122、かけら
鹿野里の紅葉は、山の頂から始まった。
そして魔法に掛けられたように、その錦の色は山裾まで広がっていったのである。わずか数週間で、里の景色はブロッコリーからラディッシュへと様変わりした。
通学路から見渡せる山々の紅葉は格別であり、初瀬屋を出た途端に広がる秋の大パノラマは、いつも百合をうっとりさせた。山に囲まれて暮らしていると、自分が季節一部になったようで胸が弾む。
「は~い! じゃあ、今日はここまでにしまぁ~す!」
5時間目、美菜先生のゆるい号令で、運動会の最後の練習が終わった。運動会前日なので、段取りの確認がメインであるが、当日は花菱女学園からも大勢観客が来る予定なので、緊張感のある練習になった。
「明日が本番・・・! あとは自主練だけデース!」
「キャロリン、体力は残しておかないとダメよ~」
キャロリンは非常に張り切っている。
百合は練習中、ちょっとだけ転倒してしまい、両手に砂がついていたから、教室に戻る前に校舎脇の水道で手を洗った。排水溝に二、三枚の紅葉が張り付いており、水に濡れてキラキラ光っている。
すると、診療所の窓から練習の様子を見守っていた舞鶴先生が、紙コップに入ったスポーツドリンクを持ってグランドに来てくれた。
「皆お疲れ~♪ 秋でも熱中症になるんやでぇ♪ 水分補給してなぁ♪」
「わぁ、ありがとうございます!」
真っ先に駆け寄った綺麗子は舞鶴先生から紙コップを受け取ると、口元からジュースをちょっぴりこぼしながらクビクビと飲み干した。
クールな月美はこういう時、真っ先に貰いに行くのは格好悪いと思っているので、しばらく運動会のプログラムの紙を眺めたり、入場門の柱を無意味にポンポン叩いたりしてから、舞鶴先生の元へと向かった。なので、百合と同じタイミングになった。
「はい、月美ちゃんと百合ちゃん♪ どーぞ」
「ありがとうございますわ」
「ありがとうございまーす!」
紙コップのジュースに、澄み切った秋の空が映っていた。美味しそうである。
しかし、ジュースを飲もうとした瞬間、校門のほうから「キャー! ハクビシンがいるー! 可愛い~!」というかなり大きな声が上がり、百合たちは驚いて振り向いた。
ハクビシンというのはオコジョやフェレットに似た動物で、とても可愛いのだが、百合と月美は、その声の主が誰なのか分からなかったので、目を合わせて首を傾げた。綺麗子やキャロリンたちが「ハクビシン!? どこデース!?」などと言って走り出したので、百合たちもその後を追いかけることにした。
校門まで走ると、そこには綺麗子たちしかおらず、声を上げた女性の姿は見えなかった。百合と月美はほとんど無意識のうちに、ジュースを校門の石柱の上に乗せてから、辺りを見回した。
「お! ハクビシンデース!!」
ハクビシンは、柿の木のそばにいた。
ちょっと痩せたそのハクビシンは、青い小鳥とのんびり屋の小鹿、そして白ウサギというお馴染みの3匹に囲まれ、木の実を食べていた。どうやらお腹が空いていたようで、小鳥が分けてあげたごはんを夢中になって食べている。
「さっきの女性の声は小鳥の声デース?」
「そ、そんなわけないですわよ・・・」
謎は解けないままであった。
しかもこの時、新たな謎がもう一つ生まれようとしていた。
ほんの1分ほど目を離した隙に、百合と月美のジュースが無くなっていたのである。紙コップは残っていたのだが、空になっていたのだ。
「え?」
「あら・・・」
「空っぽだね・・・」
百合たちは再び目を見合わせたのだった。
「これって、あの時と同じですわね」
「そ、そうだね・・・」
二人には、このような状況に実は心当たりがあった。
以前、文倉の湯に行った時、似たような奇妙な出来事に遭遇したのである。
お風呂上り、脱衣所で服を着た月美たちのもとへ舞鶴先生がやってきて缶ジュースをくれたのだ。
「ほら、うちの奢りやで~」
「わぁ! ありがとうございます!」
「い、いいんですの?」
「遠慮せんと、飲みや~♪」
と、先生は言ってくれたのだが、百合と月美がほんの少し、ドライヤーで髪を乾かしに行って戻ってくると、もう缶は空っぽになっていたのだ。
その時は、綺麗子かキャロリンが飲み干したのだろうと思い、深く考えなかったのだが、同じことが二度も起こったとなると、気になってしまう。
「これ、どういうことですの・・・?」
「さあ・・・」
校門の前の百合は、空っぽになった紙コップを覗き込みながら首を傾げた。
「何してんのぉ? コップに虫でも入ったぁ?」
綺麗子は百合の肩にアゴを置くように背後からむぎゅっと抱き着いてから、笑いながら昇降口へと駆けていった。タイミング的にも、綺麗子はこの事件の犯人ではないようだ。
謎は解けないままであるが、今は運動会の準備に集中すべきかも知れない。今日は早く初瀬屋に帰って、ぐっすり眠るのが百合たちの一番大事な仕事だ。
「行こっか、月美ちゃん」
と言って、昇降口へ戻ろうとした百合は、月美の返事がないことが気になって振り返った。月美はちょっぴり頬を染めながら不機嫌そうにうつむいていた。
「ん?」
百合は一瞬、月美の表情の意味が分からなかったが、すぐに彼女の気持ちに気付くことができた。
「ふふっ♪」
百合は笑いながら月美に歩み寄り、昇降口のほうから誰かが見ていないかどうかをよく確認してから、月美にぎゅっと抱き着いた。月美は体をビクッとさせながら「ふわぁ・・・!」などと小さく声を洩らした。月美は、百合に抱き着いていった綺麗子に焼餅を焼いていわけである。
「な、何をしますのよ・・・!」
本当は嬉しいくせに、月美は怒ったようなセリフを言った。
「ほら、教室帰ろ♪」
百合がそう言って笑うと、月美は「はい。分かってます・・・」などと言って、すたすたと歩き出したのだった。
桃園商店から立ち上る焼き芋の香りが、西の空で燃える雲と混じり合っている。
刈り取られた三日月野菜の穂が干された棚が長い陰を落とす夕暮れ時に、百合と月美は下校していた。放課後にも運動会の準備があり、思いのほか時間が過ぎてしまったのだ。
「月美ちゃん、すっかり寒い季節になったね~」
「そうかしら」
「月美ちゃんは寒いの平気?」
「はい。寒いのも暑いのも平気です」
「ふふっ♪ ホントに?」
「ほ、本当ですわ」
常にお嬢様として格好をつけている月美が可愛くて、百合は笑ってしまった。気温が下がってからもポニーテールを続けている月美のうなじでは、後れ毛が少しだけ風に揺れており、夕焼けに照らされて金色に輝いていた。百合は今すぐにでも月美のほっぺにチューしたくなってしまったが、やめておいた。桃園商店の前でラブラブなことをしたら、きっと誰かに見られてしまうからだ。
「ただいま帰りましたわー」
「ただいま~」
夕方の初瀬屋は、いつもいい香りがする。
ダシの効いたお味噌汁と、畳の匂いが優しく混じり合った、懐かしい香りだ。
「おかえりなさい」
月美の叔母である銀花さんが、エプロンに下げたタオルで手を拭きながら、エントランスに顔を出してくれた。百合にとって、銀花さんは鹿野里のお母さんみたいなものであり、初瀬屋に帰り着いた時の安心感は、抱きしめられているような心地良さである。
一階にある大きな洗面所で手洗いを済ませた百合と月美は、カバンを持って二階に上がろうとした。
すると、キッチンに戻っていたはずの銀花さんが、階段の前に立っており、左の頬を窓の夕焼けに染めていた。
「ねえ、月美」
「はいっ」
お手伝いの予感を感じた月美は、嬉しそうに銀花さんに駆け寄った。
「お風呂場の点検をしてきてくれる? 明日は運動会の見物で4組もお客様が来るのよ」
「わかりましたわっ」
月美は慣れた様子で、点検リストとボールペンを受け取り、お風呂場へと駆けていった。さすが旅館の娘である。
百合は月美のことがだ~い好きなので、もちろん彼女の手伝いをしたかったのだが、不意に目があった銀花さんが何か言いたげだったので、階段の下から動かずにいた。
「私も何かお手伝いありますか?」
「そうね、ちょっとついてきてくれる?」
「は、はい」
銀花さんはロビーを横切り、フロントの引き出しで何かを手に取ってから、玄関に向かった。
「お外ですか?」
「そうよ」
てっきり夕ご飯の調理のお手伝いかと思っていたのだが、全然違うらしい。
庭園の水やりの可能性もあったが、サンダルを履いた銀花さんはまっすぐに駐車場を抜けて大通りへ出ていった。
(ん・・・どこまで行くんだろう)
疑問に思った百合は、月美がいる初瀬屋を振り返った。
「すぐそこよ」
「あ、はい・・・!」
心を見透かしたような銀花さんの言葉に、百合は照れ笑いをした。
銀花さんが足を止めたのは、鏡川の石橋の袂だった。
夕風に揺れた柳の枝が、茜色の空をふんわり撫でている、ちょっぴり幻想的な光景に、百合は胸がドキドキした。変化に富んだ鹿野里の自然は、いつだって百合を驚かせてくれる。
「百合」
「はい」
「大事な話があるのよ」
「え・・・?」
鏡川の水面に映る夕空に視線を落としながら、銀花さんがそう切り出した。
「今すぐには信じてくれないと思う。だから、冗談だと思って聞いてくれて構わないわ」
「え・・・? は、はい・・・」
月美以上に大真面目な女性である銀花さんが、こんなところにまで百合を呼び出してジョークを言うとは思えなかった。「大事な話」と聞いて、百合の脳裏には様々な憶測が浮かんだが、どれもこれも、信じられないというほどのものではなかった。
銀花さんはしばらくの間何も言わず、綺麗な瞳に秋の夕暮れを灯していたが、やがて百合のほうに向き直った。この時の銀花さんの瞳の輝きは、澄み切った夜空のようで、とても美しかった。
「百合」
「は、はい」
「私たちは、記憶を何度も失くしているのよ」
秋の森を渡ってくる冷たい風が、百合の足元を駆け抜けた。
「記憶って・・・えーと・・・」
「記憶。思い出よ」
百合は銀花さんが何の話を始めたのかよく分からなかった。
「例えば、百合が月美と初めて出会ったのは、いつ?」
「え・・・? えーと・・・あの・・・」
とりあえず百合は、頭の中から質問の答えを探した。
「春・・・ですよね。私、ゴールデンウィークに鹿野里に来たので」
「そうね。鹿野里に来て初めて会った、そう思うでしょう」
「は、はい・・・」
「でも、正確に言えば違うのよ」
ということは、もう少し昔に既に会っていたということだろうか。
「あ、もしかして、実はもっと小さい頃に出会ってるんですか? 幼稚園の頃とか?」
「いいえ。今回のあなたが月美と会ったのは5月が初めてよ」
「え・・・今回・・・?」
「そう。今回の前には前回があり、前回の前には前々回があったわ」
百合はもう、何が何だか分からなかった。銀花さんはなぞなぞを出しているのだろうか。
困惑する百合の顔を見た銀花さんは、静かに笑った。
「細かい話は、明日の朝伝えるわ。この件を百合に打ち明けることにした理由も、その時話す」
「い、今ではなくて、ですか?」
「明日の朝よ」
明日の朝になると何か状況が変わっているのだろうか。百合はすっかり混乱してしまった。
「意味が分からなくて、驚いたでしょう?」
「え、ま、まあ、そうですね・・・」
「百合をここに呼んだのは、これを渡したいからよ」
「え?」
銀花さんは、ポケットからハンカチのようなものを取り出し、百合に手渡した。
それは普通の白いハンカチだったが、間に何かが挟まっているようだった。
「これ、何ですか?」
「今はあまり気にしなくていいわ。明日の朝くらいまで、大事に持っておいて」
「は、はい・・・中身見てもいいですか?」
「どうぞ」
そっとハンカチをめくると、きらりと光る夕陽の反射が百合の目に飛び込んできた。
それは、いくつかに割れてしまった飴玉の、ひとかけらのような物体で、透き通った薄紅色の陰をハンカチに落としていた。
「それをしばらく持っていて。お風呂の時以外、肌身離さずね」
「え・・・あ、はい・・・それは、いいですけど」
「ありがとう。用事はもう終わりよ」
銀花さんはそう言って、初瀬屋に向けて歩き出してしまった。百合は状況が全然飲み込めず、立ち尽くしてしまったが、我に返ってかけらをハンカチに包み直し、銀花さんを追いかけた。
「あ、あの、銀花さんっ」
「なぁに?」
「これって、月美ちゃんには内緒なんですか?」
「そうね、しばらくは秘密にしておいて。あの子にも伝える必要があるかどうか、もう少し考えるから」
「わ、わかりました・・・でも、あの・・・」
「とにかく、一晩それを持っておいて」
「は、はい」
銀花さんは、初瀬屋のすぐ前にある桜の木の陰で立ち止まり、枯葉が舞う秋の日差しの中で振り返った。
「百合」
「は、はい」
銀花さんは卒業アルバムに写った懐かしい友人を眺めているような、うっとりした優しい眼差しを向けてきた。
「私、楽しみ」
この時の銀花さんは、なぜかほんの少しだけ、幼い少女のように見えた。