125、ソーラン
白組がちょっぴり優勢なまま、ランチの時間となった。
披露したばかりのソーラン節の余韻に浸って踊り続けている綺麗子の隣で、月美は百合の横顔を見つめていた。
「ソーラン節っていいわよねぇ! 音楽聞こえただけで体が勝手に動いちゃうわ!」
「そ、それは綺麗子さんだけですわよ・・・」
「来年もやりたいわぁ~!」
月美の耳に、綺麗子の言葉はほとんど入ってこない。月美は百合のことで頭がいっぱいだ。
(んー・・・)
とにかく今日は、百合の様子がちょっとおかしいのだ。
敏感な月美は、今朝から妙に大人びた表情を浮かべる百合に、違和感を覚えていたのである。
とても深い哲学に耽っているようにも見えるが、子供らしい笑みを浮かべて目を輝かせる瞬間もあった。突然何かを思い出したように「わ~、そうだったそうだったぁ~・・・」などと小さく呟いたりもするのだ。とても怪しい。
「月美ちゃん! ここにレジャーシート敷こう!」
「あ、は、はい」
月美は、百合がカバンから取り出したシートの端を両手で持ち、百合の「せーのっ」という掛け声に合わせてシートを広げた。百合の手際良い指揮により、シートは銀杏の木の根に被らない最高のポジションに落ち着いた。
(な、なんだかお姉様みたいですわね・・・)
同級生であるはずの百合が、ちょっぴり年上に感じられた瞬間だった。
さて、百合にとってこのランチタイムは、運動会の有り余る熱気から逃れる憩いのひと時であると同時に、正念場でもあった。
本当に舞鶴先生が百合や月美の命を狙っているのなら、今日も彼女は、二人にジュースのようなものを差し入れしてくる可能性があるのだ。愛する月美ちゃんがそれを口にするのを全力で阻止しなければならない。
とりあえず百合は何事もないようにお弁当箱を開け、銀花さんが作ってくれたおにぎりを取り出した。おにぎりを包み込んでいるアルミホイルは、秋の光を乱反射して、真夏の海原みたいに輝いていた。
(三日月女学園で見た海に似てるなぁ・・・)
百合の胸に郷愁が舞い込んだ。
記憶の彼方に広がるその海を、当時の百合は、静かな渚の小波に素足を浸しながら眺めていた。
隣には、高校生の月美ちゃんがいたような、小学生の月美ちゃんがいたような、そんな曖昧な感じの記憶だが、二人の間の愛情だけは鮮明に覚えている。時間と空間を超えて、百合と月美は恋人同士なのだ。
おにぎりの包み紙を見ただけで、百合がここまで思いを巡らせているなんて、周りの少女たちは全く知らないわけである。
「いっただっきま~す!!」
百合たちのレジャーシートの周りに、綺麗子やキャロリンや桃香たちが集まってきた。病弱なルネも、今は車椅子なしで歩けるので、幼いアテナちゃんと一緒にレジャーシートを広げて仲良く腰を下ろしていた。とってもピースフルなお昼時である。
(舞鶴先生は・・・どこだろう・・・)
百合は、白樺の林の向こうの診療所に目をやった。
舞鶴先生は先程まで本部席にいたが、午前の部が終わったタイミングで診療所へ戻っていた。この後彼女がどんな動きをしてくるか、百合は目を離してはいけないのだ。
「百合見て! これ、可愛いでしょ!!」
「え?」
綺麗子はサンドイッチを食べながら、自分の膝の絆創膏を百合に自慢してきた。
綺麗子はソーラン節が始まる直前に、青い小鳥のピヨちゃんを発見し、彼女にアザラシのモノマネを披露していたのだが、はしゃぎすぎて膝を擦りむいてしまったらしいのだ。そして今の綺麗子の膝には、藤の花のような薄紫色の可愛い絆創膏が貼られていた。
「舞鶴先生が貼ってくれたのよ!」
「へ、へ~」
綺麗子は嬉しそうに自分の膝を撫でていた。
このように、舞鶴先生は鹿野里の子供たちからとても信頼されている。大人たちも、里で唯一のお医者様の存在にいつも感謝している。だから、突然に「舞鶴先生が命を狙ってくるかも」と言われても、誰も信じないだろう。
百合は、別の世界の記憶を不完全ながらも取り戻すことができたので、銀花さんがいうSFチックでファンタジーな話を信じることができたのである。
ただし、本当にこの世界の舞鶴先生が悪人かどうか、まだ100%の確証は得ていない。頭では理解できているのだが、善人すぎる百合の感覚が、舞鶴先生を悪と決めつけるのは可哀想だ、と主張してくるのだ。
百合と月美のジュースだけ違うタイミングで渡してくるとか、紙コップの色が明らかに違うとか、そういう怪しい要素を見せてくれたら確信できるので、百合は先生の動きを見逃さないようにしなければならない。
百合はしばらく警戒していたが、舞鶴先生は近づいてこない。
保護者の観覧席を見ると、銀花さんと目が合った。銀花さんは初瀬屋の美人女将なので、笠馬の人たちからインタビューを受けたり、サインを求められたりして忙しいのだが、それでも百合や月美のことを案じてくれているようだった。何かあれば、銀花さんが飛んできてくれるに違いない。
(ん~・・・)
少しずつ緊張がほぐれてきた百合は、改めて月美に目をやった。
百合と目を合わせた月美は慌ててそっぽを向き、澄ました顔で玉子焼きを口に運んでいた。彼女の揺れる前髪の向こうに、爽やかな秋の空が輝いている。
(月美ちゃん・・・可愛いなぁ・・・)
クールなお嬢様高校生だったはずの月美ちゃんがキュートな小学6年生になり、百合とラブラブな小学生カップルになっちゃっているのだから、百合は胸がキュンとなってしまった。様々な記憶を取り戻しつつある今の百合は、外見は小学生だが、中身は高校生みたいなものである。百合のお姉様心がくすぐられてきた。
(ちょっとだけ、月美ちゃんにイタズラしてみよっかな♪)
皆がいる場所なので、抱きついたりするわけにはいかないが、軽めに絡んでみようと思ったのだ。
百合と月美のお弁当はどちらも銀花さんが作ってくれたものなのだが、中身がそれぞれ異なっており、被っている品が少なかった。なので、どれか一品を分けてあげることにした。
(よぉし・・・)
百合は自分のお弁当の中から、月美が好きそうなデザートを見つけた。大きな葡萄の粒である。これは三日月植物の一種で、厳密に言えば葡萄ではなくビワの仲間であり、マンゴーとライチをミックスしたような華やかな味がする美味しいフルーツだ。
百合はその粒をつまみ上げると、お弁当箱をそっと置き、自然な感じで月美に肩を寄せた。月美はまだ百合の動きに気付かず、しまりにくい水筒のフタをいじったりしている。
「月美ちゃん♪」
「ん?」
百合は月美の口元に、葡萄の粒をそっと近づけた。
「はい、あ~ん♪」
一度はやってみたかったラブラブなやりとりである。月美ちゃんがどんなリアクションをしてくるか、百合はとっても楽しみなのだ。
さて、この百合のイタズラは、月美にとって完全に不意打ちであった。
月美は「水筒のフタを適当にしめ、後でお茶が洩れて恥ずかしい思いをする」という、小学生にありがちな事態を避けるのに必死だったから、百合の接近に全く気付かなかったのだ。
「はい、あ~ん♪」
その一言は、まるで月美の胸に直接入り込んでくるような距離感で放たれていた。月美は一瞬何のことか分からなかったが、すぐに自分が何をされているのか理解した。
(ひいいいいいいいいいい!!!!!)
勢いに流され、反射的に葡萄をパクッと食べてしまいそうになった自分が恐ろしくて、月美は下を向いた。本当に本当に、猛烈に恥ずかしくて、困ったような、笑ったような、変な顔になってしまった。僅か数秒で月美は顔が真っ赤になった。
もう何も考えられない月美は、オコジョのように体をねじりながら立ち上がり、裸足で砂地に飛び出した。そして銀杏の木の周りを一周したあと、近くのレジャーシートにいた小学1年生のアテナちゃんの背中に抱き着いた。
(んもおおおおお!!! なんで私が、あ~ん♪ なんてされてますのよぉおおおお!!!)
アテナちゃんのブロンドヘアーに顔を埋め、細くて温かい体をぎゅう~っと抱きしめながら、月美は心の中で絶叫した。人は、あまりにも恥ずかしい時、ぬいぐるみなどを力いっぱい抱きしめて現実から逃げる場合がある。
食べ物を「あ~ん♪」させる行為は、月美には非常に有効だったらしい。
実はこれ、お嬢様を照れさせる最高の技の一つなので、クールでプライドが高いお嬢様の恋人がいる人はぜひ試してみてほしい。
百合は、月美ちゃんが想像以上に大きなリアクションをしたので、ちょっと驚いてしまったが、すぐに胸の底から愛おしさが溢れてきた。可愛い月美ちゃんをずーっと守っていかなければならない。その使命感が、改めて百合の胸に刻まれた。
「皆~、しっかりお昼食べとる~?」
その声で、百合の心臓はドキリと跳ねた。舞鶴先生の声である。
舞鶴先生は、「これ、梨で作った美味しいジュースやで~」などと言って、小さめの紙コップをトレーにたくさん乗せて子供たちのもとへやってきていたのだ。
百合は心のどこかで祈った。舞鶴先生が本当は悪人ではなく、単に子供たちにジュースを振舞いたがる陽気なお医者さんであることを。百合は銀花さんを心から信頼しているが、彼女も間違えることくらいあるだろう。
百合は舞鶴先生が持つトレーを凝視した。
紙コップは、ピンク色と水色の二種類だった。水色のカップは二つだけである。
「はい、キャロリンちゃん♪ 飲んでな~」
「サンキューデース!」
先生はピンク色のカップをキャロリンに手渡した。
「はい、アテナちゃん♪」
「どうも」
次も、ピンク色のカップをアテナに渡した。
「はい、月美ちゃん♪」
そう言って先生は、水色のカップを手にした。
百合が「ま、待って!」と言いかけた、ちょうどその時、綺麗子がレジャーシートの上でアザラシの動きをしながら舞鶴先生の足元へ行き、「私にも下さーい!」と言って手を差し伸べていた。
「あ、はい、綺麗子ちゃんも飲んでな~♪」
なんとこの時、舞鶴先生は、一度手に持っていたはずの水色のカップをトレーに置き直し、ピンク色のカップを綺麗子に差し出したのである。この瞬間、百合の迷いはすっかり晴れたのだ。
「き、綺麗子ちゃん、構えー!」
「お!!」
綺麗子は「構え」という号令に無意識のうちに反応して勢い良く立ち上がり、ソーラン節が始まる時の最初のポーズをとった。綺麗子の頭は、立ち上がった瞬間に舞鶴先生の持つトレーに丁度直撃し、ドリンクを盛大にひっくり返してしまったのだった。
「わわ! 舞鶴先生ごめんなさい!!」
「あ、えへへ、かまへんかまへん♪」
舞鶴先生ははんなりしたスマイルで自分の服をハンカチで拭いた。
(や、やっぱり・・・銀花さんが言ってたことは本当なんだ・・・!)
少なくとも、舞鶴先生は月美にだけ特別なジュースを飲ませようとしていた。その事実だけで、舞鶴先生は充分怪しい人物である。
鼓動が速まった胸を隠すように、百合は体育座りをして、盗み見るようにそっと舞鶴先生に視線を向けた。
(う・・・!)
舞鶴先生は、地面に散らばったカップを拾い上げながら、なぜか百合を見ていた。
二人の視線は運動会の会場の華やかな賑わいの中で鋭く交わった。百合は一瞬で気圧されたが、まさにヘビに睨まれたカエルのように、目を逸らすことも身動きすることもできなかった。
舞鶴先生は少しの間、マネキンのような無表情で首を傾げていたが、やがて陽だまりの猫のような愛らしい細目でニッコリ微笑んで、百合に小さく手を振った。
百合はどういう顔をしていいか分からず、舞鶴先生にそっとお辞儀をすると、逃げるように背を向けるしかなかった。もしかしたら、百合はとんでもない強敵と対峙しようとしているのかもしれない。