時の月美は違った。
ようやく百合の言葉の意味が分かった月美は天地がひっくり返るような大混乱の中、今聞いた台詞が夢であって欲しくないという強い願いをとりあえず抱いた。こんな夢みたいに嬉しいことが現実にあっていいのだろうかと疑問に思ったが、おそらくこれは夢ではないわけで、百合が月美に告白してくれたことは事実であり、今というかけがえのない時間が突然逆戻りして別の結果になってしまうこともない。この幸せは今、月美のものである。今はとにかく、どう返事をするかが重要なのだ。
(どどどど、どうしましょううう!!!)
月美は頭がくらくらした。
冷たく断ってみるなどという硬派な発想は、もはや思い浮かびもせず、かといって素直に「私も実は、愛してま~す♪」みたいには言えない。だがここで「いいお友達でいましょうね」という流れにしてしまったら、一生後悔するであろうことは火を見るより明らかだった。直前に見たルネさんの告白はもちろん、ここ数か月の流れが全て、月美の口から今、YESを言わせるためのものだったように感じられるのだ。
(ずっと一緒にいた百合さんが・・・一緒にごはんを食べたり・・・二人三脚の練習したり・・・浜辺を歩いたり・・・子猫を助けたり・・・同じベッドで眠ったり・・・とにかくずっとずっと、ずーっと隣りにいた百合さんが・・・私のこと、好きだったなんてぇえ・・・!)
それが嬉しくって嬉しくって、まともに考え事ができない。月美の体感ではおよそ2分くらい無言のまま、彼女は海賊船の甲板で顔を真っ赤にしていた。実際には20秒くらいである。
やがて観客たちは月美に向かって「がんばってぇー!」と声援を送り始めた。
すぐに断らないということは、両想いなのではと、乙女たちは察したわけである。そうであって欲しいというロマンチックな希望が半分くらい込められているが、とにかく劇場は、月美への声援に包まれていった。
「月美ぃー! どっちなのよぉ! ねえ、ねえ!!」
綺麗子も大喜びで騒ぎながら月美を応援している。
そんな中、実は一番熱心に月美にエールを送っていたのは、ローザだったかも知れない。
(月美ちゃん。あなたは昨日までの私みたいな、寂しいお嬢様になっちゃダメよ! 百合ちゃんの勇気に応えてあげて! もう充分頑張ったんだから、幸せになって・・・!)
やっぱりローザは天使である。
どれくらい時間が経っただろうか。
「わ、わた・・・」
月美は、無意味に髪をいじりながら、誰も聞いたことがないような、とっても乙女チックな小さな声で答えたのである。
「わ・・・わた・・・私・・・も・・・あの・・・」
優しい波の上に浮かぶ桜の花びらのように、月美の声は可憐に揺れていた。
私もまあ別に、あなたのことは嫌いだと思ってはいませんのよ、みたいなことを言うのが月美の限界だったわけだが、「私も・・・」で言葉が詰まってしまったせいで、逆に本心に近い表現となった。
(つ、月美ちゃん・・・!)
声援の中で、「もしかしたら」と思っていた百合の気持ちは確信に変わった。百合にとっては本当に本当に信じがたい話だが、ルネが言っていた通り、二人は両想いだったのだ。
「月美ちゃんっ・・・!」
雪解け水のような涙をこぼしながら、百合は海賊船の裏側に回り、階段を駆け上がった。そしてスポットライトの美しい円に切り取られた甲板の上で、月美と向かい合ったのである。
「月美ちゃん・・・今・・・私も、って言ってくれたの?」
「うっ・・・あ・・・」
言い逃れが出来ない月美は、言葉を探してあたふたした。
「あ・・・あぁ、あの! 私、女なんですけどぉ・・・!」
「知ってるよっ!!」
百合は泣きながら笑って答えた。
そしてもう一歩、月美に近づいて、語り掛けたのである。
「・・・初めて会った時も、船の上だったね」
「あっ・・・」
思えば長い船旅であった。
「私、月美ちゃんを愛してます・・・あなたはどうですか?」
百合は優しく、月美の顔を覗き込み、まるで年下の妹としゃべっているかのような甘い声で尋ねたのだ。
「ねえ、愛してる?」
「うん・・・」
「愛してるの?」
「うん・・・」
「じゃあ、愛してるって言って♪」
「あ・・・う・・・」
月美の中の硬派なお嬢様は、ようやく白旗をあげたのである。
「あ・・・愛してる・・・」
涙でかすむ視界の中でその言葉を聞いた百合は、そっと月美の腰に左手を回し、右手で彼女の温かい顎に触れると、そのまま優しく、とっても優しく、キスをしたのだった。
これが二人のファーストキスである。
恋のドキドキが心身の許容量を大きく超えてしまった月美は、百合の幸せな唇の感触に完全に魂を奪われ、超ハッピーな気持ちのまま気絶してしまったのだった。全校生徒からの祝福の嵐を月美は半分夢の中で聴くことになってしまうわけである。
実はこの後、目が覚めた後の月美は、ちょっとしたトラブルに見舞われることになるのだが、それはまた別のお話である。これからも月美は百合とずっと一緒だから、何が起きてもきっと大丈夫だ。
「ピヨ~」
もしも毎日を幸せに生きる方法があるとすれば、それは我に返る時間もないほど、何かに夢中になることかも知れないと、青い小鳥のピヨちゃんは思ったのだった。月美たちの場合、それが恋愛だったという事である。
「月美さん、大丈夫ですかね・・・」
海賊船まで上がってきてくれた桃香が心配そうに月美のおでこに手を当てた。
「大丈夫、ちょっと眠ってるだけよ!」
綺麗子はどんなお祝いパーティーを開こうか早くも考え始めている。
「んもぅ♪ ちょっとキスされただけで気を失っちゃうなんて、月美ちゃん純情なんだから♪」
ローザはいつもの調子を取り戻したらしく、相変わらずの軽い感じでやってきた。
「よほど疲れたんだろう。この一年間の緊張は相当だったろうからね」
「とてもお似合いだわ。月美さんと百合さん」
「まあ私はなんとなく気付いておったがのう」
先輩たちも祝福してくれた。こうやって集まるとヒトデの格好をしたアテナ会長がちょっとシュールである。
「百合ちゃん、お幸せにね♪」
「はいっ!」
ローザは百合の頭をポンポンと撫でてくれた。
「百合ったら・・・! 告白までするなんて聞いてなかったわよっ」
「言ってませんもん♪」
ルネも大喜びで百合に抱き着いてきてくれた。舞鶴先生も手を振ってウインクしてくれている。
鳴りやまない拍手と大歓声の中、百合は自分の膝枕ですやすや眠っている月美の頬を、指先でそっと撫でてあげた。
「本当にありがとう、月美ちゃん♪ これからもよろしくね」
月美の柔らかい頬では、嬉し涙の跡が流れ星のようにキラキラと輝いていた。