2、ルームメイト
「もしかしてあなた、百合ちゃん?」
「ひゃっ!」
百合は思わずカバンを落としてしまった。
背後から突然やって来て、耳元で囁かれたら、誰だってビックリしてしまう。
「そ、そうですけど・・・どなたですか?」
「やっぱりぃ♪ 遠くから見ただけです~ぐ分かったわぁ♪ 写真で見るより100倍カワイイわねぇ♪」
百合の後ろにいたのは、マロン色の長い髪をふんわりカールさせた、明らかに外国出身の顔立ちのお姉様だった。
百合は先輩たちの指示に従ってクルーズ船を降りたあと、再び月美と合流したくて、港近くの桜並木の陰に隠れ、こっそり彼女を探していたのだ。
入学式の会場へ向かう生徒たちや、その案内の先輩たちがたくさん往来している場所だったので、誰かに声を掛けられてしまうかなと、百合も覚悟はしていたのだが、これはまた妙なお姉様に見つかってしまったものである。
「私は三年生のローザ。百合ちゃんみたいなカワイ~イ女の子の味方よ♪」
「ハ、ハイ・・・」
たぶん、危ないお姉さんである。
「実はね百合ちゃん、入学式の前に、あなたと話し合わなきゃいけないことがあるのよ」
「・・・え、話し合い、ですか?」
「そうよ。ついてきてちょうだい♪」
そう言ってローザは白い制服のスカートをひらりと翻して、さっさと歩き出してしまった。なんだか急すぎて状況が飲み込めない百合は、助けを求めるように、月美を探して再びゲートのほうを振り向いた。
「あら? もしかして、誰かと待ち合わせでもしてたのかしらぁ?」
「い、いえ、そういうわけではないんですけど・・・」
「じゃあ行きましょう♪ ほらほら♪」
結局百合はローザに背中を押され、桜の花びらが眩しく舞い降る並木道を歩き始めたのだった。それにしてもこのローザ様、日本語ペラペラである。
「よ、よし! 全部忘れましょう・・・!」
その頃、まだクルーズ船から出て来ていないのろまな月美は、船の廊下の突き当りにある丸い鏡の前で独り言をしゃべっていた。月美は先ほどの百合との出会いを全て忘れる作戦に打って出たのだ。
(この私が誰かにドキドキして、まともにお喋りも出来ないなんて、そんな事ありえませんわ・・・! 何かの間違いです!)
月美は無駄にプライドが高い。
「さっきの記憶・・・全部消えなさい・・・・全部消えなさーい」
月美は目を閉じてぶつぶつと念じ始めた。
「居眠りしてたらいつの間にか島に到着してたデース・・・!」
月美が自己暗示に夢中になっている時、同じ廊下を走っている金髪の一年生がいた。この学園は外国人が多いが、皆日本語を喋れるので感心である。
(あ、誰かいるデース! まだ人がいて良かったデース!)
金髪の少女は、背中を向けて立っている月美に声を掛けようと廊下の突き当りへ走った。
「ハーイ! 一緒に船降りるデース!」
「皆消えなさーい・・・消えなさーい・・・消えなさーい」
鏡の前でとんでもない事を念じている人に出会ってしまった。少女は慌てて急ブレーキを掛けた。
(に、日本のオトメ、恐ろしいデース・・・!)
彼女はそーっと月美の後ろを通り抜けて乗降口へ逃げたのだった。
「この部屋よ。入って」
ローザが百合を案内してくれたのは、入学式の会場となる大きな劇場の、エントランス内にある、豪華な応接間だった。
絨毯には可憐な薔薇の刺繍が一面に施されており、スリッパで歩くと全く音がしないふわふわ空間だった。上辺が半円状にカーブしたお洒落なガラス窓からは、桜並木のピンク色と、芝生の明るいグリーン、そして空と海の爽やかなブルーが見えた。まるでステンドグラスみたいに鮮やかな光景である。
「いい景色よね♪ 上り坂はちょっと面倒だったけど」
キョロキョロしている百合のために、ローザは椅子を一脚引いて「どうぞ♪」と言い、席を用意してくれた。なんだか高級レストランに来たみたいである。
「入学式まで時間があまりないから、単刀直入に言うわ」
ローザはテーブルを挟んで百合の真向かいの席に腰かけ、カバンから書類を取り出すと、神妙な顔で語り出した。
「百合ちゃんって・・・」
「は、はい」
「付き合ってる人はいるのかしら♪」
ああ、帰りたいと百合は思った。
「・・・いませんけど」
「冗談よ冗談♪ 本題はこっち♪」
ローザは百合に、女の子の顔写真が付いた三枚の用紙を差し出した。
「あなたのルームメイトの候補よ」
「え?」
「ルームメイト。わかる? あなたと同じ部屋で寝起きする、学園生活のパートナーよ」
この学園は全寮制であり、夏休みなどの長期休暇以外は基本的に寮で暮らすことになる。島には大小様々な寮があるが、その各部屋は二人以上で利用するのが決まりになっているので、当然、百合にもルームメイトがいるわけである。
「その三人の中から一人、あなたが選んでいいわ♪」
「ど、どうしてですか?」
「だってぇ、あなたは特別だもの♪」
ルームメイトは普通、受験の際に学力テストと一緒に行われた、科学的根拠のある心理テストへの回答を基に、思考が近くて喧嘩などが少なそうな、相性のいいペアをコンピューターが導き出し、スムーズに決定していくのだが、百合の場合は少し状況が異なった。百合があまりに美しく、モテすぎるため、相性のいいパートナーを見つける作業が困難を極め、コンピューターがぶっ壊れて火を噴いてしまったのである。
「あなたと同室になったら、普通の生徒は必ずあなたに恋をしてしまうわ。そうなると、あなたは迷惑するでしょう?」
「い、いえそんな・・・迷惑だなんて・・・」
「でも、あなたは女同士の恋とは無縁な、普通の友人関係を築きたいと思っている、違う?」
その辺は心理テストでバレているらしい。
確かに百合は、自分が美しすぎるせいで、目が合った人が卒倒して救急車が来たり、ラブラブだったカップルが目の前で分かれたりする悲しい場面をたくさん見てきた女なので、平穏な暮らしを心から求めている。モテすぎる現象は百合の勘違いなどではなく、事実として彼女の人生に暗い陰を落としているのだ。
「実は、その通りなんです・・・」
「でしょう? だから、あなたに恋をしない可能性がある生徒を三人、選んできたわ。プロフィールをよく読んで、あなたが決めていいわよ」
「うぅ・・・」
「恋をしないという保証ができないから、自分で責任持って決めてほしいのよ。これは私たちからのお願いなの」
そんな重要な決断を急に求められても困ってしまう。
とにかく百合は書類に目を通してみることにした。
三人の生徒は、幼い感じの子と、クールな感じの子、そして活発そうな金髪の子だった。
「ちなみに私だったらねぇ、その金髪の子、キャロリンちゃんを選ぶわねぇ♪ とっても無垢で可愛いの♪ 恋愛感情そのものに疎いタイプだから、上手くいけば、仲良し姉妹のような関係になれるかも知れないわよ♪ 長所は明るく無邪気なところで、短所は・・・思い込みが激しくて騙されやすいところかしら♪」
ローザが色々説明してくれているが、百合の頭にその内容はほとんど入ってこなかった。百合は少し、違うことを考えていたのである。
「あ、あの・・・」
「ん? なぁに?」
百合はなぜかその時、とてもドキドキした。
「つ・・・月美さんっていう方、いらっしゃいませんか?」
声に出してしまってから、百合は妙に頬が熱くなった。
窓の外では桜の花びらが、音も無く陽だまりにきらきらと降りしきっている。
「えーと、月美ちゃん・・・月美ちゃん・・・あぁ、黒宮月美ちゃんのことね!? 長い黒髪の、前髪パッツンの♪」
「そ、その人です!」
「知り合いなの?」
百合は一瞬返答に迷ったが、すぐに「はいっ」と答えた。
「ん~、残念だけど、あなたと月美ちゃんは学区が違うのよ」
「学区・・・?」
「そうよ。私や百合ちゃんの学区はこの丘の向こう側なの。でも、月美ちゃんはこの辺りの学区。彼女のルームメイトはもう別に決まっているはずだわ。ちなみに、私たちの学区は『ストラーシャ学区』って言うんだけど、とっても綺麗で広~いビーチがあるから、夏は楽しいわよぉ♪」
そういえば、入学案内に学区についての説明があったことを百合は思い出した。
学区は三つあり、ストラーシャ学区に決まっている生徒は白を基調にした私服で初日は登校してくるよう指示があったのだ。月美は黒いドレスを着ていたので、確かに違う学区である。
「そう・・・なんですか・・・」
「残念だけど、諦めてね♪」
月美と一緒にはなれないという事実だけは、百合にも理解できた。しかし手元にある三人の資料は、まるで徹夜明けに苦手な科目の教科書を開いた時のように、全然頭に入って来ず、浮かんでくるのは月美のクールな横顔だった。
(私と月美さんは・・・お友達にはなれないのかな・・・)
今後もし道ですれ違っても、ちょっと頭を下げる程度か、下手をすれば、こっちに気付いてくれないかもしれない。そう思うと百合は切ないような、悲しいような、もやもやした気持ちになってきた。
そんな百合の様子を、ローザはボールペンをくるくる回しながら見つめていた。
「どうしても月美ちゃんがいいのぉ?」
「え?」
百合が何を考えているか、ローザはお見通しなのだ。
「月美ちゃんは確かに、とても理性的な人物みたいだったわ。あなたに恋をせず、いいお友達になってくれるかも知れない。でも、モテすぎるあなたのルームメイトになると、それなり迷惑が掛かっちゃうと思うけど、それを決める覚悟が、百合ちゃんにあるかしらぁ?」
ローザは妖艶な笑みを浮かべて問いかけた。
たしかに、百合の近くにいる人間は嫉妬の対象にされるし、ボディーガードのような仕事にも追われるので、自分の高校生活を純粋に楽しむことは不可能となる。百合のルームメイトには、恋愛感情の有無だけでなく、親切さも問われるのだ。
(月美さんも・・・やっぱり迷惑するかな・・・)
百合は先ほどのクルーズ客船での出会いの場面を思い出しながら、自分に問いかけた。
百合の脳裏には、ピヨピヨ鳴いて百合や月美に懐く青い小鳥の姿が浮かんできた。なぜかちょっぴり濡れていた小鳥の頭を撫でた時の優しい感触が、まだ指先に残っている。
(あっ・・・)
ここで百合はある事に気付いてしまった。
(あの小鳥が被って遊んでた紙コップ・・・)
一連のささやかな出来事が、月美の真心を浮き彫りにしたような気がしたのだ。
「ロ、ローザ様!」
「あら、どうしたの? 可愛い声出して」
「月美さんは・・・月美さんはきっと、とても優しい人です!」
ローザは少し目を丸くしていたが、やがていつものニヤけ顔に戻った。
「分かったわ。それが百合ちゃんの答えね」
ローザは白いスカートを整えながら席を立った。
「ここで少し待ってて。ビドゥの生徒会長と相談してくるわ」
「え、は、はい」
ビドゥという言葉の意味が百合には分からなかったが、とにかく偉い人と相談してきてくれるらしい。
お城の一室のような広い部屋に残された百合は、白いテーブルクロスの模様をぼんやり見つめながら、たった今自分が動かしてしまった運命のレールの重みを感じていた。こんなことをして良かったのかという自責に似た感覚と、また月美さんに会えるかもしれないという期待が、空と海の青が混ざり合う水平線のように重なって、百合の心を波立たせた。
さてその頃、何も知らないポンコツお嬢様は、港の荷物預かりセンターにいた。
月美は、百合との出会いを忘れることなど到底できず、諦めて船から降りてきたのだ。
「黒宮月美です。入学式の前に、私のキャリーケースを一旦返して欲しいんですの」
まず彼女は、数日前に家から学園に送っておいた、着替えなどが入った荷物を受け取ることにした。普通は入学式の後に取りに来るものなのだが、月美はどうしても今手に入れたいものがあったのだ。そう、コンタクトレンズである。
「はい、こちらですね!」
「ありがとうございますわ」
ちなみに荷物預かりセンターは、横浜の赤レンガ倉庫に似た美しい外見をしており、カフェテラスなどもついているから、島の玄関に相応しいお洒落スポットとして人気である。
「洗面所、この辺りにございませんか?」
「あちらの観葉植物がある角を左に曲がってください」
「ありがとうございますわ」
ほとんど顔は見えないが、荷物センターの優しい先輩が教えてくれた。月美はキャリーケースをゴロゴロと引いてコンタクトレンズを着けに行った。もうぼやけた視界とはおさらばだ。
「緊張したらお手洗いに行きたくなったデース・・・」
金髪の少女が、荷物預かりセンターの近くを通りかかっていた。先ほど月美に怯えていた外国人の女の子である。
「あの、スミマセーン。お手洗いはあるデスかぁ?」
「あちらの観葉植物がある角を左に曲がってください」
「ありがとうございマース!」
もうすぐ入学式なので、ついでに髪や服も整えておこうと少女は思った。やっぱり乙女は鏡が大好きなのである。
「日本のハイテクお手洗いはここデース?」
少女は高級そうな大理石の通路をドキドキしながら進み、洗面所を覗き見た。するとそこに、鏡の前で笑みを浮かべる魔女みたいな少女がいるではないか。
「見える・・・見えますわ!!! ふふふふふ」
(さ、さっきの人デース! 鏡で霊界と交信してマース!)
見つかったら命を狙われると思った金髪の少女は、急いで荷物預かりセンターを脱出したのだった。
百合がいる応接間の静けさは、突如破られる。
「ほら、こちらが百合ちゃんよ♪ 可愛いでしょう?」
扉が開くと同時に、ローザの明るい声が飛び込んで来たので、百合は思わず立ち上がってしまった。どうやらローザは誰かを連れて来たらしい。
「やめなさいローザ。百合さん、驚いているわ」
ローザと一緒に姿を現したのは、黒い制服を着た、これまた外国人のお姉様だった。やはり日本語がとてもお上手である。
「こんにちは、百合さん。私はビドゥ学区の生徒会長のアテナよ」
「こ、こんにちは!」
まるで月美さんみたいに落ち着いた物腰の女性だなと百合は思った。髪は秋晴れの風にそよぐ麦畑のような美しいブロンドで、海外映画のヒロインみたいな、大人っぽくて美しいお姉様だった。
「百合ちゃん聞いてぇ♪ アテナ様ったらね、百合ちゃんのビドゥ学区編入を快く承諾してくれたわよぉ♪」
「えっ?」
言葉の意味を理解するのに時間が掛かったが、どうやら百合は、月美と一緒の部屋になれるらしい。編入という言葉に少し重みを感じてしまうが、百合の心は弾んだ。
「百合さん、気を付けたほうがいいわよ。ローザはあなたに、条件を科すつもりらしいから」
椅子に腰かけながら、アテナが冷静に助言してくれた。
「んもぅ♪ そんな大げさなことじゃないわ♪」
ローザは百合の正面に再び座ると、にこにこ笑いながら言った。
「でもね百合ちゃん。あなたは私たちストラーシャ学区の大切な人材なの。簡単に手放すわけにはいかないわ♪」
「は、はい・・・」
なんだか百合は悪い魔女としゃべっている気分になってきた。
「約束は二つよ。百合ちゃんのビドゥ編入は12月までが期限。そして期限がきたら、ストラーシャに戻ってきて、私たちストラーシャ生徒会のメンバーになりなさい」
実はこのローザ、ただの女好きの危ない先輩ではなく、ストラーシャ学区の生徒会長なのである。ローザは生徒会メンバーの選考が行われる年末に、百合を自分の生徒会に招き入れようとしているのだ。
「百合ちゃんみたいな美しい子が生徒会に入れば、ストラーシャの力はより強固なものになるわ♪ それに、1月からは私と同じ生徒会寮で暮らせるしね♪ あぁ、楽しみだわぁ、百合ちゃんとの共同生活♪」
つまり、百合は月美と一緒にビドゥ学区で生活できるようになるのだが、今年いっぱいでそれは終わってしまい、年が明けてからはストラーシャ学区に戻ることになるらしいのだ。しかもその後はこのちょっと危険そうなローザ様と同じ生徒会の寮で生活しなければならない。
「さぁ、百合ちゃん、どうするのかしらぁ? お姉さんとお約束、できるぅ?」
「うぅ・・・」
逆に月美をストラーシャに編入させるという手もあるが、本人を無視して勝手にそんなこと出来ないのだから、百合に与えられた選択肢は、ローザの条件を飲むか、飲まないかだけだ。
(たった9か月間のルームメイトになるけど・・・このまま月美さんと疎遠になっちゃうのは、すごく・・・すごく寂しい!)
百合は手をぎゅっと握りしめた。
「わ、わかりました。お願いします!」
悪魔との契約である。
「それじゃあ決まりね♪ もの分かりが良くて助かるわぁ♪」
そう言うとローザはさっさと立ち上がり、アテナに何枚か書類を差し出した。
「というわけだから、あとはよろしくね。三人部屋とか上手く作って調整してちょうだい」
「・・・まあいいわ。少しの間でも、百合さんを預かれて光栄ですもの」
「早くしないと入学式始まっちゃうわよぉ♪」
「分かっているわ」
ローザは出口に向かっていった。
「それじゃあまたね♪ 百合ちゃん。時々ストラーシャにも遊びに来てね♪」
「は、はい。ありがとうございました・・・!」
そしてローザは百合に投げキスをし、部屋を出ていったが、またすぐに顔を覗かせ、「アテナ、週末の合同会議だけど、私欠席するわ。その日は風邪を引く予定があるの♪」と言い残して風のように去っていった。やっぱり少しクレイジーなお姉様だったようだ。
「はぁ・・・本当に困った人だわ」
アテナと二人きりになった百合は、なぜかちょっと安心してしまった。
「ごめんなさいね、本当はもっとゆっくり考えてもらいたい事だったけど、すぐに入学式が始まってしまうから」
「いえ、こちらこそ、わがままを言ってしまって申し訳ありません・・・」
「いいのよ。あなたの悩み、私も少しだけなら分かるから」
アテナ様もきっとモテモテなんだろうなと百合は思った。
「ルームメイトは、入学式の席順でもう発表になるのよ」
「え! そうなんですか!」
「そうよ。だから急がないと」
アテナが席を立つと、ふんわりと桜のような芳香が百合の鼻をくすぐった。きっと彼女の長い髪の香りである。
「百合さんはもうしばらく自由にしていていいわよ。開場時間になったら、他の生徒と同じようにエントランスへ行って、係の子から渡された座席ナンバーを探して座ってね」
「わ、わかりました」
「ビドゥの黒い制服もすぐに手配しておくわ」
学区によって制服の色も異なるのである。
「百合さん、私はローザと違って、心からあなたを応援しているわ。学園生活、楽しみましょうね」
あぁ、なんて良い人だろうと百合は思った。
「ありがとうございます!」
アテナは上品に小さく微笑んで静かに部屋を出ていった。
さて、コンタクトレンズを着けて無敵になった月美は、桜並木の坂を上り、もう入学式の会場のエントランスまで来ていた。
(な、なんて壮麗ですの・・・!)
まだ会場そのものの扉は開いていないが、建物の中に入っただけで、その美しさに月美は目がくらくらした。赤と金色で統一されたバロック様式の豪華な装飾の数々が、T字に分かれる大階段や高い天井を覆い尽くしており、視力がアップした月美の目にはもう、19世紀のパリのオペラ座にしか見えなかった。
見渡してみると、会場に入るための生徒たちの長い列が既に出来始めていたが、月美はまだそこに並ぶ気になれなかった。
(もっとこう、お嬢様パワーが必要ですわ・・・!)
お嬢様パワーなどという未知のワードが出てきたが、あまり気にしてはいけない。とにかく月美は、百合を忘れられない現状や、学園のあまりの美しさに少々気後れをしているから、もっと胸を張って、いつも通りの堂々とした態度を取り戻したいと感じたのである。今でも充分お嬢様なのだが、月美はもっともっとクールになれる。
(よし、一度誰もいないところに行きましょう)
月美はエントランスにある大階段を上がり、踊り場で左右に分かれたところをさらに左へ上っていき、人気のない通路を見つけた。ここなら精神を集中できる。
元々月美はお嬢様的ポテンシャルには優れた女であるから、入学式前にその力を増幅させることなど朝飯前である。
「自信、出て来なさい・・・! 勇気、出て来なさーい・・・!」
月美は壁に向かってそう呟きながら、太陽を浴びる時のように、やや上を向きながら両腕を広げた。ラジオ体操などでも見かけるこのポーズは、緊張して硬くなった全身をリフレッシュさせる効果があるのだ。
「とっても綺麗な建物デース! ちょっと探検しマース!」
エントランスにやってきた例の金髪の少女は、並んで立っていることが我慢できなくて、周囲の探検を始めた。階段の裏や柱の一本一本に至るまで、金ピカの女海賊や人魚の姿が彫られているのが楽しくて、少女は目を輝かせながら歩き回った。
「こっちには何があるデース!?」
階段を上った少女は、通路を覗き見てみた。
そこには、壁に向かって腕を広げ、謎の儀式をしている黒いドレスの少女がいた。
「出て来なさーい・・・出て来なさーい・・・!」
(あ、あ、悪魔を呼んでいマーース!!!)
金髪の少女は「オーマイガー!」と叫びながら階段を駆け下り、会場入り口に並ぶ列の最後尾にスッとくっついて身を隠した。
(あの魔女っ子は要注意デース・・・!)
金髪の少女は完全に月美のことを誤解してしまったようだ。
エントランスのすぐ脇の応接間にいた百合は、「オーマイガー!」という謎の悲鳴が気になって扉からこっそり顔を出した。
(もうすぐ開場の時間だよね・・・)
この短時間でルームメイトの調整が出来たのかどうか、百合は少し不安である。
(でも、そろそろ行かなきゃ・・・!)
百合はエントランスに出て、列に並ぶことにした。百合が歩くだけで周りがざわつき、顔を真っ赤にしてふらつく生徒がいるが、これはいつもの事なので百合は慣れっこである。しかし、列に並んだ時にすぐ前に立っていた金髪の少女が震えていたのは、自分の美しさが原因ではない気がした。真相は不明である。
『まもなく入学式場を開場いたします。受付係に氏名を伝えて座席番号を受け取り、入場して下さい』
百合の胸は高鳴った。まもなく百合は、ルームメイトとして月美に再会することになるのだ。
(月美さんは・・・ルームメイトが私だって事、まだ知らないんだよね・・・)
彼女がどんな反応をするのか、百合はとにかくそれが気掛かりがった。
ルームメイトを急遽調整して貰った事などすぐバレるだろうから、そのうち自分から言うつもりであるが、いくらなんでも馴れ馴れしすぎたのではないかと、百合は不安になってきたのだ。ちょっと船上で会話しただけで、もうお友達気取りをしているようでは、クールな月美に嫌われるかも知れない。
(大丈夫かな・・・)
そう思っているうちに列はどんどん進み、とうとう百合は座席番号を貰ってしまった。金縁に黒色のしっかりしたカードで、裏には『Vidu』と記されていた。
(ビドゥ学区だ・・・ちゃんと編入させてくれたんだ)
もう後戻りはできないのだ。百合はもう、月美を信じるしかない。
(月美さんはきっと・・・私のお友達になってくれる。イヤな顔せずに、素敵なルームメイトになってくれる・・・! たぶん・・・)
期待と不安を握りしめて、百合は式場に入った。
「よし・・・いい感じですわ!」
変人の月美ちゃんは、ようやく体操を終えたようだ。さっさと入場しないと式に遅刻してしまうというのに、この余裕の表情は、さすがお嬢様である。
(・・・百合さんの事は忘れられませんけど、それはまた今度解決するとして、今はとにかく、格好良く高校生活デビューする事が肝要ですわ)
月美はお姫様のようなゆったりした歩みで階段を下りた。受付の先輩は、「あ、まだ一年生の子いたんだ」みたいな顔で慌てて名簿を開いた。
「黒宮月美ですわ」
「はい。えーと、黒宮月美さんは、こちらですね」
月美も黒いカードを受け取った。
「ありがとうございますわ」
「隣の座席に着く生徒同士が、寮では同室になります」
「え! ・・・わ、わかりましたわ」
こんな形で発表になるとは思っていなかった月美は、気合を入れ直した。百合との出会いでは失敗してしまったが、今から会うルームメイト相手には、しっかりとクールに接しなければならない。これはお嬢様のプライドを賭けた戦いだ。
いよいよ月美が足を踏み入れた入学式の会場は、まさにパリの歌劇場そのものであった。
ステージは、折り重なるフラメンコスカートのような深紅の垂れ幕によって隠されており、座席やカーペットも薔薇のように真っ赤で、あとは全てゴールドの意匠が施された夢のような世界だった。フランスのパレ・ガルニエというオペラ劇場を丸パクリしたような素敵な会場である。
「わぁ、凄~い!」
などといった声がたくさん上がっている中で、月美はあくまでも平静な顔をして自分の席を探した。お嬢様はこういう時に、はしゃいではならないのだ。
月美の席はステージに向かって左側の、なんと4階席だったため、縦長の巻貝のような螺旋階段を上る必要があった。なので、席に辿り着くまで妙に考え事をする時間があった。
(百合さんにも・・・ルームメイトがいるんですわよね・・・)
月美の考え事はいつも、百合に関する事ばかりだ。
(私の知らない、百合さんのルームメイト・・・)
赤いカーペットの階段を上がりながら、月美の足取りはだんだん重くなってきた。
(私が知らないところで、百合さんはその人と一緒に笑ったり、勉強をしたり、遊んだり、買い物したりするんですのね・・・)
三階席まで来て歩みが止まった月美は、金の手すりにそっと手をついて、この広い会場を見渡してみたが、群衆に紛れて、あの美しい百合の姿を見つけることさえ出来なかった。奇しくも今の月美のポーズは、クルーズ船の甲板の上で百合の隣りに立った時と同じものである。しかし今はもう、月美の隣りに百合はいない。月美はなんだかとても寂しくなった。いつの間にかいなくなってしまったあの青い小鳥さえ、今となっては恋しい。
(百合さんに会いたい・・・百合さんにもう一度会いたいですわ・・・)
どんなに強気で硬派なフリをしても、初恋の魔力には敵わないのである。百合の優しい笑顔を思い出した月美は、切なくって、寂しくって、目頭がじわっと熱くなってしまった。
(どうして私はいつも強がってしまいますの・・・。あの時、もっと百合さんに親しく笑顔で接して、お友達になっておけば、また一緒におしゃべりくらいは出来たかも知れませんのに・・・。もう知り合いどころか、赤の他人になってしまいましたわ・・・)
月美はレースの付いたハンカチで目を押さえて涙を隠しながら、トボトボと4階席へ向かった。月美は久しぶりに、本当に久しぶりに泣いてしまったのである。
ふと、4階席の一番隅っこにポツンと残った空席が月美の目についた。
ほとんどの座席が埋まっているタイミングだったから、そこが自分の席である事は月美にもすぐに分かった。泣いている場合ではない。入学式は間もなく始まるのだから、早くクールなお嬢様の顔に戻らなくてはいけない。
「ん・・・」
月美の足が止まった。
空席の隣りに、少し俯いたポニーテールの少女のシルエットが見えたのだ。
二人ずつで小さな仕切りが立てられているため、月美のルームメイトが、あのシルエットの少女であることは間違いない。月美は少女の姿から目を離せなくなったまま、ほとんど無意識に、一歩一歩座席に近づいた。やがて、美しいポニーテールに隠れていた遠慮がちな横顔が見えてきた。その少女は紛れもなく、百合だったのだ。
「え・・・」
頭の中が真っ白になり、感情が追いつかない月美は、とりあえず空席の後ろに書いてある番号を確認した。やっぱりここが月美の席である。月美はゆっくりと前へ出た。すると、百合がパッと顔を上げたのである。
「あっ、月美さん・・・!」
白いワンピースの百合が、ふわりと立ち上がった。
月美はひっくり返りそうになるほど驚いた。
「ど、ど、どうして百合さんが・・・!?」
その瞬間である。月美の目から、堰を切ったように涙が溢れてきた。
「うぅ・・・!」
月美は大慌てで百合に背中を向け、ハンカチで顔を覆った。我慢など出来るはずがなかった。もう会えないと思っていた百合が目の前におり、自分だけを見つめてくれて、また名前を呼んでくれて、しかもルームメイトだったなんて、信じられなかった。
「くぅ・・・くぅーん・・・」
月美は泣き声を抑えようとして変な声を出してしまった。
「ど、どうしたの月美さん?」
嫌がられるとか、気味悪がられるとか、そういう反応くらいは百合も覚悟していたが、なぜ急に月美が後ろ向きになって子犬のまねを始めたのかサッパリ分からず困惑した。
「だ、大丈夫? 月美さん」
「コン・・・」
「コン? ・・・キツネさん?」
「コンタクトが・・・ずれて・・・目が痛いですの」
涙が隠せないと判断したお嬢様の咄嗟の言い訳であるが、コンタクトレンズに運命をいたずらされた月美にとっては洒落た台詞だったかも知れない。
「そうなの? 平気?」
「へ、平気ですわ・・・」
なんだか百合に肩を触られそうな予感がした月美は、自分から椅子に座ることにした。椅子はとってもふわふわで、一日中、心も体も動き回っていた月美には、あまりにも居心地のいい場所だったから、ますます涙が出て来た。ここが月美の席なのだ。
「月美さん、私が・・・その・・・月美さんのルームメイト、みたいです」
「・・・ハイ」
「驚きましたか・・・?」
「うぅ、別に・・・」
月美はすっかり鼻声である。
「すみません・・・私なんかが、ルームメイトで・・・」
「なんで謝りますの・・・」
涙のせいで、会場のライトが夢のようにきらきら輝いた。
「だって・・・迷惑掛けちゃうかも知れませんから・・・」
月美は百合のハートの清らかさに触れ、さらに泣けてきてしまったが、返事だけは頑張ることにした。
「別に・・・迷惑なんてしないですわ・・・」
「え・・・ホント?」
「だって・・・だって、百合さんは・・・私の大事な・・・し、知り合い、ですから」
それを聞いた百合は、嬉しくって嬉しくって、頬をほんのり赤くした。やっぱり、月美さんは硬派なだけでなく、優しい人だった・・・それが分かっただけでもう、百合は幸福だったのである。
「ありがとうございます、月美さん・・・。またお会いできて、私嬉しいです・・・」
また会えて嬉しい、それは私の台詞ですわよと月美は思ったが、そんなことは恥ずかしくて言えなかった。
「月美さん、ホントに大丈夫? 鼻もグスグスいってるけど・・・」
「こ、これは・・・! もともとアレルギー性鼻炎なんです。花粉症も酷いです。あと風邪気味です」
とんでもないコンディションである。
百合の希望によりルームメイトが決まったため、月美が今感じているほど、この席順は運命的な、あるいは奇跡的なものではない。しかし、船上の一連のやり取りから始まった心温まるささやかな経験や、小さな誤解、そして互いを信頼する真心が、このような状況を生み出した事は揺るぎない事実であるから、そういう意味でこれは運命であり、奇跡でもある。
『まもなく、開式いたします。一年生の皆さんは座席にお座り下さい』
放送の後、客席の照明がふわっと落とされ、ステージの真っ赤な幕だけが、薄暗闇の中に鮮やかに浮かび上がった。これだけ暗ければ泣いていることなどバレないので、月美はホッとした。
「月美さん、月美さん」
「ひ!」
百合の楽しげな囁きが、月美の耳をくすぐった。
「今日から、よろしくお願いしますね♪」
顔を真っ赤にし、ハンカチを胸の前でぎゅうっと握りしめた月美は、クールなお嬢様の表情を作ってぷいっとそっぽを向きながらも、ゆっくりコクンと頷いたのである。
「・・・はい。まあ、その・・・別に。・・・こちらこそですわ」
素直なんだか、素直じゃないんだか、よく分からないお嬢様だが、とにかくこれで二人はルームメイトになれたのだ。実にめでたい。
『それではこれより、入学式を開式いたします』
相手を信じる真心と、ちょっぴりの偶然により、二人は無事、運命の糸を手繰り寄せる事が出来たようだ。心優しい二人の少女の青春が、こうして幕を開けたのである。