119、秋の片隅
桃園商店の看板娘、桃香ちゃんの朝は早い。
「桃香~、土間の掃き掃除お願いね」
「うん。分かったー」
「あ、でも時間になったら途中でやめて、登校してね」
「わ、分かってるよぉ~」
「いってきまーす」
「いってらっしゃ~い」
母は三日月野菜や生鮮食品の仕入れのために、温かいコーンスープ缶を片手に白い軽トラックに乗り込んで、商店の車庫を出ていった。母が戻ってくる前に、桃香は朝の掃除を始めるのだ。
「よーし、がんばるぞ」
桃香はおっぱいが大きくてドジっ子な中学生であるが、かなりの頑張り屋さんでもある。
登校の準備を早めに済ませた桃香は、商店のシャッターを内側から開けた。すると、水彩のような淡いブルーが足元から流れ込み、古びた店内に輝きが満ちていった。
「わぁ、ちょっと寒い・・・」
イチョウの木はまだ緑色だが、透き通った秋の香りが風に混じって里を包み込んでいるのが分かった。赤とんぼが、つぅーっと青空をよぎっていく。
(そういえば、月末くらいから焼き芋販売始めるから、焼き芋機確認しとかなきゃ)
桃香は家の中の納戸へ向かった。ビニールに包まれた電気焼き芋機を覗いてみると、案外綺麗に保管されているようだった。無事に機能しそうである。
が、焼き芋機を載せるための木製の台が見当たらないことに桃香は気付いた。
(あ。あの台は外かぁ)
その台はちょっとした木工DIYの作業台として、屋外に保管されていることを桃香は思い出した。お風呂場のすぐ外にある納屋の中だ。
外に出た桃香の全身を、秋の爽やかな空気が包み込む。キャラメル色の砂地に落ちた木の葉をよけながら、桃香は納屋に向かった。
木製の台は、箱の中に残された最後の一粒のチョコレートみたいに、ひっそりと陰の中で眠っていた。台には、竹製の大きな熊手が立て掛けられていた。
「よいしょ」
桃香は、やや重い熊手を細い腕で持ち上げた。
「桃香ぁ~・・・」
「わあああ!!!」
オバケのような声を納屋の裏から聞いて、桃香は飛び上がってしまった。
声の主はキャロリンだった。鏡川のほうまで早朝ランニングしてから登校しようと思っていた彼女が、桃香の家に立ち寄り、桃香をビックリさせたのである。
それはいいのだが、問題はこの直後に起きた。
驚いた桃香は熊手を持ったままコマのようにくるっと回ってひっくり返ったのだが、竹でできた柄の部分が、お風呂場の窓に直撃してしまったのだ。窓ガラスは『カシャン!』という、意外に軽い音を立てて割れてしまった。
「オーマイガー!」
「わわ! ま、まずいよぉお!!」
割れたガラスはお風呂場の中に飛び散っていた。これは大惨事である。今日じゅうに修復するのはきっと無理だろう。
「というわけで、今日は皆でスーパー銭湯に行くデース!!」
朝の会が始まる前の教室では、児童生徒たちが運動会について真面目に話し合っていたのだが、教室に飛び込んで来たキャロリンの一言が、その空気をぶち破った。
「それは、どういうことじゃ、キャロリン」
高校生の千夜子が珍しく笑いながらそう尋ねた。あまりにも唐突だったので可笑しかったのだ。
「桃香の家のお風呂の窓がパリーンデース・・・。私のせいデース」
キャロリンはガックリと肩を落とした。
「それなら、初瀬屋のお風呂を借りたらいいんじゃないの?」
車椅子のルネがそう提案すると、月美も「もちろんうちのお風呂使っていいですのよ」と答えた。
しかしキャロリンは首を横に振り、教壇に手をついた。
「ノー! 皆でお風呂にいけるチャンスは滅多に来ないデース! それに、千夜子はもうすぐ大学生になっちゃうデスから、卒業前に思い出を作りたいデース」
「いや、私はまだ高2だから、来年もここにいるぞ・・・」
「とにかく、皆で一緒にいくデース!」
キャロリンの勢いはもう誰にも止められないようである。
スーパー銭湯のような大型の施設は当然鹿野里にはないので、笠馬の市街地に行くことになるから、今日は遠足のような大イベントになるのだ。
銭湯の話がまとまってきたところで、美菜先生が教室に入ってきた。
「はーい、皆おはよう~。話し合い終わった~?」
すると生徒たちは目を輝かせて立ち上がった。
「先生! 車使わせて下さーい!!」
「え・・・運動会で・・・車?」
先生はキョトンとした。
今日は中学生高校生組も含めて5時限終わりという奇跡の曜日だったため、すぐに準備すれば明るいうちから笠馬に行くことができるだろう。生徒たちはサプライズイベントにわくわくしていた。
一人を除いて。
(うううううう!! な、なんで私が皆とお風呂行かなきゃいけませんのよぉおお!!!)
1時間目、体育の授業でグランドに出た月美は、人知れず焦っていた。
月美はハイパー硬派なお嬢様なので、そもそも誰かと一緒に入浴することなどないのだ。自分の裸を誰かに見せるなんて、想像しただけで顔から火が出そうである。
(し、しかも、百合さんも一緒ですのよね・・・!)
月美は、走り幅跳びのスタート地点に立つ百合の姿をじっと見つめた。
百合はポニーテールを揺らして走り出し、白線から軽やかに跳び出して宙を舞って、流れるように砂場に着地した。その様子はまるで、秋の森で落ち葉と戯れるキタキツネの子供のようであり、可愛らしさと美しさを併せ持っていた。
(うう・・・)
月美は、百合と交わしたある約束を覚えている。
『いつか、一緒にお風呂入ろうね♪』
数か月前の約束であるが、この約束が近頃の月美のハートをぐるぐる巻きに縛りあげている。あの約束は二人が恋人同士になる前のものだったので、単なるお友達イベントのはずだったのだが、今となったら超ラブラブイベントである。百合のほうからこの話題を切り出してこない限り、月美は約束を忘れたフリをしようと思っていたのだ。
「月美ちゃん♪」
「ひ!」
体育が終わると、百合が月美のもとへやってきた。
「体力余ってるし、片付けは私たちでしようよ!」
「か、片付けは・・・まあ、はい。いいですけど・・・」
百合と月美は、赤いパイロンや巻き尺を持って体育倉庫に向かった。
田舎の学校の体育倉庫は、いつでも床がザラザラと砂っぽく、山小屋みたいな木の香りがする。意外と風通しはいいので、じめじめしたホコリの匂いはせず、森の中の秘密基地のような様相だ。
「ねえ! 今日のお風呂屋さんの件、どうする?」
「え!」
倉庫に入ったとたん、百合が振り向いてそう尋ねた。
「ど、どうって・・・私は・・・」
「もしかして、行かないつもりぃ?」
百合は笑いながら月美の横顔を覗き込んだ。
「だ、だって・・・皆さんと一緒に、お、お風呂なんて・・・」
「恥ずかしい?」
「は、恥ずかしいとかじゃないです!!!」
月美の慌てぶりが可愛くて、百合はくすくす笑った。
「じゃあ、一緒に行ってくれるの?」
「え・・・」
月美は体操服の襟のあたりを手でいじりながらしばらくもじもじした。
学校裏の山林でこだまする野鳥たちの声が、二人の秋のひと時を優しく満たしていく。
「行きます・・・」
「ほんと!?」
「だ、だって・・・や、約束・・・してますし・・・」
月美のその言葉に、百合は目を輝かせた。
「覚えててくれたんだ! 一緒にお風呂の約束!」
「と、当然です・・・! あんな面倒な約束・・・忘れるほうが難しいですわ・・・」
「ありがと♪ でもあの約束って、二人きりでお風呂に入ることなんだけどね」
「え!!!」
「それは・・・また今度♪」
「むぅ・・・」
月美はうつむいたまま顔を真っ赤にし、ちょっぴり怒ったように頬を膨らませている。
そんな横顔を見て、百合は月美の耳のあたりに、またチュッとキスをしてしまいたくなったが、誰かが来るかも知れないのでやめておいた。身も心も透明感がある月美お嬢様を見つめているだけで、百合はとっても幸せだ。
「あんまり私のこと見ないって・・・約束してくれます?」
「え? 今?」
「じゃ、じゃなくて、今日の夜・・・」
「あ! 銭湯でってこと?」
「はい・・・」
「うん♪ 分かった。じゃあ、天井とか、お湯とか、床とか見とくね♪」
「・・・ほ、本当に分かってくれてますの?」
「うん!」
月美は本当に恥ずかしがり屋なのである。百合は恋人として、月美のプライドを上手い事守りながらラブラブしていく必要があるのだ。攻めすぎは良くないということである。
「それじゃあ、教室戻ろうか。着替えないといけないし」
休み時間は15分あるが、着替えの時間を含めると割と忙しいのである。次の授業は音楽だ。
片づけ忘れたものがないか体育倉庫を見回して確認した百合は、月美に「行こう」と言って出口に歩き出した。
しかし、そんな百合の手を、飛びつくように掴んだ温かい手があった。
「え、どうしたの・・・?」
月美はうつむいたまま、百合を引き留めたのだ。これには百合も動揺してしまった。
実は月美、「一緒にお風呂なんていやです」とか「見ないで下さい」とか色々言っておきながら、二人だけでおしゃべりできるこの時間を、とっても愛おしく、幸せに感じていたのだ。だからそれがこんなにも早く終わってしまうのが、惜しかったのである。無意識に百合の手を掴んでしまった自分に、月美は驚きを隠せず、ますます顔を赤くしてしまった。
このように、百合よりも月美のほうがむしろ積極的なのではないか、と思わせるシチュエーションがあるが、これは、月美が本当は甘えん坊なお嬢様である証かもしれない。
百合は一瞬、どうしていいか分からず、恥ずかしくなってしまったが、辺りに誰もいない事実に背中を押され、一歩月美に歩み寄った。
(ど、どうしようかなぁ・・・)
正面からぎゅっと抱きしめてみたいが、そんな勇気が出ない。
なので、以前やったことがあるコミュニケーションをもう一度図ることにした。
百合は、お互いの胸がちょっぴり、ふわっと当たるくらいまで、月美の頬に唇を寄せた。月美は後ろに下がることもなく、むしろこうして欲しかったかのように、ほんの少し首を回し、頬や耳を百合に差し出してくれた。
そして百合は、月美のほっぺにチュッとキスをした。
「あっ・・・」
月美は今回も、可愛く体を震わせた。
百合はもっともっと月美にチュウをしたくて、優しく何度も唇を押し当てた。触れ合う胸から、お互いの心臓の鼓動が伝わりそうである。
「うっ・・・」
「あ・・・ごめん、耳はくすぐったい?」
月美は百合の襟の辺りに唇を押し当てながら、首を横に小さく振った。実は、月美は耳がちょっぴり敏感なのである。
その様子がとっても可愛くて、百合は思わず、月美をぎゅ~と優しく抱きしめてしまった。
「はぁぅ・・・」
抱きしめられた浮き輪から空気が洩れるように、月美が吐息を洩らした。
百合も月美と同じくらいドキドキしてしまった。手や足が震えそうなくらい緊張しているが、お互いの柔らか~い感触と素肌の温もりが最高に心地よくて、うっとりしてしまった。髪の甘~い香りも鼻先で感じられてとても幸せで、月美も、百合の背中に回した腕にきゅ~っと力を入れてしまった。
離れたくない。
ずーっと、このまま、ぎゅ~~っと抱きしめ合っていたい。
二人の全身に、そんなとろけるような甘~い願いが満ちていった。
秋の片隅にひっそりと咲いた恋人たちの時間は、ミルクチョコレートみたいにスイートだったのである。
やがて、校舎のほうから、ドレミだけで演奏できるチャルメラの音色が聞こえてきた。あのひょうきんな音色は、綺麗子が音楽の授業の前にリコーダーでよく奏でるメロディである。
「あ・・・!」
「もういかないと!」
百合と月美は、慌てて体操服を整え、体育倉庫を飛び出したのである。二人はとっても恥ずかしくって、駆け出した足が少しもつれてしまった。
火照った頬に当たる風は、ひんやりとしていてとても心地よく、昇降口で靴を履き替える頃の二人は、いたずらが上手くいった時の子供たちみたいに無邪気に笑っていた。