29、立候補
雨の日のカフェテラスには、ミルクティーの香りがよく似合う。
「私、アールグレイのホットで!」
「ローヤルミルクティーを一つお願いします」
「ダージリンのミルクティー下さい!」
それにしても今日の紅茶の売れ行きは異常であった。
ビドゥ学区の学舎の裏手にあるこのカフェは、普段は島原産の希少な植物を調べる研究部の生徒が、白樺の林をのんびり眺めながら一息つくのに利用するだけの店である。しかし、今日は先週の花火大会を彷彿させるような賑わいであり、来店したほとんどの生徒が屋根付きのテラス席に押し寄せたのだった。
それもそのはずである。
今日は文化祭の配役決定会議が学舎二階の講堂で開かれているのだが、このカフェテラスは、講堂の窓が見える唯一の場所だったからだ。
「会議始まってます!?」
「双眼鏡持ってる人ー?」
「持ってるけど貸してあげないよぉ♪」
「見せてよぉ!」
キャンバス生地の屋根を伝い、簾のように連なって地面に打ち付ける雨水越しに、少女たちは目を凝らした。講堂の窓には、ブロンドヘアーが美しいアテナ会長の姿が見える。
「百合さん、大丈夫ですの?」
「え!?」
講堂の長机に視線を落とし、ぼんやりしていた百合は、突然月美に声を掛けられて飛び上がった。
「な、なんでもないよ~!!」
なんでもない人の反応ではない。
「・・・怪しいですわね。何を企んでますの?」
「え、ちょ、ちょっと、お腹空いたなぁって!」
「さっき食べたサンドイッチはどこへ行きましたの?」
「サ、サンドイッチ・・・あ、そっか! ごちそうさま!」
「・・・何を言ってますの」
花火大会の夜以降、百合の様子がおかしいことは明らかだったが、その理由に月美は心当たりがなかった。今から大事な会議が始まるというのに、ちょっと心配である。
(月美ちゃんに、怪しまれてるかなぁ・・・)
初恋という一言で片付いてしまうのが歯がゆいほど、近頃の百合の目に映る世界は、全てが新しく、不可思議なワンダーランドであった。
自分が今何をしているのか自覚できず、月美ちゃんに話しかけられて我に返る瞬間ばかりだった。
心臓がずっと月美ちゃんを探している感覚・・・。
でも、いざ彼女と目が合うと何を喋っていいか分からなくなった。
月美ちゃんと過ごす全ての瞬間が、陽だまりのように眩しく、輪切りのレモンのように酸っぱかった。
月美ちゃんの瞳の先に、自分の知らないものがあると、それだけで胸がざわついた。
親しみだけを感じていられた時に見えていたものが、見えなくなった。
月美ちゃんが、近くて遠い存在になってしまったように感じるのだ。
見上げればいつもそこにある月の裏側が見えないように。
百合はまだ気持ちの整理がついていないのだが、この恋心を月美ちゃんに気付かれたくない、彼女に嫌われたくない、という思いはハッキリ持っており、それらが雑念となって二人の間に厚い霧を出していると言える。
ドラマと違って人生にBGMなんて流れていないが、恋という旋律に合わせて無意識に踊っているような感じである。これじゃあまるで魔法に掛けられているようなものだ。
美しくて優しい月美ちゃんの横顔に、繊細なワルツのような、儚い命の野花のような、神秘的な魅力を感じるようになった。
こんな経験は、本当に初めてなのだ。
百合はすっかり恋に翻弄されている。
「ごきげんよう。ここに集まって貰った皆さんは、演劇の配役の最終選考に残った子たちよ」
慌てて顔を上げた百合を見て、月美は少し安心した。
「選考と言っても、アンケートの結果と、生徒会長たちの会議で勝手に選ばせて貰っただけだから、まだ決定ではないの。最終決定にはあなたたちの意思が尊重されるわ」
講堂に集められたのは各学区の人気者たちであり、月美たちが知っている顔もいくつかあった。やはり上級生が多いが、皆それなりに緊張していたため、月美が一番堂々としているくらいだった。
(んー、私はともかく、百合さんを出演させるわけにはいきませんわねぇ・・・)
月美は要約された台本と配役リストに目を通しながら、冷静に考えていた。
モテ過ぎて困っている百合がよりにもよって舞台に立ってしまったら、どんなトラブルが起きるか分からないし、少なくとも百合の幸福にはつながらないと月美は思っている。
(もし、百合さんと今年でお別れということになってしまったら、12月の文化祭は二人の最後の思い出ということになりますのよね・・・。でしたら二人で静かに過ごしたいですわぁ)
月美は天井のシャンデリアを見上げ、物憂げに目を閉じた。
二人揃って配役を辞退し、当日は客席に座って、脇役を頑張る予定の綺麗子の勇姿をのんびり見守りたいものである。
もちろん、選ばれたことは光栄なことなので、ほとんどの先輩たちが出演を引き受けていったから、会議は案外スムーズに進んでいった。
「それから次は、月美さんと百合さんだけど」
敢えて月美と百合を最後に回していたアテナ会長は、いよいよ本題ね、と言った顔で上品に咳払いをした。
「・・・正直に言うわ。あなたたちが出演してくれると、私も嬉しいの。あなたたちは理想的な三日月女学園生徒、いやそれ以上に素晴らしいポテンシャルを持っていると感じているわ」
当初アテナ会長は、百合に出演依頼する事に反対だったが、二人のドレス姿を偶然目にしてしまい、少々気が変わったわけである。
「この学園は真、善、美を追求して発展してきた、伝統ある文化圏よ。あなたたちのような特別な存在にスポットライトを浴びせないでいては、先人たちに申し訳が立たないわ」
周りの生徒たちも目をキラキラさせながら頷いている。一緒にステージに立ちたいのだ。
「念のため訊くけれど、百合さんはやっぱり、出演したくないわよね」
「え! は、はい。そうですね・・・」
あまり頭が回っていない百合は反射的にそう答えた。
「そうよね。いいのよ。あなたの気持ちを私たちは尊重するわ。あなたが客席に来てくれるだけで、文化祭は盛り上がるもの」
アテナにとってここまでは想定内というわけである。
「それで、月美さんだけど」
「わ、私ですの・・・?」
「そうよ。世論に鑑みれば、月美さんか百合さんのどちらかが出演してくれないと、きっと不満の声が上がってしまうわ」
アテナ会長の言う通りかも知れない。
(二人揃って辞退するのが難しいなら、私が百合さんの代わりに出るしかないみたいですわねぇ・・・)
月美は元々目立ちたがりなので、舞台に立つことへの抵抗はない。むしろわくわくしているくらいである。
「そういうことでしたら、私でよければ、務めさせて頂きますわ」
それを聞いたアテナは安堵の笑みを浮かべた。
「ありがとう。本当に良かったわ。百合さんのボディーガードは私と翼が交代でやっていくから大丈夫よ」
「ありがとうございますわ。練習中と本番中、両方お願いします」
「もちろんよ」
本来であれば、これで全て解決であった。
学園の名誉と伝統がそこそこ高いレベルで守られ、大勢の生徒たちの期待にも概ね応え、モテモテ百合ちゃんの安全も先輩たちによって守られるのだから、きっと素晴らしい文化祭になるだろう。
しかし、この講堂でたった一人、今の流れに焦りを感じている少女がいた。
「それじゃあ、細かい配役の話に移るけれど」
遠い街に旅立ってしまう愛しい人を呼び止めるような、とってもアツくて恥ずかしい緊張感に心を震わせながら、少女は右手を上げた。
「ちょ、ちょっと待って頂けますか!」
講堂に響いたのは、百合の声である。
目を丸くした生徒たちの視線が自分に集まり、沈黙の中でさらに増したように感じられる心音に手を焼きながら、百合は言った。
「や、やっぱり私、出たいんですけど・・・」
「え? 出たい?」
アテナ会長を始め、誰もその言葉の意味をすぐには理解できなかった。
「気分でも悪いの? 窓開けましょうか? 雨降ってるけれど」
「あ・・・いえ、外に出たいということではなくってですね・・・」
百合は照れ隠しに苦笑いをし、少々申し訳なさそうに続けた。
「劇に・・・出演したいんですけどぉ・・・」
白樺の葉を打つ静かな雨音の中で、皆しばらくの間、マネキンのように固まった。
「ええええ!?」
「ゆ、百合さんが!?」
「自ら出演を!?」
「立候補ぉお!?」
一同騒然であり、思わず腰を上げたメンバーもいたため、テーブルの上のティースプーンがカシャンカシャンと音を立てた。
百合の隣の席の月美も当然驚いたわけである。月美は耳打ちするように小声で百合に助言した。
「ゆ、百合さん、無理して皆さんの期待に応える必要ないんですのよ。私が出演して何とかしますから」
「う、うん。そうなんだけど・・・」
耳に感じる月美のささやきに百合は赤面してしまい、少し体を斜めにして月美から遠ざかった。なんだかこの二人、いつもと立場が逆転している。
「えーと・・・」
百合は自分の気持ちをどこまで発言していいか整理してから、口を開くことにした。
「た、例えばですけど、その・・・劇の練習って大変なんですか?」
アテナはまだ驚いた表情のまま百合の質問に答えた。
「もちろん、そうね。役にもよるけれど、放課後の時間はほぼ毎日練習に来てもらうことになるメンバーもいるわ」
「やっぱり、そうですよね」
百合は考えた。
さっきまでの流れで出演が決まった月美は、きっとそれなりに重要な役にキャスティングされるに違いないのだ。既に出演が決まっておりこの会議にすら来ていないローザ会長は主役級の女海賊をやるらしいが、それに次ぐポジションを任される可能性がある。月美ちゃんの器なら間違いないと百合は思った。
しかしそうなれば、百合はこれから先、放課後を一人で過ごすことになってしまうのだ。
演劇部員ではあるが舞台の裏方に徹するらしい桃香ちゃんなら、百合と一緒に過ごしてくれるだろう。アテナ会長や翼先輩も交代でボディーガードをしてくれるらしい。しかし百合は、そんな生活を想像するだけで胸がきゅうっと締め付けられる思いだったのである。
(月美ちゃんと一緒にいたい・・・!)
百合が手を上げた理由は、このようなシンプルな願いによるものだった。
「私、出演したいですっ!」
「素晴らしいわ百合さん。よく勇気を出してくれたわね」
「い、いえ・・・」
「リストを見てちょうだい。希望する役柄はある?」
アテナ会長は、出来る限り台詞が少なく、出番も一瞬で終わるが、そこそこ華があるような役を百合のために探し始めた。
しかしここで百合は、さらに意外な希望を述べちゃうわけである。
「できればその・・・毎日練習する必要があるような役がいいんですけど」
「え?」
「えええ!?」
それを聞いた生徒たちは再び盛り上がり、テーブルのティースプーンもまたカシャンカシャンと揺れた。百合はなんだか恥ずかしくなってしまった。
「つ、月美ちゃんはどんな感じの役になります!? それと同じレベルの役でお願いします!」
「そうなると・・・やっぱりかなり重要な役になるけれど」
「私も同じ感じでお願いします!」
「なるほど、一緒なら練習を頑張れるというわけね」
「は、はい!」
物分かりがいい先輩である。
「そうなると・・・」
アテナ会長はリストの一番上の役に目をやった。
百合はめでたく、主役の人魚役に抜擢されたのだった。
折り畳み傘を一本持っているだけだった月美と百合は、帰りは自動運転の機馬車に乗って寮へ向かうことにした。
8人乗りの大型機馬車だったが、乗客は月美たちだけである。
「・・・百合さん、どうして立候補なんかしましたの?」
モテすぎる百合の身の安全がとにかく心配な月美は、当然の疑問を百合に投げかけた。
百合は赤く染まった頬を見られないように遠い水平線に目をやりながら、小さな声で答えることにした。
「思い出・・・作りたかったんだもん」
「え?」
「月美ちゃんと・・・」
それを聴いた月美は一気にほっぺが熱くなってしまい、慌てて窓の外の銀杏並木に目を向けた。
二人は同じように顔を赤くしながら、両サイドの窓にぴったりくっつき、謎の距離感を保ったまま、甘い沈黙のひと時を過ごしたのである。
両想いであることに全く気付いていないポンコツ美少女二人を乗せて、馬車は虹の下をくぐり、坂を駆け上がっていったのだ。