124、使命
『最初の種目はぁ~! 50メートル走デース!!』
揺れる万国旗の向こうに輝く秋の空は、ガラス細工のように澄んでいるから、放送係のキャロリンの声がよく響いた。
「百合は一番最初じゃな」
「・・・は、はい!」
スタート地点でアキレス腱を伸ばしていた百合に声を掛けてくれたのは、高校生の千夜子だった。
「白組の勝利のために、頑張ってきてくれ」
「はいっ! 頑張ります!」
百合は元気に返事をしたのだが、その声はほとんど千夜子の耳に入らなかった。なぜなら、校庭には大勢の女子高生たちが応援のためだけに押し寄せ、大波のような声援を浴びせてくれていたからだ。
「百合ちゃん可愛い~!!!」
「頑張って~!!」
「綺麗子ちゃんも頑張ってー!!」
「桃香ちゃんこっち向いて~!」
この女子高生たちは、笠馬の市街地にある花菱女学園本校の生徒たちである。
鹿野里校は超少人数の学校だから、運動会も小規模なのだが、ここ数年の盛り上がりは異常だ。特に今年は、夏祭りで鹿野里の魅力がますます知れ渡ったから、花菱女学園本校の生徒のみならず、その卒業生や、関係ない中学生たちまでやってきている状態である。校庭だけでは足りず、校舎も解放して観覧席にしているくらいだ。
「百合~、負けないわよ~!」
綺麗子は赤いハチマキを風に揺らしながらそう言った。やる気満々である。綺麗子は5年生なので百合より一つ年下だが、足が速いのでいいライバルだ。
百合は、隣に並んでいる綺麗子や桃香と同様、半周先のゴールを見据えている。
しかし、百合の瞳に映るのは、全く別の風景であると言わざるを得ない。彼女は、ここにいる生徒たちの誰も想像できないようなことを考えていたのだから。
(・・・今日集まってくれたこの人たちも、きっと三日月女学園の生徒だったんだろうなぁ・・・)
百合だけが取り戻してしまった記憶の中に、その三日月女学園はある。
自然豊かな三日月島には、三つの学区に分かれた巨大な学園があり、大勢の少女たちが寮生活をしていた。百合はその学園の住人であり、高校生だったはずである。
(千夜子さんはたぶん・・・アヤギメ学区の生徒会長だったなぁ)
千夜子が赤い着物を身に付け、下駄を鳴らしながら、神社のような場所を歩いている光景が、百合の記憶の片隅に残っている。
『位置についてー!』
スタート係の声で現実に引き戻された百合は、慌てて拳をきゅっと握りしめた。徒競走の前の緊張感は不思議と少なく、心臓の鼓動は落ち着いていた。正直、今の百合は運動会どころではないからである。
『よーい! ドン!』
とにかく、百合は駆け出すしかなかった。
今朝、銀花さんは運動会のお弁当と朝食を同時に作りながら、時間の許す限り、知っていることを百合に話してくれた。
味噌汁の具を切るトントンという音が響く初瀬屋のキッチンで、百合は銀花さんのひそひそ声に耳を傾けたのだ。
「ていうことは・・・銀花さんは前回も、前々回も、記憶を完全に持ってるんですかっ?」
「完全に記憶しているという保証はないけれど、覚えているわ」
銀花さんの髪に、キッチンの窓明かりが差し込んでいて、とても綺麗だった。
銀花さんは、記憶の中にある別の時間のことを『別の世界』と表現している。
なので、百合が断片的に思い出したのは、前回の世界、あるいは前々回の世界と言うことができる。
「私は、11回分の世界を記憶しているの」
「え!」
「私が覚えている限り、ここは12回目の世界ということよ」
「そ、そんなにですか!?」
百合が大きな声を出すと、銀花は鍋をかき混ぜながらそっと振り向いて、クスっと笑った。庭園で水撒きをしている月美に気付かれないようにしゃべらなくてはならない。
「単純に換算すれば9年くらいよ。大した時間じゃないわ」
聞くところによると、銀花さんはその時間、ずっと孤独だったらしい。今回はついに百合に打ち明けることにしたわけだが、それまでは一人だけで悩み、戦ってきたわけである。
「ところで、百合が思い出した前回の世界は、どんなところ?」
「えーと・・・み、三日月島です! 私は女学園の住人で、中学生か高校生でした・・・!」
「三日月島なの? 私にとって前回の世界は、鹿野里だったけれど」
「え!」
もしかしたら、百合はいくつかの世界の記憶をすっ飛ばして、かなり昔の三日月島の思い出を取り戻したのかも知れない。
「私の記憶の中の三日月島には・・・えへへ。小学生の銀花さんがいましたよ」
「その時のことは、私も覚えてるわ。私の1回目の世界だった」
「へ~!」
銀花さんは少しのあいだ口を閉ざしていたが、やがて百合の肩にトンっと自分の肩を押し当てて「優しくしてくれて、ありがとう」と微笑みながら言った。百合はちょっと照れてしまった。小さかった銀花ちゃんが、こんなに立派なお姉さんに成長して、自分たちを見守ってくれている事実に、胸が温かくなった。
百合が取り戻した記憶はどれも曖昧だが、鮮明に思い出せる場面もいくつかある。
しかしその場面が、百合にとって特別印象的だった場面とは限らないようで、ストラーシャ学区と呼ばれる海辺の町の喫茶店で、アップルティーのようなものを飲みながら英語の宿題をやっていた記憶があったりするのだ。全く重要でない、ささやかな思い出だ。
「ところで、どうして銀花さんは11回分も記憶を持ってるんですか・・・?」
「それはあなたに貸したガラスのかけらに関係があるわ」
「あ! これ、お返しします・・・!」
「役に立って良かったわ」
百合から受け取ったハンカチの包みを、銀花さんは大事そうにエプロンのポケットに入れた。
話せば長くなってしまうので今は説明できないようだが、このかけらを上手く利用して、銀花さんは記憶を保持したまま11回も時間と空間を飛び越えているらしい。
「信じられない状況だけれど、信じてくれる?」
「それは・・・もちろん・・・信じます」
とにかく百合は、前代未聞の現象に巻き込まれているが、実際に別の世界の記憶があるので、信じざるを得ないのだ。
時間と空間が再構築されて、血縁を含む人間関係がリセットされ、年齢もでたらめに変更された人間たちが、記憶もすっかり抜かれて新たな生活に放り込まれる。この異常なサイクルの原因や仕組みについて、銀花さんはまだほとんど分かっていないらしい。
「それでね、その原因を探ろうとしている人物が、私以外にも何人かいるらしいの」
「え・・・?」
「私が知っているのは一人だけ。舞鶴京子先生よ」
保健の先生である。
舞鶴先生も、この世界が何らかの切っ掛けで別の世界に作り替えられてしまうことを知っているようだ。
「舞鶴先生も知ってるんですか! 良かった、味方がいて」
「残念だけれど、あの人は味方じゃないわ」
「え・・・!?」
百合はここで、衝撃的な事実を知らされることになった。
「私が百合にこの件を打ち明けたのは、舞鶴先生があなたたちの命を狙っているかも知れないからよ」
「い、命!?」
銀花さんは淡々と恐ろしいことを言ってきた。
「舞鶴先生は様々な調査を経て、一連の超常現象の原因があなたたちかもしれないと思い始めている。彼女はおそらく、時間と空間が歪んでしまうこの現象の原因を特定して、それを排除するためにやってきた女性よ」
「ちょ、ちょっと待って下さい・・・!」
銀花さんが言うには、時間と空間が歪むその瞬間に起きている出来事を毎回整理して法則性を探そうとすると、いつも百合たちの名が上がるらしい。原因だと疑われても仕方がないらしいのだ。
「えーと、ところで・・・あなたたち、っていうのは? 私以外に誰が原因だと疑われてるんですか?」
百合は、なんとなくその答えを知っている気がしたが、一応尋ねた。
「月美よ。舞鶴先生が狙っているのは、百合と月美」
「つ、月美ちゃんも・・・?」
「そうよ。だからお願い百合。月美を守って欲しいの」
「え、月美ちゃんを・・・守る!?」
実は、銀花さんは先日、百合たちが文倉の湯へ行った時、初瀬屋の業務用の自動車でこっそりついてきていたようなのだ。そして舞鶴先生が百合たちに渡した缶ジュースの中身を、こっそり洗面所で捨てていたのだ。さらに、昨日の夕方に舞鶴先生が百合たちに差し入れしてきた紙コップのジュースを捨てたのも、銀花さんだったらしい。
たしかに、ここ最近、舞鶴先生が百合と月美に何かを飲ませようとしてくる機会が増えている。真夏にはそんなこと一度もなかったのに、涼しくなってから急にジュースの差し入れが不自然なほど増えたのだ。もし毒物が盛られていたら、百合たちはイチコロである。
「けれど、私がいつも百合たちのそばにいられるわけじゃない。行動を起こし始めてしまった舞鶴先生に対抗するには、百合か月美に協力してもらうしかなかった」
「な、なるほど・・・」
月美を守る。これが、百合の使命なのだ。
「あ、あの・・・」
「なに」
「どうして銀花さんは、そこまで私たちのことを気に掛けてくれてるんですか」
銀花さんはおにぎりを詰めた重箱の蓋をそっと閉めた。
「百合と月美に・・・恩があるから・・・」
銀花さんはクールな顔のまま、少し照れたように頬を染めて、そう言った。
「キャー! 百合ちゃん頑張ってー!!」
「綺麗子ちゃんも速~い!!」
声援に揺れるゴールテープが見えてきた。
百合は考え事をしながら走っているせいか、綺麗子より一歩遅れてしまっている。
(い、いけない! がんばらないと・・・!)
百合はそう思い、気合を入れ直して駆けた。
その時、百合の瞳は偶然、ある少女に惹きつけられた。その少女はゴール付近の人だかりの後方で、遠慮がちな眼差しで競争を見守っている。
(月美ちゃん・・・!)
百合の恋人である。
百合は、前回や前々回の世界にいた月美のことを、断片的ではあるが、かなり覚えている。
片方の月美は小学生で、もう片方は中学生か高校生だった。どちらかと言えば小学生のほうの月美が記憶に残っていて、ストラーシャ学区の浜辺で一緒に散歩したり、大通りの店に水着を買いに行ったりして、幸せに過ごしていた。あの時の月美ちゃんは、今よりもっと小さくてとってもキュートだった。
(たしか、ラブラブになれたんだったよねぇ・・・♪)
恋愛関係になった事実だけははっきり覚えている。別の世界でも結ばれていることに、運命のようなものを感じて百合はトキメキが止まらなかった。
(よーし!)
月美ちゃんにカッコイイところを見せるため、百合はさらにスピードを上げて走った。
(あの時の月美ちゃんは、たしか前髪パッツンだったなぁ♪)
百合の脳裏には、前回の三日月島で一緒に過ごした幼い月美の姿が浮かんでいる。
(ん・・・?)
百合はこの時、その幼い月美と交わした、あるやり取りを思い出した。
(あれ・・・?)
それは、今の百合に深く関係する、重要なやり取りであった。
(ああああ!!!)
百合が何かに気付いた、次の瞬間、百合は綺麗子と同時にゴールテープを切っていた。同着の二人への拍手喝采の中で、百合はただ一人、目を丸くして立ち尽くした。
(た、たしか・・・前回の月美ちゃんって、別の世界の記憶を持ってるって言ってた気がする・・・!!)
そう、別の世界の存在を主張する人物に会ったのは、今回が初めてではなかったのだ。もしかしたら、もっと大勢がこの現象に気付いていたのかも知れない。
(私、前回の世界の月美ちゃんの話、信じてあげたのかな・・・。全然覚えてない・・・)
百合が不安そうに首を傾げると、高校生の千夜子がやってきて、頭を撫でてくれた。
「綺麗子に並んでゴールできたなんて、よく頑張ったのう」
「ど、どうも・・・!」
千夜子の手の温もりと応援席からの拍手に包まれながら、百合は決意を新たにした。
(私・・・絶対、月美ちゃんを守る・・・!)
舞鶴京子先生は今、本部席のテントで、笑みを浮かべながら自分の爪のマニキュアを眺めたり、運動会のプログラムに目を通したりしている。鹿野里の人々の健康を見守ってくれているはずのあの人が、百合たちに危害を加えようとしているなんて信じられないが、もはや受け入れなければならない現実なのかも知れない。
(よ、よし・・・!)
百合は何も知らない普通の小学生の顔を作ってから、愛する月美ちゃんに向かって駆け出した。まるで徒競走のスタート前のようなドキドキが、胸の中で弾んでいた。