37、前夜の雪
12月23日の朝は、静かな温もりに包まれいる。
凍えた空気を割って差し込む金色の朝日の中、霜柱を踏みしめてレストランに向かう調理当番の少女が数人いるが、ほとんどの生徒はまだ眠っている時間だ。
月美たちが暮らす寮は島の西側だが、比較的高所にあるので朝日は窓辺にいっぱい降り注ぐ。今はカーテンの向こう側に隠れているが、朝の気配は月美の頬をそっとくすぐり始めるのだった。
「ん・・・んん~」
目覚ましアラームが鳴るより早く、ぼんやりと目を覚ました月美は、優しい温もりの中で足をグッと伸ばした。彼女はまだ頭が回っておらず、夢の中で見かけた百合の美しい横顔をまぶたの裏に映してうっとりした。
(百合さんって・・・どうしてあんなに優しくて、美しいんですの・・・)
乙女の永遠の憧れとも言うべき美が、百合の姿を借りて地上に舞い下りてきたに違いないのだ。
切ないような、それでいてとっても幸せな不思議な気分になった月美は、何気なく寝返りをうった。
「うっ・・・!」
そして月美は思い出したのである。自分が百合と一緒のベッドで寝ていたことを。
(ひぃいいい!!)
月美はハイテンションな時のアザラシのように素早く反対側に寝返りをうって百合から離れ、壁にぴったりくっついた。
(こればっかりは慣れませんわぁ・・・!)
夜中に目が覚めた時もこんな感じで百合の美しさに怯え、距離を取るのだが、ベッドはそんなに広くないので逃げるのにも限界がある。ちょっと油断するといつの間にか百合の温かい脚が月美の太ももに触れたり、手のひらが偶然重なったりするので、月美はいつも寝不足になるのである。体がずーっと火照っているので、真冬にはありがたい状況ではある。
ノイズ混じりの明るい声がスピーカーから流れ始めたのは、そのすぐ後だった。
『おはようございます! ビドゥ学区クラシカルラジオが、6時15分をお知らせします! 文化祭直前で浮かれているメリークリスマスな皆さ~ん、おっはようーございまーす!』
目覚まし時計のアラームをラジオに設定できることに気が付いた月美たちは、先週くらいからこのようにラジオ音声で目覚めているのだ。朝から元気な放送委員の生徒の声が小さな音量で流れる部屋の空気は何だかとっても爽やかだし、学園の最新情報も聞けるので一石二鳥である。
ラジオのお陰で百合も目を覚ました。
しかし、いたずら好きの百合は、そのまま眠っているフリを続けたのだ。そして「ん~・・・」などと言いながら、月美のほうにわざと寝返りをうったのである。
「ちょっ・・・! うっ!」
月美が慌てている。
寝る前などはお互いに緊張してしまって、髪を撫で合ったりすることしかできないが、まだ寝ぼけているこのタイミングなら、少し大胆ないたずらも出来るのである。百合は温かい背中で月美の胸のあたりにむにゅうっと寄りかかって、伸びをするような動きで月美の太ももの間に脚を入れた。本当はこのまま月美に抱き着いてしまいたいのだが、そこまですると嫌われちゃいそうなのでやめておこうと百合は思った。
『今日の女学園島の天気はおおむね快晴、と見せかけて、夜から大雪が降り出す模様です! 気になる明日の天気ですが、大雪は朝までに止みますが、軽く除雪作業をしないと機馬車は使えないかも知れません。明日は朝から忙しい文化祭になるでしょう!』
百合の背中に密着し、ドキドキが止まらない月美は、天気予報なんてほとんど耳に入らなかった。百合の美しい髪の毛が鼻先をふわっと近づいてきて、月美の体はとってもじんじんしてしまった。
(た、助けてくださーい・・・!)
月美は百合に目を覚まして欲しくて背中を小さくトントンと触ったりしたのだが、そのあとも5分くらい百合は寝たフリを続けて月美に寄り添っていた。
(月美ちゃんの体、あったかいなぁ・・・)
百合のほっぺも、月美と同じくらい赤くなっていた。
(月美ちゃんの胸、手で触ったらどんな感じなんだろう・・・)
背中で感じる月美の胸の感触が、とっても優しくてぽよんぽよんで、百合をドキドキさせた。
(って、私何考えてるんだろう・・・!)
百合はちょっぴり体を縮こまらせて、恥ずかしがった。とっても幸せな、二人の朝のひと時である。
「おはよう月美! 百合!」
ようやく起床した月美たちが食堂へ行くと、いつもの席で綺麗子と桃香が待っていた。冷蔵庫のように寒い廊下から温かい食堂に入ってきた時の安心感が、朝食をより美味しくしてくれるわけである。
レースのカーテンと曇りガラスの向こうに広がる海は氷のように冷たいはずだが、見た目は宝石をちりばめたシルクのカーペットみたいな感じであり、眺めているだけで肩の力が抜け、とても癒される。
「今朝は春雨だったわ!」
月美たちの朝ごはんを、綺麗子たちが既に用意してくれていた。
ちなみにこの島の春雨はアヤギメ学区で収穫できるお芋が原料なのだが、春雨のくせにやたら栄養豊富であり、大して低カロリーではないから、食べ過ぎには注意である。
「今日は文化祭直前の最後の練習だけど、例の作戦、アテナ会長たちに相談しにいくわよっ!」
身を乗り出し、周りの生徒にギリギリ聞こえない声量でそう言った綺麗子に、月美たちは頷いた。
月美たちは今、全ての問題を丸く収める作戦を決行しようとしている。なにしろローザ会長の恋を全校生徒にばらすわけにはいかないので、忍者のように秘密裏に行動しなければならないのだ。
ちなみに、毎晩寮のエントランスに集まり、百合をストラーシャ学区に奪われないように話し合っている生徒たちは今、みんな暗い顔をしている。早く彼女たちに良い報告をしたいものである。
「ローザ様が一人でどこかに出かけるタイミングが必要なわけだけど、もしかしたら今夜、ルネさんに会いに療養所へ行くんじゃない?」
百合の発想はこういう時、結構冴えている。
「そうよ! 今日は土曜日だし、おまけに文化祭前だから、絶対ルネ先輩とおしゃべりしにいくに違いないわ!」
綺麗子や桃香はルネにまだ会ったことがないわけだが、だいぶ状況を理解してくれている。
「でも、今夜から明日にかけて大雪になるみたいですけど、機馬で丘の上まで行けますかね・・・」
月美たちと同様に朝ラジオで天気予報を聞いていた桃香ちゃんが、パンに林檎ジャムを塗りながら心配している。桃香ちゃんのほっぺに少しだけジャムが付いている事に月美と百合は気づいているのだが、指摘すると絶対恥ずかしがるので、自分で気づくまでもう少し様子を見ようと思った。
「そっか、明日はホワイトクリスマスってやつね!」
「明日はまだクリスマスイブだけどね・・・」
「ふーん。でも明後日まできっと雪残ってるわよ! 文化祭が終わったら、みんなで雪だるま作るわよ!!」
綺麗子は疲れというものを知らない。
(ん・・・?)
月美はここで、記憶のどこかで見かけた、ある一文を不意に思い出した。
(あら? なんか・・・随分前に、クリスマスイブの天気を知っている人はどこかに来いみたいな手紙がポストに入ってたような気がしますわ・・・)
半年くらい前のことなので、当然その時の月美はクリスマスイブの日の天気なんて知らなかったわけである。結局あの手紙が何だったのか、月美にはサッパリ分からない。
「それにしても、明日の劇、緊張するわねぇ!」
綺麗子はボロボロになった台本を取り出し、メモがいっぱい書かれたページをめくって目を輝かせた。月美たちは百合の引っ越しを阻止することに毎日必死であるが、明日の文化祭は学園で一番大きなイベントであり、人気生徒が総出演する演劇は特に注目を集めている催し物であるから、しっかり演じ切らなければならないのだ。人の期待を裏切りたくないというのは、お嬢様の本懐である。
百合は綺麗子の台本をぼんやりと覗き込みながら、隣りの席にいる月美のことを考えていた。
(私、月美ちゃんにありがとうって、ちゃんと言ってないなぁ・・・)
まだ風車の問題が解決しておらず、ローザと交渉できていない段階なので、百合がビドゥに残れるかどうかはハッキリとは分からない。しかし、良い結果になっても悪い結果になっても月美が百合のために頑張ってくれた事実は変わらないのだ。
(どうやってお礼しよう・・・文化祭が終わって落ち着いたら、ケーキでも買いに行こうかな♪)
二人で一緒に年越しをできたら、きっと幸せだろうなと百合は思った。そして二人は来年からもずーっと一緒なのである。
もう冬休みなので授業はないから、午前中から劇の練習ができる。
陽気なクリスマスソングがスピーカーから流れる機馬車に乗り込み、4人はストラーシャの劇場へ向かった。最終日の練習はゲネプロと呼ばれ、舞台はもちろん、小道具なども本番と同じものを用いて行われる最終リハーサルとなるのだ。月美たちの緊張は、歌劇場の近づくにつれてどんどん高まっていった。
「わぁ・・・」
百合は白い吐息で感嘆の声を上げた。
劇場とその関連施設は、フランスのモンサンミッシェルのようにぎゅっとまとまって田園地帯に建っているのだが、その全てがクリスマス一色だったのだ。中央部にある広場はもちろん、以前お世話になった合宿所や良い香りのパン屋さん、機馬博物館に至るまで、全てが眩しく飾り付けられていた。赤と緑と金色の横断幕には『三日月女学園歌劇・人魚と海賊』と書かれてあり、日本語だけでなく色んな言語の旗がクリスマスベルと一緒に揺れていた。
劇場のすぐ前にある中央広場では、昨日完成したばかりの大きなクリスマスツリーが天を突いており、遠くから見た時とは比べ物にならない迫力で月美たちの頭上を夢のような色で飾り立ててくれた。このツリーはたった数日しか存在しないわけだが、それゆえに観光場所としての価値が高く、周辺はツリーを一目見ようと集まった少女たちでごった返していた。これ以上先は機馬車は入れないようだ。
「お、月美ちゃんたちかい!?」
聞き覚えのある爽やかな声が、広場にあるひと際大きな人だかりの中から聞こえてきた。演劇部の部長、翼先輩である。
「お、おはようございますわ~・・・」
「おはようっ」
翼先輩はなぜかサンタクロースの格好をしており、アテナ会長と一緒に、劇の宣伝のためのチラシを配っていた。宣伝などしなくても明日は大勢の生徒がこの劇場に押し掛けるのに、真面目な先輩たちである。
「そ、そういうのは私たちがしますのよ」
「いや、いいんだ。私たちは今年の文化祭で最後だし、目一杯楽しむことにするさ♪」
翼先輩は格好良くウインクした。実に素敵な先輩である。
同じくサンタの格好をしているアテナ会長は少々恥ずかしがっており、翼の後ろに隠れながらチラシを撒いていた。月美たちがじっと見つめていると、「そんなに見ないで・・・」とでも言いたげに頬を染めた。非常に可愛い。
「おうお前たち、よく来たのう・・・」
アテナ会長に見とれて月美たちが突っ立っていると、背後から別の先輩が現れた。毒舌で有名な浄令院会長である。
「お、おはようございま~す!」
「おはようじゃ。挨拶はいいから、この仕事を代わってくれぬか」
浄令院会長はなんと、トナカイの着ぐるみ風の衣装を着ていた。彼女は下駄を履いていないと結構小柄だったらしく、なんだかとっても可愛い。
「め、珍しい格好をされていますわね」
「ローザに騙されたのじゃ。わけの分からん衣装を発注しおって・・・」
浄令院会長はそう言って衣装のフードを外そうとしたが、集まってきた生徒たちがキャーキャー騒いで「浄令院様ぁー! 一緒に写真撮ってくださーい!」とか「あぁ! お洋服はそのままで!」などと言ってきたため、やめられなくなってしまった。こんな時間を過ごせるのも、文化祭のお陰である。
三年生の先輩たちにとって、この文化祭は卒業前の最後のビッグイベントなわけである。そのことを、月美たちは気づかされた感じがした。
「ローザ様も、もうすぐ卒業しちゃうんですわね・・・」
「そうだね・・・」
この学園に残される二年生のルネさんの気持ちを思うと、切ない気持ちである。
「あっ」
「あっ・・・!」
とここで、月美と百合はお互いに肩が触れ合うくらい近くに立っていることに気付き、慌てて一歩離れた。一緒のベッドで寝ているくせに、人前ではくっついているところを見られたくないお年頃である。
スポットライトはオレンジ色に燃える電気ヒーターみたいに熱を帯びて、ステージを夕凪の浜辺に変えた。
「待って下さい、海賊さん!」
百合はいつも遠慮がちな少女であるが、奇跡の美貌と健康的な体を持っているせいで、その透き通った声を3階の客席まで届けることが出来た。多少はマイクの力を借りているのだが、百合の才能は目を見張るものがある。
「人魚姫! ここに来てはいけないと言ったじゃないか!」
ローザ会長の演じる海賊船長にも、とても高校生とは思えない貫禄があった。言わされているような台詞がとにかく無く、本当に物語に入り込んでステージを駆けまわる彼女を見て、月美はちょっぴり妬いてしまいそうなくらいである。この演技力で、彼女はルネを守り続けたわけである。
「私は、あなたに伝えたいことがあるのです!」
海賊船のセットの甲板にいるローザたちに向かって、百合は悲痛な声を上げた。
「ぬぅ! またも現れた妖魚めぇ・・・! 船長! あやつめを撃ってしまいましょう!」
人魚姫に対して冷酷な対応をするこの船員が、月美である。月美としては百合さん相手にひどい台詞を言いたくはなかったのだが、同室で仲良く暮らしている二人だからこそ、このような演技を遠慮なく出来るわけである。もしこれで味方同士の役柄だったら、恥ずかしくて逆に演じられなかったかも知れない。
「待ちなさい! 撃ってはならない!」
「なぜですか! ・・・さては船長、月夜の魔力に取り憑かれましたな!?」
月美はここでカットラスと呼ばれる無駄に重い小道具の剣を取り出すのだ。
「なるほど・・・残念ですがここまでです! 船長! 夕日にお祈りなさい! 今からここで、波間に消えていただきます!!」
実は月美はちょっとカワイイ声をしているので、こういう台詞はしっかりお腹から声を出すよう意識している。
「私は・・・私の愛を貫くだけだ!!」
ローザの鬼気迫る言葉に舞台が震えると、二人の決闘シーンが始まるわけである。
この後、月美の演じる船員が負けそうになり、決闘では禁じ手とされるピストルを使い、海上の人魚姫に向かって銃弾を放つ。しかし船長がギリギリのところで駆け出し、人魚姫の代わりに銃弾を受けて彼女の命を守るのだ。どこかで見たことがあるような色んな童話をリスペクトしちゃった物語だが、生徒たちからは大人気のストーリーだ。
月美は二発目に放った銃弾が船長の首飾りに反射して自分の胸に当たり、あっさり死んじゃうわけだが、かなり人気のある重要な役柄なので、このキャスティングに感謝しているくらいである。月美お嬢様は、舞台の上でも最高に美しく、格好良いのだ。
「素晴らしいよ皆! あとは明日の本番を迎えるだけだ!」
最後のリハーサルは無事に終わったのである。
さて、ここからが重要なのだ。
練習後の月美たちは、とある重要な作戦を翼先輩、アテナ会長、そして浄令院会長に提案した。舞台袖で汗を拭きながら目を丸くした三人の先輩たちは、ローザとルネの関係を一切知らないので、その作戦の意図を簡単には理解出来なかったわけだが、「わかった。キミたちが言うのなら、信じよう!」と言って、協力してくれることになった。きっと月美たちへの信頼以外にも、ローザへの友情が少なからずあったからこその決断だろう。
「仕方ないのう。三日月女学園の力を見せてやろう」
浄令院会長に至っては、かなりノリノリであった。さっきまでローザに悪態をついていたトナカイさんとは思えない優しさである。
思えば月美たちは今までに色んな人のお世話になったり、仲良くさせて貰ったり、手助けしたりしてきたが、全てはこの日、このお願いをするためだったのかも知れない・・・そんな風に感じさせるくらい、先輩たちは無理なお願いを快諾してくれたのである。持つべきものは友人だ。
予報によると、雪が降り始めるのは日が暮れてかららしい。
生徒たちは大雪に備えて早めに帰寮し、雪道用のシューズを用意したり、雪かきのためのスコップを準備したりした。厚い雲がいつの間にか頭上を覆っている。
「明日はいよいよ文化祭ねぇ~」
「そうそうたる顔ぶれがステージに立つんだから、劇は見逃せないわ!」
「でもついに、何の手がかりもないまま年末になっちゃうわね・・・」
「百合様はローザ様に奪われちゃうんだわっ! あぁ、それはそれで素敵だけど・・・」
「素敵じゃないよぉ。百合さんは月美さんと一緒が一番幸せに見えるわ・・・」
「そうよねぇ・・・」
夕食の時間、島じゅうの生徒たちの話題はだいたいこんな感じだった。
月美たちの寮の食堂も、学園祭の話で盛り上がりつつも、百合を守る会の生徒を中心にちょっぴり沈んだ表情をしている者が多かった。早く彼女たちをホッとさせたいが、全ては作戦次第だ。
月美と綺麗子、そして桃香は、晩ご飯を食べながら、食堂から一番近い場所にある共用電話に意識を集中していた。とある連絡を待っているのだ。
一方百合も、立場は同じなのだが、実はちょっぴり違うことを考えていた。作戦とは別に、どうしても気になることがあったのである。
それは、もうすぐ卒業してしまうローザ先輩と、療養所に残されるルネ先輩の関係についてである。
(ローザ様は・・・絶対ルネさんのことが好きなのに・・・両想いなのに・・・このまま別れちゃうのは、もったいないよ! 可哀想だよ・・・!)
もはやこの問題は、百合にとって他人事ではなかった。自分だけの幸せを考えて生きていけるほど、百合の精神は強靭ではないからだ。
「月美ちゃん! 綺麗子さん! 桃香さん!」
そして百合は立ち上がった。
「まだ雪降り始めてないよね。私、行かなきゃいけない場所があるの!」
「わ、私も行きますわっ!!」
月美はかなりビックリしながらも、ほとんど反射的に協力を申し出た。
「いや、月美ちゃんは例の作戦をここで見守って。綺麗子さんたちも」
珍しく凛とした眼差しで仲間を見回す百合の様子に、月美はますますドキッとしてしまった。きっと誰かの幸せのために勇気を出して行動を起こそうとしているんだろうなと、月美は思った。
「それなら・・・行って来て下さい。ここは私たちが引き受けますわっ」
「ありがとうっ!」
そう言って駆け出した百合は、食堂を出る前にもう一度振り返って月美に目をやった。目が合った二人の間に、百合はとても熱い感情を感じた。二人はもう何年も、何十年も一緒にいて、ずーっとこんな感じでお互いを信頼し合っているような、そんな不思議な感覚である。
「舞鶴先生、今日は珍しく、熱がありませんでしたよ♪」
「え?」
キッチンでカボチャを切っていた舞鶴先生は、嬉しそうに平熱を報告してくるルネの言葉に、一瞬胸を痛めたが、すぐにほんわかしたいつもの表情で、「良かったなぁ♪ 今日はローザちゃんといっぱいおしゃべり出来るわぁ♪」と言った。
するとその時、窓の外から慌ただしい靴音が迫ってきたのだ。その靴音の主をルネが推理するより先に、療養所のドアがノックされた。
「ど、どうぞ」
「こんばんはっ! ルネさん、舞鶴先生!」
「あら、百合! どうしたの?」
大雪が降る話はルネもラジオで聞いていたので、帰れなくなるかも知れないこんな時間に、ローザ以外の訪問者が来たことにとても驚いた。
「ロ、ローザ様はいませんか?」
「来てへんけど、今日は土曜日やし、もうすぐ来るはずやでぇ♪」
「その、実は、ルネさんにご用があって来たんです・・・!」
「私に・・・?」
「ローザ様に内緒でお話をさせていただきたいんです・・・!」
ならばあまり時間は無いかも知れない。おそらくあと20分もすれば、ローザが機馬に乗ってここへやってくる。
百合は病室であまり大きな声を出しては申し訳ないと思い、少し深呼吸をして落ち着いてから、ルネのベッドの前で膝をつき、お祈りをするようなポーズをした。
「ルネさん! これは提案ではなくて、お願いみたいなものなのですが・・・」
「・・・な、なぁに?」
「明日の文化祭で、ローザ様に、その・・・」
舞鶴先生は鍋の火を止め、百合を笑顔で見守った。
「その・・・こ、告白してくれる気、ありませんでしょうか!」
「え・・・?」
ルネは一瞬、百合の言葉の意味が飲み込めず、小鹿のような可愛いお顔で首を傾げた。
「私、何でも協力します!!」
「いや・・・こ、告白って・・・告白!?」
ルネはとても色白なので分かりやすく赤面する。
「だ、だからそれは・・・私なんかじゃローザとは・・・つ、釣り合わないから・・・」
「そんなことありませんっ!」
百合は珍しく断言した。どこか優柔不断で、遠慮しすぎな毎日を送っていた去年までの百合は、今はもういなくなっているのだ。
「ルネさん、聞いて下さい。この一年間・・・というか9か月間ですけど、私はローザ様の考えていることが知りたくて、たくさんあの人のことを見てきました」
百合は緊張で震えそうになる声を強い意志で支えながら語った。
「けれど、ローザ様は一度だって私たちに気弱なところを見せませんでした。いいえ、私たちにだけじゃない。全校生徒から非難されても、一歩も退きませんでした!」
百合はベッドにそっと手をついた。
「全部ルネさんのためなんです・・・! ちょっとした友情や気まぐれで、ローザ様は学園をかき乱したりしません! ローザ様の優しさは、ルネさんが一番分かっていると思います。その優しいお姉様が・・・ここまで悪者を演じて頑張ったのは・・・ルネさんのためで・・・それが・・・もうすぐ・・・卒業・・・」
百合はここで、目頭が熱くなり、言葉に詰まってしまった。病気のルネさんの前で泣いていては迷惑になってしまうので何とか堪えようとしたのだが、涙はどうしても溢れてしまった。ローザとルネの絆が、このままほどけて消えてしまっては、あまりにも惜しく、可哀想だったからだ。
「百合・・・ありがとう。・・・泣かないで」
ルネは百合の頭を優しく撫でてくれた。
暖炉の薪が燃える音が、温かい室内で小さく踊るように弾けていた。しばらくの間、二人は黙っていた。
「ねえ百合」
「・・・はい」
やがてルネはそっと前かがみになり、百合の頭に白いほっぺをふわっと当てた。
「それじゃあ。百合も告白、してみない? 月美に」
「え・・・え・・・!? い、いや・・・それは・・・!」
急に百合が頭を上げたのでルネはぴょーんと飛んでいってしまいそうだった。
「ふふっ。やっぱり、いや?」
その勢いに、ルネはちょっぴり笑ってしまった。
「だ、だって・・・月美ちゃんは学園で一番硬派なお嬢様なんです! れ、恋愛なんか・・・絶対興味ないわけで・・・私なんかが、好きですなんて言ったら・・・嫌われちゃいます・・・!」
しかしそう言ってから、百合は自分が今、ついさっきのルネと同じようなことを言っていることに気付いた。舞鶴先生もクスクス笑っている。
ルネは聖母のような優しい瞳で百合を見つめながら言った。
「いつか百合ちゃんに言おうと思ってたの。百合ちゃんは、ストラーシャの学舎に行ったことある?」
「え?」
百合は今ビドゥ学区の生徒なので、そこで授業を受けたことは無いが、学舎の前なら何度も機馬車で通っている。
「・・・学舎の付近になら、行った事ありますけど」
「そこから、海は見えた?」
ストラーシャの学舎は美しい内海の浜まで徒歩5分というナイスな立地にあるのだが、学舎と浜のあいだの平らな土地にいくつもの商業施設が並んでいるため、残念ながら浜は全く見えないのだ。感じられるのは優しい海風と日焼け止めの香りだけである。
「たぶん・・・見えませんね」
「そうなのよ。中途半端に距離が近いと、見えないの」
ルネは今にも雪が降り出しそうな厚い雲の隙間に見える星明りに目をやった。
「でもね、離れてるとよく見える。この丘からは内海が一望できるわ。波の静かさとか、きらめきとか、賑わいとか・・・近くにいるよりも感じられるの」
たしかに、世界中の観光地に当てはめて考えてみても、港付近のバス停でキョロキョロするより、高所まで登ってしまったほうが、夜景は美しく見えるだろう。
「それと同じなの。遠くから見てる私たちのほうが、月美の気持ち、ちょっぴり分かるわ。信じられないかも知れないけどね♪」
ルネはそっと微笑みながら天井を見上げた。
近くにいるからこそ、相手の本当の気持ちに気付けない場合がある、ということである。
「そうね・・・百合の言う通り。もうすぐローザはこの島からいなくなってしまうのね・・・」
卒業とは、とても残酷なものである。
ルネはそっと目を閉じ、しばらく何かを考え込んだあと、微笑みながら小さく頷いた。
「わかった。わかったわよ百合。あなたに負けたわ。私、頑張ってみる」
「ほ、本当ですか!?」
「うん。百合ちゃんは、じゃあ・・・告白なんてしなくていい。心の底から、感謝の気持ちを伝えてあげて」
「え・・・?」
「普段思っていることを、素直に話してみるの。あなたにはきっと、素直になる才能があるわ」
どこかで聞き覚えがある言葉だなと百合は思った。
(感謝の気持ち・・・)
それはまさに、百合が月美に伝えたいと思っていたものだ。
「月美はとても・・・とても凄い人だわ」
「・・・私も・・・そう思います」
「あなたを守るために、ずっと頑張って来たんでしょう?」
「は・・・はい」
月美ちゃんはローザ様と同じだなと気付いた百合は、綺麗な瞳から、また涙をこぼしてしまった。
「そんな人が、あなたのことを嫌いになるわけないと思うわよ」
窓の外の優しい静寂に、真っ白な雪が一つ、また一つと、舞い下り始めた。
「私や舞鶴先生の言うことはまだ信じられないかも知れない。出会ったばかりだもの」
百合の涙はその雪の面影をなぞるように静かに彼女の柔らかい頬を伝い、手の甲へ落ちていった。
「けど、月美のことは、信じてみない?」
4月から一緒に歩んできた月美との楽しい毎日が、百合の涙になって次々とあふれてきた。
「信じてあげて。月美が、あなたを想う、強い気持ち♪」
「うぅ・・・」
涙はいつまでも止まらなかった。
文化祭前夜の雪は、月の見えなくなっていた暗闇を、月明かりのように真っ白に染め上げていく。まるで百合を励まし、そよ風に乗って肩を抱いてくれる花びらのような、優しい夜の雪であった。