123、目覚めの朝
その夜、百合はいつも通り布団に潜り込んだ。
天井の闇に思い描くのは、明日の運動会のことではなく、先程の銀花さんの姿だった。
(明日の朝に・・・何があるんだろう・・・)
朝になったら話す、というようなことを彼女は言っていた。運動会と何か関係があるのだろうか。
銀花さんがくれた飴玉の破片のようなものは、ハンカチに包まれたまま、百合のパジャマの胸ポケットに入っている。
(月美ちゃんには、まだ内緒かぁ・・・)
妙な不安と孤独感を抱いたまま、百合はそっと目を閉じた。
しばらくは眠れなかったが、昼間の練習の疲れが少しずつ百合の体を包み込み、やがて心地良い眠りの世界へと彼女を誘っていった。
長い長い夜の闇の中に、ぼんやりとした光が差し込んでくる。
頭上で揺れていたその光は、少しずつ百合の周囲を照らし始め、やがて百合は、自分が海の中にいることに気付いたのである。
(あれ・・・ここ、水の中?)
意外と水泳が得意な百合は、ほとんど無意識のうちに水をかき分け、光に向かって泳ぎだした。
眩しい青空が乱反射する海面に顔を出そうとした時、百合は誰かの声を聞いた。
『誰か! あの子を助けてあげてっ!』
ビックリした百合は、海中で振り返ったのである。
すると次の瞬間、そこはもう海の中ではなかった。
見覚えのない学校の食堂のような場所であり、百合の前には、掲示物のポスターの張り替えようとしている小柄な少女がいた。
淡い午後の光の中で、彼女の黒髪が揺れている。
いつの間にかどこかの学校の制服を着ている百合は、彼女の背後にそっと近づいた。
「月美ちゃん?」
百合は、少女にそう声を掛けた。
月美ちゃんらしきその少女は、掲示板の上部に手を伸ばして画鋲を刺そうとしているが、手が届いていなかった。
「手伝ってあげる♪」
なぜか月美よりもずっと背が高い百合は、ポスターを左手で押さえながら、一番高い所の画鋲を刺してあげた。
少女は、突然現れた百合に驚いた様子だったが、照れたようにうつむいて百合に礼を言った。
「あ・・・ありがとうございます・・・」
鈴が鳴るような、とっても可愛い声だった。
「あれ、月美ちゃん、前髪切った?」
「え! べ、別に・・・」
「ふふっ♪ 似合ってるよ」
百合は笑いながらポスターに目をやった。
「これって何のポスターなの?」
「えーと、ポスターというより、窓です」
「窓?」
「はい。こうすると開きます」
少女の手がポスターに触れたとたん、掲示板は四角くくり抜かれ、白い雲が浮かぶ青空がぽっかりと現れた。その瞬間、窓に向かって猛烈が風が吹き抜けたから、百合の体はふわっと宙に浮き、窓の外へ放り出されてしまった。
「きゃーっ! つ、月美ちゃーん!」
「ゆ、百合さん!?」
窓から慌てて顔を出す月美ちゃんの姿が、ぐんぐん遠ざかっていき、百合は落下していった。百合はとても混乱し、パニックだったが、自分のことを「百合さん!?」と呼んでくれたことで、あの少女が月美ちゃんだったことが確定したようなものだから、なんだか嬉しかったのも事実である。
(ど、どうしよう!)
百合が青空でもがいていると、大きな二枚の翼を広げた白馬が、風を切って颯爽と近づいてきた。
「大丈夫かい!?」
「ひゃあ!」
百合の体は、王子様のようなお姉さんに抱きとめられた。
「あの窓から人が落ちて来たのは久々だよ!」
「ええ!? あ、ありがとうございます・・・!」
「キミは百合ちゃんかい? それとも・・・」
「あ、百合です・・・」
白い翼と青空を背景に微笑む爽やかな笑顔に、百合は見覚えがあった。
「翼さんですよね、花菱の生徒会長の・・・」
「え? あははは! 花菱女学園の生徒会長じゃないよ。ストラーシャ学区の生徒会長さ」
「ス、ストラーシャ学区?」
百合の鼓動はどんどん速まっていった。
「ストラーシャ学区・・・って、私聞いたことある・・・」
「それはそうさ。キミはこの学園の生徒だし」
「え?」
聞き覚えのあるような、懐かしい感じがする名称を耳にして、百合は胸がドキドキした。
「あの・・・どうしてこの馬、飛んでるんですか?」
「修理をしたからさ。フライパンは持ち上げられないが、機械の馬なら宙に浮かべられる、それが私かな」
「へ、へ~・・・」
あんまり会話が成立していない。
すると急に、機馬から聞こえていたガシャンガシャンという機械音がピタリと止まり、噴き出していたラズベリーのような香りの蒸気も止まってしまった。
「あれ・・・」
「あ・・・」
「まずいね、これは・・・」
当然、機馬は真っ逆さまに落下し始めるのである。
その時、百合は眼下に島があることに気が付いた。
(あれ・・・!? ここ、三日月島!?)
クロワッサンのような特徴的な海岸線が百合の目に映った。三日月島は百合の母が研究のために出掛けている無人島であり、世界的にもとても有名なのだが、百合はその島の姿に、郷愁のようなものを感じた。初めて来たという感じがしなかったのである。
が、その感覚について深く考察する間もなく、百合たちの体は、きらめく海面にザブンと落下してしまった。
「わっ!!」
小さく悲鳴を上げた百合の体は、当然海の中に突っ込んだはずだったのだが、不思議なことに、海の中は夜空だった。
海面を境に天地が逆さまになり、百合は夜空に向かってぴょーんと打ち上げられていたのだ。
「ええー!?」
紫とピンクのグラデーションの中に浮かぶ小さな星たちが、百合の体に当たるたびにシャララ~ンと音を立てて弾け、ぶつかり合った。
先程まで機馬や翼先輩の背中にしがみ付いていたはずの百合は、今はなぜか、巨大なぬいぐるみのようなものに抱き着いていることに気付いた。
(なんだろうこれ、魚・・・かな)
大きな魚のぬいぐるみかも知れない。夢カワな配色ともふもふな触り心地が、百合を落ち着かせ、癒してくれた。
土星の環の辺りまで上昇したぬいぐるみは、今度は落下を始めたが、真下に落ちるわけではなく、まるで遊覧船のようなゆったりした速さで、夜空に大きな螺旋を描きながら下りていった。
夜空を見回す余裕が出てきた百合は、クジラ一頭分くらい離れたところに浮かぶ星座たちに混ざって、たくさんの窓があることに気付いた。その窓ひとつひとつの向こうには様々な景色があり、目をこらすと、お洒落な港町や葡萄畑、五重塔などが見えた。まるで絵画館である。
「あ・・・今の・・・」
初瀬屋に似た和風の建物が見える窓が、一瞬だけ百合の前を通り過ぎていった。
百合は魚のぬいぐるみに向かって「ねえ、どこに連れていってくれようとしているの?」と話しかけたが、もちろん魚からの返事はなかった。
その代わりに、魚の背中に、リボンのような形をした金色のゼンマイを見つけた。からくり人形の背中についているようなやつである。
「それ、回して」
「え?」
いつの間にか、ぬいぐるみにはもう一人の乗客がいた。8才くらいの、黒髪の少女である。
「・・・銀花ちゃん?」
百合の口から思わずそんな名前が飛び出した。が、どうみてもその少女は初瀬屋の女将さんではなく、もっと幼い女の子だった。
(え、いま私、銀花ちゃん・・・って言った? 銀花さんじゃなくて・・・? こ、この子だぁれ・・・?)
混乱する百合を気にせず、少女はもう一度「それ、回して」と言った。少女が無理して手を伸ばすと危ないと思った百合は、とりあえず金色のゼンマイばねを回してあげることにした。
少し力を込めると、ゼンマイはカチカチカチッと心地よい音を立てて回った。
「ありがと。百合」
「あ、う、うん」
少女は百合の背中にふわっと抱き着いてくれた。
次の瞬間、巨大な魚の正体は、巨大なオルゴールだったことが判明した。
ゼンマイばねの動力を伸びやかな星色の音に変えて、夜空をコンサートホールに一変させたのである。
魚のオルゴールは銀色の影を海面に浮かべて夜空を滑っていく。音色に合わせて、星座たちがモビールのようにゆったりと踊っているのが見えた。
「百合」
「ん、なぁに?」
「歌を忘れた金糸雀、どうする?」
「え・・・? あー、この曲、カナリアの歌かぁ。カナリアだっけ、カナリヤだっけ・・・」
「カナリヤ。ねえ、どうする? 柳のムチでぶっちゃう?」
「え? そんなことしないよ♪」
百合は魚を優しく撫でてそっと目を閉じながら答えた。
「私だったらねぇ、優しくしてあげる。大事に大事にしてあげる♪」
それを聞いた少女は、さらに強く百合を抱き閉めた。百合の腰に回した彼女の細い腕がくすぐったくて、百合は少し笑ってしまった。
「ありがと。百合」
「え? あ、どういたしまして」
すると次の瞬間、大きな魚のぬいぐるみは桃色の煙をポンッと噴き出し、幼い少女と共に消えてなくなってしまった。百合の体は宙に放り出され、満月に向かって落下していったが、不思議と怖さは感じなかった。それよりも、オリオン座をくぐった瞬間から満月がステンドグラスのように色鮮やかに輝き始めたことが気になってしまった。
(なんだか・・・懐かしいステンドグラス・・・)
百合はそのままステンドグラスに突っ込んだが、ステンドグラスは蒸気に投影された光のように実体がなかったため、するりと通り抜けることができた。しかし、その先があまりにも眩しかったから、百合はぎゅっと目をつぶってしまった。ほんのり紅茶の香りが漂う白い光に包まれて、百合の意識はなんだか遠くなっていってしまったのだ。
「百合さん」
ウミネコの声と波音が、百合の胸の中を吹き抜けた。
「百合さん・・・いつまで寝ていますの?」
百合は眠っていたようである。
足元に打ち寄せる心地良い小波が、ここがビーチであることを百合に教えてくれた。百合はなんとなく、三日月島の内海の砂浜であるように感じた。
「・・・月美ちゃん、なの?」
眩しい太陽に目を細めながら、百合は自分を起こしてくれた少女に目をやった。
そこにはやはり、月美ちゃんがおり、クールな眼差しで百合を見つめていた。たぶん、心配して駆けつけてくれたのだろうが、冷静なフリをしているのだろう。
よく見ると、彼女は高校生くらいであり、朝露に濡れた白百合のように、うっとりするほど美しかった。
「月美ちゃん・・・」
危うく「月美ちゃん・・・綺麗・・・」と口から出掛かったが、なんだか恥ずかしかったので言わなかった。
「さあ、もう寮へ帰りますわよ」
「あ、うん・・・。でも寮ってどこだっけ」
百合がちょっぴり体を起こすと、月美の服装が目に映った。
(月美ちゃん、ビドゥ学区の制服着てる・・・ってことはビドゥの寮かぁ。歩きじゃなくて、機馬車で帰るのかな。馬車道はどっちだろう)
そう思った瞬間、百合の心臓がドキドキと高鳴り始めた。
(あれ!? 私、三日月女学園の生徒だよね!? で、でも今、鹿野里で暮らしてるよ・・・!? し、しかも、小学生として!)
その心理的衝撃により、百合は今度こそ目を覚ましたのである。
「うっ・・・!」
薄暗闇の中に、和室の天井が見える。
(あれ・・・ここは・・・!?)
秋の虫たちの微かな音色が、障子の向こうで響いており、畳とお布団の香りが百合の体を優しく包んでいた。
百合は上半身だけを起こし、夜の闇を見回した。間違いなく、鹿野里にある初瀬屋の部屋である。
(ど、どっちが現実・・・!?)
百合は思い出してしまったのだ。
自分が、三日月島に存在するはずの女学園の生徒であり、高校生であること。そして愛する月美ちゃんも、小学生ではなかったこと・・・。断片的な記憶のみだが、それらの一つ一つは非常に現実的であり、夢の中の出来事や空想のお話とはとても思えなかった。
(私・・・もっと前から月美ちゃんと恋人同士だったの・・・!? というか、高校生だったの!?)
百合は激しくなった心臓の鼓動で体がぐらぐらと揺れそうだった。
(えーと・・・! しかもそれだけじゃないよ・・・! みんな三日月島の学園で暮らしてて、翼さんは機馬を乗りこなす面白い先輩で・・・たしか・・・アテナちゃんは小学生じゃなくて、生徒会長とかそういう、重役についてる大先輩だった気がする・・・!)
記憶のかけらは泉のように溢れ、散らかっていく。
(ルネちゃんはあの時も病弱で・・・そ、そうだ! 舞鶴先生と一緒に丘の上で暮らしてた気がする・・・! で、風車の絵を描くのが趣味だったんだ! あれ、でも・・・普通にストラーシャ学区の寮で元気に暮らしてた気もする・・・どっちだっけ・・・)
記憶の全てが曖昧であるが、現実の一部であるという強い実感があった。こんなこと、誰に説明しても分かって貰えないだろうが、百合は確かに、別の世界でも暮らしていたはずなのだ。
「そ、そうだ・・・月美ちゃん・・・!」
猛烈に月美に会いたくなった百合は、掛布団を跳ね除けて立ち上がり、ちょっぴり冷たい畳の上を駆けて廊下に向かった。
静けさに満ちた廊下に飛び出ると、東の空が、透き通った和紙のようにうっすらと白く輝いていた。もう夜明けの時間だったらしい。
「百合」
「え!?」
月美の部屋に行こうとしていた百合の背中に、穏やかな声が掛かった。振り返ると、優しい窓明かりの中に立つ銀花さんの姿があった。
「月美にはまだ、内緒にしておいて」
「あ・・・」
それは昨夜から言われていた約束である。
銀花さんは全てを知っていて、今の百合の動揺を理解してくれている人間であることは、彼女の目を見れば明らかだった。
「どう、百合。少しだけ、思い出してくれた?」
「銀花ちゃん・・・!!」
百合は思わずそう叫んで彼女に駆け寄った。
「ど、どうしてもう大人になってるの? 私よりずっと年下じゃなかったっけ・・・!?」
「知っていることは、全部話してあげる」
だからもう安心して、と言わんばかりに、銀花さんは百合をぎゅっと抱きしめてくれた。
激しく動揺し、不安でいっぱいになっているはずの百合の胸に、懐かしい友人に会えた時のような嬉しさが込み上げてきたのはこの時だった。
今日は運動会の当日なのだが、百合にとっては、鹿野里での暮らしという現実に、別の現実が激しく交差する、全く新しい日常の始まりでもあったのである。