30、ぬいぐるみ
鮮烈な紅葉の枝々が、秋の光の中で静かに揺れている。
カナダの国旗でおなじみのメープルの葉も、舞い落ちた路傍の陽だまりに華やかなオレンジ色を添えてお昼寝中である。
この女学園島はハワイ風のエリアがあるくせに秋や冬の寒さが厳しいらしく、紅葉の時期がちょっぴり早いのだ。
さて、そんな美しい紅葉の燃える山々を越えて、あっという間に島じゅうに広がった話題がある。百合が主演女優として演劇に出る噂だ。
「百合様が人魚姫をやるらしいわよ!」
「やったあああ!!!」
「まさか本当に出てくれるなんて!!」
「ストラーシャ歌劇場のチケットっていくらするの!?」
「い、いや、文化祭の劇だから無料でしょ」
「ローザ様が海賊船長の役をやるらしいわ!」
「月美さんも出るんだって!!!」
「百合様と月美様を同じ舞台の上で見られるのねぇ!!」
「楽しみぃい!!」
この学園の文化祭はなぜかクリスマスイブの日に開催されるため、当日はイルミネーションを着飾ったモミの木やクリスマスソングに彩られた、ド派手でロマンチックな一日となる。年末は高確率で雪が降るので、雪まつりのような雪像コンテストなども開かれるらしいが、やっぱり生徒が一番注目しているのは学園のスターたちが勢ぞろいする演劇なのだ。
本番の会場はストラーシャの劇場だが、稽古はビドゥの劇場に併設されているレッスン場で行われる。演劇部の本部がビドゥ学区にある関係で、ここのほうが人が集まりやすいのだ。
「海賊たちは野蛮で、話が通じません! 今日だけで5000の足跡が浜辺に付けられ、30の像が奪われました!」
ジャージ姿でもカッコイイ翼先輩は、台本を見ずにすらすらと台詞が出てくる。さすが演劇部の部長だ。
「女王様、正確には4866の足跡と27の像です。像はすべて海中にありましたが、なにぶん海水が透き通っておりますので、海賊船からは丸見えなのであります」
浄令院会長はいつも「なのじゃ」みたいな喋り方をするが、さすがに演技中は東京風のイントネーションである。
「とにかく、海賊共がこの島から去るまで、我ら人魚は息をひそめるしかありませんね。我が娘はどこですか。改めて注意しておかなければ」
「女王様、それが、姫様はつい先ほど浜の方へ行かれてしまわれました」
「なぜです!?」
「迷子になったようです」
「な、なんですって! あのドジっこ姫め!」
普段は穏やかな喋り方をしているはずの翼先輩の声が、広いレッスン場に力強く響き渡る。合唱部の子たちも同様なのだろうが、彼女はまるで運動部員のようなストイックさで毎日発声を鍛えているのだ。やはり、地道に勝る道はない。
「今日はここまでにしましょう。おつかれさま!」
この劇の監督、アテナ会長が立ち上がってそう言った。
ちなみにアテナ会長は監督をこなしながら、波打ち際のヒトデという脇役でチラッと登場する予定なので、ファンたちはよく目をこらして当日の舞台を見て頂きたい。
「百合さん、おつかれさまでしたわ」
「うっ!」
舞台袖の床にペタンと座り、自分の台本に演技のメモを書いていた百合は、突然背後から掛けられたクールで優しい声にビクッとしてしまった。
「つ、月美ちゃんも、おつかれさまぁ~・・・」
百合はいつも通りの笑顔を作って平静を装った。もう胸がドキドキしている。
「私の出番は劇の前半が多いですけど、百合さんはずっとですもんね」
ちなみに月美は海賊船の乗組員の役である。
「そ、そうだね。でも、あ、うん! 頑張る♪」
「はい。頑張って下さい」
舞台で演じるより、恋心を隠す演技のほうがよっぽど大変だなと百合は思った。
百合と月美は同室で暮らしているわけだが、花火大会の夜以降、部屋はちょっと不思議な空気に包まれている。
以前は何の理由もなく月美の脇腹などをつんつんしていたイタズラ好きの百合が、最近は布団を被って顔だけ出し、月美を横目でじっと見つめ、目が合うと枕に顔をうずめるという状態である。実に怪しい。
鈍感な月美は百合の恋心になど気付くはずもなく、むしろ自分の恋心を百合に悟られない努力を引き続き頑張り、クールなフリをしているわけである。最近の百合の様子がおかしいのは、タイムリミットである年末が近づいてきているから、そわそわしているのだろうというのが月美の解釈だ。
「あのぉ、月美さん、百合さん、お飲み物どうぞ」
「あら。ありがとうございますわ」
月美たちが舞台袖の床に座って台本を振り返っていると、桃香ちゃんが紙コップのココアを持って来てくれた。濃厚なチョコレートの香りが温かく立ち上る、ホットココアである。
「わぁ! ありがとう、桃香さん♪」
「い、いえいえ! こういうのが私の仕事ですので」
月美と二人だけの空間に緊張するようになってしまった百合にとって、桃香の登場は有難かった。百合は桃香がすぐにどこかへ行ってしまわないように、月美と挟むような形で彼女の居場所を作った。
(わぁ・・・月美さんと百合さんに挟まれちゃった・・・)
桃香はドキドキした。
練習後のこの時間も、生徒たちはレッスン場に残り、台本を見ながら細かい演技や演出について考えたり、互いに意見を出し合ったりするのが恒例の過ごし方になってきたのだが、今日は桃香ちゃんも巻き込まれたわけである。
しばらく3人で話し合っていると、月美が気になるものを見つけた。
「あら・・・桃香さん、そのぬいぐるみは何ですの?」
「あ、これですか?」
桃香は作業用のポーチに小さなぬいぐるみのキーホルダーをつけていた。それは明らかに、月美によくまとわりついてくる青い小鳥ちゃんがモデルと思われるぬいぐるみだったのである。
「これ、ピヨちゃんぬいぐるみです」
「ピ、ピヨちゃん・・・?」
「はい。最近流行ってるんですよ」
例の青い小鳥、実はもうかなり有名になっており、月美お嬢様を慕ってこの島にやってきた幸せの青い鳥であるとして、彼女を商品化している手芸店がいくつかあるのだ。
「あの子いつの間にそんな人気者になってましたの・・・。名前までつけられて」
「ピヨ~って鳴くからピヨちゃんなんです」
素晴らしいネーミングセンスである。
ピヨちゃんぬいぐるみの話題に気分が軽くなった百合は、ぬいぐるみを指先でつんつんした。
「これ一番小さいぬいぐるみなんですよ。もっと大きいやつもたくさん売ってます」
「へー、そうなんだ♪」
「大きいやつは高価ですから、私は買えませんでしたけど」
「ふーん♪」
「抱き枕みたいに大きいのもあるんですよ」
「へ~」
百合は桃香の小さなぬいぐるみを優しくつんつんし続けた。まるで月美にしていたように。
「やっほー! あなたたちココアなんて飲んでるの? 私は大人だから、コーヒーよ!」
しばらくすると、赤いジャージがよく似合う綺麗子が登場した。
「あら、でも綺麗子さん、そのコーヒーにはお砂糖が入ってるんじゃありませんの?」
月美は軽くため息をつきながら綺麗子に言い返した。
「え? そ、そうだけど」
「しかもあなた、二本くらい入れてません?」
「い、入れてるけど何なのよ!」
「私がコーヒーを飲む時は完全にブラックですわよ」
「え!? ブ、ブラックって、味しないじゃない!?」
「何を言ってますの? コーヒーの味や香りを楽しむにはブラックが一番ですのよ」
「さ、砂糖なしで飲んでるの!?」
「そうですわよ。コーヒー豆がもったいないので、綺麗子さんは砂糖水でも飲んだらいいと思いますわ。カブトムシみたいに」
「カ、カブトムシですってぇ!?」
お嬢様同士が、常人には理解不能なハイレベルな舌戦を繰り広げているが、百合はその様子をちょっぴり羨望の眼差しで見守っていた。
(綺麗子ちゃんって凄いなぁ。月美ちゃん相手に、あんなにフレンドリーに接してて)
恋愛感情という籠に閉じ込められたカナリアとなってしまった百合にとって、綺麗子の振る舞いはほとんど神業であった。
(月美ちゃんも活き活きしながらおしゃべりしてるし、羨ましいよ・・・)
百合はため息をついた。以前のように、月美ともっとスキンシップを楽しみたいものである。
その時、桃香が突然「あっ」と小さく声をもらした。
「百合さん、そう言えばここ、ミスプリントだったみたいですよ」
台本の不備を思い出し、教えてくれたのだ。
「ここ何も書いてないですけど、この台詞が終わったら舞台は暗転するみたいです。メモしておいて下さい」
百合は桃香の言葉を聞きながらも、9割くらいは月美のことを考えたままなので台本にまで意識がいかない。
(んー、こんなことになるなら、月美ちゃんをもっと抱きしめておくんだったなぁ・・・)
後ろから抱き着いたり、首元にキスをしたりするチャンスがたくさんあり、実行に移せる心理状態だったというのに、なんとなくやらなかった事を、百合は今とても後悔している。
(月美ちゃんを後ろから、ぎゅ~ってしたいなぁ・・・)
考えただけで甘い幸福感が胸の中で跳ね、同時にとても切なくなる。
このとき百合は、桃香の話を聞くために彼女に接近しながらも、思い切り月美のことを考えていたから、妙な行動に出てしまった。
「はぁ・・・」
小さくため息をつきながら、無意識に桃香を後ろからそっと抱きしめていたのである。
(あ・・・私なにやってるんだろう。まずいかな?)
我に返った百合は一瞬そう思ったが、相手は優しい桃香ちゃんなので多少の無礼は冗談として許してくれるだろうという意識が働き、腕は彼女の腰に回したままにした。
(あー・・・なんか凄く落ち着く・・・)
月美とのスキンシップに飢えていた百合にとって、桃香ちゃんのふわふわした優しい温もりは束の間の癒しであった。月美のそばにいる時のドキドキは全く感じないが、とても癒される事は間違いなかった。さながら桃香ちゃんセラピーといった感じである。
(しばらくこのままでいさせてもらおっと♪)
百合は桃香の柔らかい髪に鼻先をうずめてにっこり笑った。
女子中学生や女子高生が教室の後ろのほうの席でよく、こんな感じのスキンシップをしていることがあるが、彼女らは必ずしもラブラブの恋仲というわけではない。満たされない恋の欲求を発散するために無意識に抱き着いたりしていることがほとんどなのだ。今の百合はそんな感じである。
「あ、それで、台本のどこに不備があるんだっけ?」
かなりご機嫌になってきた百合は、桃香の肩にあごを乗せながら彼女にそう尋ねた。
しかし、よく考えて頂きたい。学園一の美少女と言われる百合が、舞台袖の暗い場所で、ふわっと後ろから抱き着いてきたのであるから、桃香のハートの状態がまともであるはずがない。
(ゆゆゆ、百合さん!? な、な、なんでこんな、ええ!?)
とてもカワイイ顔をしているくせに一般人扱いを受けており、おまけに非常に謙虚な桃香は、なぜ今自分がこんなことになっているのかサッパリ分からず、大困惑した。
「暗転って言ったっけ。それ、どこ?」
「そ、そこです・・・あっ・・・!」
「ここ?」
「はい・・・うっ・・・!」
百合は桃香を抱きしめたまま片手を伸ばし、しっかりメモをとっておいた。
(あんまり長時間抱き着いてると、さすがにイヤがられるよね)
百合は最後にぎゅうっと強めに抱き着いてから、桃香の背中をそっと離れた。
「ビックリした?」
「え!?」
「ふふ♪ ごめんね。イタズラしちゃった♪」
百合は無邪気に微笑んだ。
「いえ・・・全然、その・・・あはは」
桃香はお風呂上りみたいに赤い顔をしながら笑った。彼女にとっては最高の思い出である。
一方、綺麗子を相手にコーヒーだかカブトムシだか訳の分からないトークバトルを楽しんだ月美は、満足げな顔をして、何も知らずに舞台袖に戻ってきた。
「綺麗子さんはしばらく語尾に「カブ」をつけることになりましたわ」
なぜそうなったのかは謎である。
百合は前髪を整え、少しうつむきながら月美に視線を送った。
(月美ちゃん・・・かっこいいなぁ・・・)
桃香のお陰でだいぶ気持ちが軽くなったが、やはり月美の魅力を前にすると百合の恋は太陽のように燃えてしまうのだった。
「ちょっと百合さん・・・ホントにそんなの買いますの?」
「うん♪」
その日の帰り、大通りのぬいぐるみ屋さんに寄った百合は、大きな大きなピヨちゃんぬいぐるみを抱えてレジに並んだ。
「そんなのどうしますのよ・・・」
「ベッドに置こうと思って♪」
「あらまあ・・・」
百合は笑顔でぎゅうっとぬいぐるみを抱きしめた。
まさかこれが「月美ちゃんを抱きしめたい」という欲求を発散させるための抱き枕であることに、月美は全く気付いていないのだった。