17、早朝ランニング
あんず色の朝焼けは、まだ山の向こう側で眠っている。
夏とは言え、夜明け前の空気は湧き水のように涼しく、寮の玄関から望める西の海には、まだ銀色の月が泳いでいた。
「よし・・・!」
昇降口で運動靴を履いた体操服姿の少女は、おさげ髪の桃香ちゃんである。
彼女はいつも綺麗子に振り回されている受難系少女であり、特にスポーティーなイメージはないが、今日は朝から運動しにいくつもりらしい。
(合宿までに、体重落とさないと・・・!)
そう、ダイエットである。
桃香はいつも自分の体重を気にしている。
見た目はそれほど太っておらず、誰も桃香ちゃんのことをムチムチおまんじゅう体型だなんて思っていないのだが、小柄な身長の割にちょっと食いしん坊であることは事実であり、近ごろは摂取カロリーと運動量が不均衡になっていると言わざるを得ない。島の食べ物が美味しすぎるのが原因である。
(出発ですっ!)
噴水の前で深呼吸しながら軽く準備体操をした桃香は、夜明け前の空気を割ってレンガの坂道を駆け出した。港付近の馬車道を目指してのランニングである。
もうすぐ演劇部の合宿が行われるのだが、実はそこで水着を着る機会があるのだ。
それは演劇の練習とは一切関係なく、「皆でストラーシャ学区の海に遊びに行く」というアクティビティのせいなのだが、桃香はとにかく自分の体型に自信がない。学園一の美少女と言われている百合や、そのボディーガードである月美お嬢様、そして小学生のように愛嬌満点のくせによく見ると凄く美人な綺麗子に囲まれて生活していたら、そりゃ自信もなくなるわけである。
(腰にくびれ作りたいなぁ・・・)
桃香は必要以上に腰をねじるような動きを加えつつ走り続けた。
「おはようございまーす」
「お、おはようございまぁす・・・!」
この学園は互いに顔を知らなくても道ですれ違う時は挨拶をする習慣があるのだが、いつも綺麗子たちに第一声を任せている桃香は、自分ひとりで行う挨拶にちょっと戸惑ってしまった。桃香は常に何かに怯えてビクビクしている小動物のような自分があまり好きではない。
(くびれを作って、もっと自信を持とう・・・)
桃香はダイエットで全てを解決しようとしている。
星座の輝きと朝の気配が溶けあった瑠璃色の空が、桃香を待っていた。
港近くまでやってきて天を見上げた桃香は、運動による胸のドキドキと共に、不思議な高揚感を覚えたのである。
いつも誰かの後ろに隠れている自分が、今は一人で、自らの意志で海までやってきたのだ。言わば彼女が今見上げているのは旅先の空であり、周りに誰もいないことが、孤独感よりもむしろ充実感を彼女の胸に湧き起こした。朝ランニングは、一人の時間を楽しむ良い機会なのかも知れない。
(よぉーし、もっと走るぞぉ・・・!)
帰りはヘトヘトにバテて歩いて戻ることになるとも知らず、桃香は張り切ったのであった。
せっかくだから海辺の道を走りたいと思った桃香は、港近くのT字路を左折し、南方面へ進むことにした。島の西部にあるビドゥ学区にはあまり砂浜がなく、大きな港やゴツゴツした磯が多いのだが、南のほうへ行けば浜が増えていくのだ。
鹿たちはまだ道端でスヤスヤと眠っているが、ウミネコたちはもう沖へ出てミャーミャーと発声練習をしている。少しずつきらめき出した波間には、海上の風力で発電する風車がいくつか見えた。陸にいる桃香の目には折り紙細工のように小さく見えるあの風車も、近くで見ればかなり大きいらしい。
(ちょっと、休憩しようかな)
海を望める素敵なベンチを見つけた桃香は、一休みすることにした。ベンチに朝露はついていなかったが、食べごろのサラダみたいにひんやりしていた。
「ふぅー」
「あら、もう休憩かしら?」
それはあまりにも突然の出来事だった。
ベンチに腰かけた桃香の耳元に、魔女のような妖艶な吐息が掛かったのだ。
「ひぃい! ど、どちら様ですかぁ!?」
桃香はベンチから転げ落ちた。ただでさえ桃香は小心者なのにビックリさせないで欲しいところである。
「まあ、可愛い♪ あなたは確か、桃園桃香ちゃんね?」
桃香の前に現れたのは、ストラーシャ学区の生徒会長、ローザ・イグレシアスである。
ローザはマロン色のゆるふわカールを海風に揺らしながら、ベンチの背もたれに肘をつき、桃香に妖しげな眼差しを送ってきた。
「は、はい、そうですが、ど、どうしてローザ会長がここに!?」
「朝のお散歩をしてたら、いつの間にかビドゥ学区まで来てたのよ♪」
確かにこの辺りはストラーシャ学区に近いが、ちょっとした丘陵を越えなければ来られない場所なので、いつの間にか辿り着くような所ではない。やはりローザは何を考えているか分からない女である。
「桃香ちゃんは運動かしらぁ?」
「そ、そう、です・・・」
スペイン出身の美女に瞳を覗き込まれ、桃香はちょっぴり足が震えた。
「ねえ、私もついていっていいかしら?」
「ええ!?」
ローザ会長といえば、この学園でもトップクラスの人気を誇るお姉様である。そんな人と自分が一緒にいたら、周りからどんな嫉妬をされるか分からないし、第一緊張してしまってまともに運動が出来ない。
「いやぁ、ええと、あの・・・」
「じゃ、一緒に行きましょう♪」
ローザは制服姿のまま小走りで桃香の前を走り出してしまった。これはもうついていくしかない。
前を走るローザの髪の匂いが、桃香の胸をキュンキュンさせる。
桃香はかなり惚れっぽい性格であり、毎日色んな人にドキドキしているちょっとダメな子だが、根が真面目で内気なため、遠慮がちで無害な生活を送っている。もし桃香が自信満々な性格だったら、ローザのような女に育っていたかも知れないので、対極の存在でありながら近しい感性を持つ不思議な二人であると言える。
走りながら、ローザは桃香に声を掛けてきた。
「桃香ちゃん、絵を描くのは好き?」
「え?」
今のはダジャレではない。
「そ、そうですね、結構好きです。上手くないですけど・・・」
「そう」
何の脈絡もないことを訊いてくる先輩である。
「私ね、結構あなたのこと気に入ってるのよ」
「え・・・」
「お友達にして欲しいわ♪」
ローザはそう言ってくすくす笑った。意外と百合さんみたいな優しい顔もされるんだなと桃香は思った。
ローザは足がすらっと長いので、時々競歩のような歩きに切り替えて桃香にペースを合わせてくれた。こんな緊張するランニングをしていたら、すぐに痩せられそうである。
しかし、桃香のダイエットはまだこんなもので終わらなかった。
「あら?」
しばらくすると、ローザが浜辺に誰かを発見して立ち止まった。かなり息が上がっていた桃香は、足を休めることができてひと安心だった。
「桃香ちゃん、珍しい人がいるわよ」
「え?」
ローザも充分珍しい人なのだが、さらに誰かがいるらしい。桃香は早朝のサファリパークにでも来たような気分で、淡いブルーの薄暗闇に包まれた浜辺に目を凝らした。
すると、小さな白波を背景に、赤い着物の袖がふんわり揺れて見えるではないか。
「あらあら~、浄令院様じゃありませんの♪」
ローザの声に、桃香は大層驚いた。
浄令院様というのは、毒舌で有名なアヤギメ学区の生徒会長である。ローザ会長に続き、アヤギメ学区の会長までもが、なぜ朝からビドゥをうろついているのか。アヤギメ学区と言えば、ビドゥの丁度反対側、島の東部にある学区である。朝の散歩でふらっと来られるようなご近所さんではない。
「なんじゃローザか。朝っぱら縁起の悪い女に会うてしもうたわ」
「今日も素敵な黒髪よ~、浄令院様♪」
「近寄ってくるな、バカがうつる」
浄令院千夜子は、和風な見た目に似合わず理系分野において広い見識を持つ科学者のたまごである。今朝は掃除機のような形をした謎の機械と酸素ボンベみたいなものを積んだ機馬を連れて浜辺を調査していた。
「何をしているのかしら?」
「危険なガスが出ていないか検査をしているのじゃ。島じゅうをじゃ。最近ストラーシャの浜辺でガスを掘り当てたアホがおったろう。あれのせいで、今は昼夜を問わず安全確認が急がれておるのじゃ」
綺麗子が発見したマイナス100万円のガスのことである。
「あら~それは大変ね♪」
「他人事かお前は。ストラーシャで見つかったガスが発端じゃぞ」
千夜子はちょっと眠そうな顔をしているが、いつもこの顔である。重そうな瞼がとてもクールであると各方面で人気の和風お姫様だ。
「んもぅ♪ そんな怖いお顔なさらないで♪」
「生まれつきじゃ」
「ホント、浄令院様ってIQはあるのに愛嬌がないんだから♪」
今のはダジャレかも知れない。
「ええと、浄令院様、お、おはようございますぅ・・・」
恐る恐る挨拶をする桃香に、少し視線を遣った千夜子は、改めてローザは睨んだ。
「なんじゃお前、一年生には手を出すなと言ったろう」
「いやだぁ~、さっき偶然会っただけよ♪ すぐそういう発想する浄令院様のえっち♪」
千夜子はローザを無視して大きな機械を馬の背中に乗せ、道具を片づけ始めた。
「あら、もう終わりにしちゃうの?」
「今朝はここまでじゃ。この後は別の当番が引き継ぐ」
「それなら、一緒に走りません? 桃香ちゃんのダイエットにお付き合いしましょう!」
とんでもない提案に桃香は驚いたが、それよりも、「ダイエット」とは一言も説明していなかったのに見抜かれていたことのほうが驚きだった。
「桃香と言うのか。すまんな、このバカが朝の運動を邪魔して」
「え!? いえいえいえ!!」
桃香は何と答えていいか分からず、首を横に振りまくった。デンデン太鼓のようにおさげ髪が桃香の鼻に当たった。
「あ、ほら、浄令院様が機馬に乗られたわ♪ ついて行きましょう桃香ちゃん♪」
「えぇ、は、はい」
馬でぱかぽこ歩き出した千夜子を追って、二人は再び走り出した。将軍と足軽みたいな感じである。
二度あることは三度ある、という言葉があるが、桃香が早朝ランニングで偶然出会う人物は二人では終わらなかった。
「あら?」
ローザが立ち止まると同時に、機馬に乗っていた千夜子も馬を停めた。
「あらあらあら~♪ 珍しいカップルがいるじゃない?」
ローザが嬉しそうに駆け寄った先にいたのは、黒い機馬に二人乗りしたアテナ会長と翼だった。ここビドゥ学区の会長とそのルームメイトである。
「あらローザ、おはよう」
アテナは翼の背後から人形のような綺麗な顔を出し、美しい金髪を揺らした。
「おはようございますわ~、アテナ様ぁ♪ 今日もラブラブですわね♪」
「な、何言ってるんだローザ。私たちはちょっと、朝の見回りをしていただけだ」
アテナは表情を崩さないが、翼は少し慌てている様子である。翼はボーイッシュでカッコイイお姉さんだが、この中では一番照れ屋で庶民的な人間でもある。
千夜子はアテナたちに頭を下げた。
「おはようございます、アテナ様、翼様。見回りをして正解です。このような有害な女がビドゥの無辜なる一年生を拐かして歩いていましたよ」
千夜子は毒舌であるが、アテナたちには敬意を払っているようだ。
「やあ桃香ちゃん。朝から体操服を着て運動なんて感心だね。私も見習わなくては」
翼は演劇部の部長なのでもちろん桃香を知っている。
「桃香さんが運動するなら私もお付き合いするわ。ずっと機馬に乗りっぱなしで退屈していたところよ」
穏やかにそう言ったアテナは、なんと馬を降りてしまった。
「え、アテナも走るのかい?」
「歩くだけよ」
「そうか、それなら私も付き合おうかな」
アテナの王子様である翼も、機馬から降りた。
「お二人が歩かれるのなら、私だけが馬に乗っているわけにいかない」
律儀な千夜子も必然的にウォーキングを始めることになったわけである。
「じゃあ、皆さんで一緒にお散歩しましょうか♪」
ローザの先導で、5人は海岸沿いをしばらく歩くことになった。三学区は対立関係にあり、合同会議などもまともに行われていない状態なのだが、こういうどうでもいい場面では生徒会長同士仲良しになるようである。
「今日もいいお天気になるわぁ♪」
ローザは桃香の体にわざと自分の胸をふわっと押し当てながらそう言った。空港のお土産売り場のような異国情緒ある香水の匂いが、桃香の全身を包み込む。
(え、えーと・・・)
そして桃香は思ったのだ。
(何で私、このメンバーの中にいるんだろう・・・)
大いなる疑問である。
しかし、それでも桃香は朝の運動を最後までやり遂げた。全身が緊張でガッチガチになり、後半はほとんど記憶を失っていて、気付いたら寮の前の噴水広場で朝日を浴びながら立っていたのである。
「桃香偉いわねぇ! 朝から走って来たんでしょ!」
食堂のいつもの席で、綺麗子が待っていた。
「月美たちは配膳当番だからまだ来てないわよ!」
「う、うん」
「それにしても見直したわ、運動嫌いの桃香が自分から朝ランニングをするなんて」
「うん」
「あれ、桃香、二つもロールパン食べるの?」
「うん」
トレーを持ってテーブルについた桃香はまるで禅僧のように静かなひと呼吸を置き、手を合わせてからゆっくりパンを頬張った。
次の瞬間、桃香は幸せ過ぎて頭がくらくらしたのである。
「ふわぁ~・・・おいひいですぅー・・・!」
甘くて香ばしい黒糖はちみつロールパンの風味が、桃香の口いっぱいに広がり、石像のように凝り固まっていた彼女の緊張を一気にほぐしたのだった。
「な、なんで泣いてんのよ・・・」
「嬉し泣きですぅ・・・!」
桃香は久々に水を貰った砂漠の花みたいな気分になった。
(うぅ・・・ダイエットって大変だなぁ~・・・!)
緊張感によって大量に消費したカロリーを、桃香はしっかり摂取したのだった。