112、鹿舞と浴衣
鹿野里が、かつてない活気と熱気に包まれている。
祭囃子が弾む神社への参道には、女子高生たちの華やかな浴衣姿がひしめき合い、初瀬屋や桃園商店の周りにも、賑わいが溢れていた。
今日の蝉は、滝つぼの水しぶきのような威勢で鳴き声を上げ、里の夏を燃え上がらせた。夏の終わりの侘しさなど微塵も感じさせない、胸躍る情景である。
「月美ちゃん! 準備できた!?」
アヤギメ神社のすぐ裏手にある千夜子の住宅が、百合と月美の控え室となっている。
「わ、私は、まあ、準備できてますわよ・・・」
「緊張するねぇ」
「こんなにたくさん人が来るなんて思ってませんでしたわ・・・」
エアコンが効いた畳の部屋で、二人は外の賑わいに胸を高鳴らせていた。
花菱女学園の生徒さんが、数百人訪れたことにも驚きだが、笠馬の地域新聞のお姉さんたちの呼びかけで、さらに人が増えているのだ。「余ったら冷凍すればいいわ♪」というローザさんの知恵により、出店の食品はかなり多めに用意されていたのだが、13時あたりでほぼ尽きてしまい、急遽桃園商店の食品をいろいろと仕入れることになった。なので、今の屋台は特定の食べ物ではなく「鉄板で焼いた食べ物盛り合わせ300円!」みたいな売り方になっている。
「鹿舞、皆さんに楽しんでもらえるかしら・・・」
「大丈夫だよ、すっごく可愛いもん、これ♪」
百合たちは獅子舞ではなく鹿舞をやることになったわけだが、見た目だけでなく、お囃子に合わせた踊りも完全オリジナルであり、ちょこまかと動き回りながら、粘土と和紙でできた鹿の頭がお客さんのおでこ辺りにキスしていくことになっているのだ。
「私に鹿の頭が上手く動かせるかしら」
「大丈夫だよ♪ 練習すごくいい感じだったもん」
獅子舞は本来、アゴが動くので、観衆の頭をパクパクと噛みにいくわけである。そして獅子に噛んでもらえたらご利益がある、という風変わりなシステムなのだ。しかし、百合たちが作った鹿の頭はアゴが動かないので、仕方がないからチュッとするだけになったわけである。鹿の神様から祝福を貰えるという、それっぽい設定を後付けしたのだ。
「鹿舞が終わったら、その後は浴衣で自由時間だね~。早く着替えたいね」
「べ、別に・・・」
百合たちはまだ、動きやすい普段着のままだ。鹿舞が終わったら、キャロリンのママが仕立ててくれた浴衣に着替えるのだ。
二人が畳の上で準備体操をしていると、朱色の袴姿の千夜子さんが縁側を歩いてきて、障子をスッと開けた。千夜子は高校三年生なので背が高いから、巫女さんの格好をして歩いているとかなり目立つし、とてもカッコイイ。
「百合、月美、いよいよ出番じゃ」
「えっ!」
「まもなく銀花さんの演奏で、その後が鹿舞じゃ。もう外へ行くぞ」
「は、はい!」
百合たちは緊張で胸の底がひやっとするのを感じたが、もう覚悟を決めるしかない。わずかに軋む縁側を、月美と並んで歩きながら、百合は深呼吸をした。
神社の境内には大勢が集まっており、次の出し物への期待を膨らませている。
ちなみに、鹿舞の前は、初瀬屋の女将、銀花による楽器の演奏だ。
銀花は小学一年生のアテナにピアノを教えているのだが、神社にピアノは持って来られないので、代わりにカリンバという小さな楽器を演奏してくれた。全然和風の楽器ではないのだが、音を響かせる小さな木箱に固定された細い金属のバーを指先で弾いて音を出す楽器で、オルゴールのような可愛い音がするから、高校生たちはウットリした。
本殿の裏手へ出てきた百合は、月美と一緒に鹿舞の衣装を頭から被った。二人で一緒に布を被り、そこから可愛い鹿の顔がドーンと出ている感じである。百合は後ろ側を担当しており、鹿の頭は月美が右手を使って動かすのだ。
(わぁ・・・綺麗な音色だなぁ・・・)
この時、百合はなぜか、銀花が演奏するカリンバの音色に聞き覚えがあるような気がした。
遠い遠い島の港町の夕方に、どこかの窓からこの優しい音色がポロンポロンと聞こえてくる、そんな情景を、記憶の彼方に垣間見た気がしたのだ。
(そ、そんなことより、鹿舞のことに集中しなきゃ!)
百合は気合を入れ直し、目の前の月美の背中をじっと見つめた。月美の綺麗な髪が一つに束ねられており、薄暗闇の中でも、そのつややかな輝きが見えた。ちょっぴりシャンプーの香りがする。
(すごく・・・近いなぁ・・・)
百合は月美と二人きりの狭い空間に、胸がトクントクンと揺れるのを感じた。
『初瀬屋の女将、初瀬銀花さんによる演奏でしたー! 皆様盛大なる拍手をお願いしまーす!!』
綺麗子のアナウンスが聞こえてくる。彼女はマイクを持つと、いつも以上におしゃべりになるようで、花菱のお姉さんたちと軽快に掛け合いをしながらお祭りを盛り上げ、進行している。小学5年生とは思えない度胸と才能だ。
『そして次は、鹿野里のオリジナル芸能、鹿舞です!! 演じてくれるのは鹿野里校の超クールお嬢様月美ちゃんと、鹿野里一年目にしてすっかりこの地に馴染んでいる百合ちゃんの二人でーす! どうぞー!!』
マイクを置いた綺麗子が威勢よく和太鼓を打ち鳴らした。祭囃子はスピーカーから流すだけのものだが、和太鼓は本物なので、迫力だけは抜群である。
「い、いきますわよっ」
「うん!」
百合と月美は、慣れない下駄をカランカランと鳴らしながら石畳を進み、境内に集まった観衆の輪の中に入っていった。
「キャー! 可愛いいい!!」
「ホントに鹿だぁ~♪」
「こっち見て~!!」
深い緑色の風呂敷を被っているが、布地がやや薄いので、百合と月美は外の様子がほんのり見えているのだ。高校生のお姉さんたちが手を振ったり、写真を撮ったり、笑いながら逃げたりしている。
「ク~ン! ク~ン!」
鳴き声を担当している百合が、鹿っぽい声を上げると、月美はすかさず、近くにいる高校生のお姉さんたちの頭に鹿の顔を近づけ、チュッとしていった。距離感がいまいち分からないので、思い切り頭に衝突させてしまうこともあったが、その度に笑いが湧き起こったので百合たちはホッとした。
ちなみに、一番ウケたのは、和太鼓を打つ綺麗子に背後から歩み寄り、肩の辺りにトントンと触れ、彼女が振り向いた瞬間に鹿がそっぽを向いた時である。これは、幼い頃から人形遊びが好きな百合が、事前に月美に提案していた動きである。
(あら、よく見えませんでしたけど、上手くいきましたわね・・・。盛り上がってますわ)
月美も意外と人形の操作が上手いのかも知れない。
二人はこの調子で、鹿舞を続けていった。石段の辺りにいた生徒たちや、山からの風景を撮影していた新聞記者さんたちも、続々と境内に集まってきた。
さて、このまま終わったら、ただの愉快な夏の行事である。
乙女たちの青春には大抵、キュンとなるトラブルが起こるのだ。
百合たちは、平らで安全な石畳から外へは出ないようにしよう、と事前に決めて練習していたのだが、周囲に人だかりができていると、いつもと景色が違うし、はしゃいだ観衆たちの最前列は打ち寄せる小波のように前後にかなり動くので、徐々に自分たちの居場所が分からなくなっていったのだ。二人の鹿舞は、いつのまにか、足元がデコボコした砂地のほうへ出ていた。
(あ、これ、戻ったほうがいいですわね・・・)
月美は高校生のお姉さんたちのキャーキャーという歓声の中でも、冷静にそう判断した。
月美は布を透かして太陽の向きを頼りに方向転換し、石畳のほうへ戻ろうとしたのである。
しかし、ここでちょっと、後ろ側の百合の足がもつれてしまった。
百合は、月美が石畳のほうへ戻ろうとしていることは分かったのだが、進む向きが噛み合わず、転んでしまったのだ。慣れない下駄のせいでもある。
「あっ」
「あ、ごめんっ」
ちょっとつまずいただけなので、怪我はしなかったが、問題は、百合がぴったりと月美の背中にくっつき、抱き着くような形になってしまったことである。
(あ・・・)
これは、二人にとって、とても不思議な時間だった。
ほんの2、3秒のことだったはずのに、時の流れが止まったような、不思議な時空に飛び込んだのである。
まず百合は、地面に着くはずだった自分の両手が、月美の腰の辺りに回っている事実に大層焦ったわけだが、腰や背中の温もりがあまりにも心地よくて、飛び退こうという気が全く起きなかった。磁石のようにくっついて、体が動かなくなったのだ。
(つ、月美ちゃん・・・)
転んでしまったから早く起き上がろう、という意識が頭からすっかり消えてしまった百合は、月美の肩の辺りにそっと頬を寄せてしまった。
一方の月美も、もたれ掛かってくる百合の感触に、激しく動揺した。
(ゆ、百合さんがああああ! く、くっついてますわぁああ!!!)
百合のすべすべの太ももが腰の辺りをきゅっと抱き、細い腕が月美のお腹のほうに回っていて、百合の優しい胸の感触が、月美の背中にポヨンと密着していた。
(あ、あれ!? 百合さんなかなか離れないですわ・・・! 離れないですわああああ!!!)
ほんの一瞬だったはずなのに、月美は色んなことを感じ、心の中で叫んでいたのだった。
「あれ、大丈夫?」
「転んじゃった?」
周りのお姉さんたちは、笑いながらも心配して駆け寄ってきてくれた。我に返ったように、ここで百合は月美の背中から離れ、やがて鹿舞はのっそりと立ち上がったのである。
(月美ちゃん・・・今の、どう思ったのかな・・・ドキドキしたの、私だけかな・・・)
何事もなかったように鹿舞を続ける月美の背中を、百合は少し、寂しい気持ちで見つめてしまった。
相手は誰ともスキンシップをとらない硬派なお嬢様であるから、恋愛的なドキドキこそ感じていないが、友人としてのドキドキくらいは感じたかもしれない、百合はそう思うことにした。
こうして、鹿舞は大盛況で終わった。
本殿の裏へ戻ると、そこにはいつもの小鹿がおり、青い小鳥や白ウサギと一緒に鹿舞に寄ってきた。「それ、なかなかいいじゃん。まあ、作り物だってことはお見通しだけどね」みたいな生意気そうな顔をしていたが、百合が頭を撫でてあげると嬉しそうにしっぽを振った。可愛い子たちである。
ここからの百合と月美は、一般の観光客と同じように、お祭りを楽しんでいいことになっているのだが、その前にひとつ、やることがあった。
「百合! 月美! お疲れデース!」
パイナップルのような鮮やかな黄色の浴衣に身を包んだキャロリンが、千夜子の家の客間に先回りしてくれていた。神社の祭囃子が絶えず聞こえてくるので、早くお祭りに行きたい気分になるが、まずは浴衣に着替えなくてはならないのだ。
「着付けは銀花さんと美菜先生がやってくれるデース!」
「え? 美菜さんもですか?」
「は~い! 私着付けできるよー!」
美菜先生はポンコツだが、意外な特技をいくつか持っており、着付けもそのひとつだ。
百合と月美は、洛中洛外図みたいな立派な絵が描かれた衝立を挟み、それぞれ着替え始めた。百合の着付けをしてくれたのは美菜先生だった。
「ほら! 百合ちゃんの浴衣ぁ~♪」
「わぁ!」
「可愛いね~!」
「可愛いですねぇ!」
キャロリンとキャロリンのママのセンスにより、百合の浴衣は、白い百合の花が大胆に描かれた、薄ピンク色のものが選ばれていた。帯は花の色に合わせた優しいホワイトである。
「ねえ、月美ちゃん」
「な、なんですの」
「月美ちゃんはどんな浴衣ぁ?」
衝立の向こうに向かって、百合はそう声を掛けたが、月美は照れているのか「それは・・・まあ、すぐ分かりますわよ・・・」みたいなことをゴニョゴニョ言っているだけだ。
浴衣の着付けは、本格的にやればかなり時間が掛かるものなのだが、子供用の浴衣だからいくらか簡略化されていた。それでも、百合が見たことない帯のようなものが3種類もあり、百合の腰は幾重にも巻かれることとなった。
(これが浴衣かぁ~。なんか、気持ちが引き締まる感じ)
浴衣というのはリラックスできるはずの着物なのだが、不思議と気合が入った。
すると、本殿のほうで出店の手伝いをしていた巫女さんの千夜子が、小走りで縁側を走ってきた。
「銀花さん、美菜先生。花菱の子たちが、何かお話があるようです」
「あら、何かしらね」
「何かお手伝いできることはありませんか、というような事を言ってくれていました」
「それは助かるわ。今いく」
銀花は「少し待っていて」と月美たちに言い残し、美菜先生と一緒に外へ行ってしまった。蝉の声と太鼓の響きだけが、百合たちの部屋に残った。
百合はそーっと衝立に忍び寄り、月美に声を掛けてみた。
「月美ちゃん♪」
「な、なんですの・・・」
改めて聞いてみると、月美ちゃんの声はとっても綺麗だなと百合は思った。先程銀花さんが演奏していたカリンバの音色みたいに可憐である。
「ねえ、もう浴衣着てる?」
「まだ、最後の帯を巻いていませんわ」
「見てもいい?」
「ダメです・・・」
「じゃあ、見るね♪」
百合は衝立の端から顔を出した。
「わぁ・・・」
月美は、深い紫色の浴衣に身を包み、百合に背を向けたまま恥ずかしそうに俯いていた。
「・・・可愛いね♪」
月美は返事をせず、鏡に向かったまま、自分の爪などを見ていた。
障子を透けて畳に降りてくる静かな太陽が、二人の時間を優しく見守っている。庭園に茂る木の葉の陰が、月美の浴衣に咲いたアサガオの模様の上で揺れる様子が、ちょっぴり幻想的だった。
百合はここで、運命に背中を押されるような、青春に急かされるような、不思議な気分になった。
今すぐにでも「さっき転んじゃった時、私ドキドキしちゃった♪」とか、「月美ちゃんも、ちょっとはドキドキしてた? 恋愛とかじゃなくて、友達としてのドキドキだけど」というようなことを伝えたいと思ったのだ。
しかし「恋愛」とか「友達として」というワードが妙に百合の体温を上げてしまい、一連のセリフが全くに口から出なかったのだ。
チャンスには恵まれるのに、それを全く活かせない、それが青春を生きる乙女の大きな特徴の一つと言えるかもしれない。
(月美ちゃんにとって、さっきの瞬間って、大したことなかったのかな・・・。いや、たぶんドキドキはしてくれたはずだよね・・・)
ただの偶然、で先程の出来事が片づけられてしまうことに、百合は切なさを感じた。
数か月に一回、偶然転んで後ろから抱き着くだけ、そんな関係では、寂しすぎると思ったのだ。
後ろから優しく抱き着くくらい、まあオッケーだよね、と言えるような関係に進展したい・・・そんな願いが、百合の胸を締め付けた。
(私・・・)
百合は、勇気を出すことにした。
(私もっと・・・)
百合は、月美との絆を信じているのだ。
(もっと月美ちゃんと、仲良くなりたい・・・!)
ずーっと前から結ばれているような気がする、二人の絆を。
銀花さんと美菜先生が戻ってきそうな気配を縁側から感じた百合は、急いで月美に駆け寄り、先程鹿舞の中でやったように、後ろから抱き着いたのである。
「えっ・・・!」
衝撃の展開に月美は言葉を失い、飼い主に抱きしめられた子猫のようにじっとしてしまった。
百合は、ついさっき感じた月美の感触が、夢ではなかったことを確認するように、再びお互いの温もりを共有したのだ。
「さっきはごめんね・・・転んじゃって♪」
「べ、べべ、別に・・・!!」
「私・・・さっきドキドキしたよ。今も・・・ドキドキしてる」
珍しく少し声が震える百合は、月美の肩に唇を寄せた。
「・・・つ、月美ちゃんは?」
「う・・・!」
返事はなかった。
が、月美がかなり焦っている様子を見て、百合はちょっと安心した。やはり、二人とも、同じような気持ちだったのだ。
「たまにはさ、こういうのも・・・いいね♪」
「い、いや・・・その・・・」
「・・・時々、これやろうね♪」
「え、う・・・」
「・・・いい?」
「いや・・・その・・・!」
「・・・ダメ?」
やはりハッキリとは返事してくれなかったが、月美の綺麗な横顔が、火照ったように可愛い桃色に染まったから、百合はもう満足だった。
銀花さんたちが帰ってくるより先に、百合は衝立の向こうへ退散することにした。
自分の場所に戻った百合は、緊張とドキドキのせいで手のひらに汗をかいていることに気付いた。
(わわ、私、凄い事しちゃったかもー・・・!!)
月美お嬢様の体の感触が、しっかりと腕の中に残っていた。
百合は、自分の心臓がウサギのようにぴょんぴょん飛び跳ねて、上半身がふわっと浮いているような感覚になった。
「おまたせ~♪ じゃあ、帯やってくねぇ」
「は、はいっ!」
何も知らない美菜先生に浴衣を整えられながら、百合は自分の胸の底から湧き上がる喜びで、全身がじんわり熱くなった。勇気を出し、二人の関係を大きく一歩進展させた達成感は、百合が今まで感じたことがないくらい大きかった。
綺麗子の和太鼓の音がますますその勢いを増す頃、二人は浴衣に着替え終えた。
そう、二人の夏はこれで終わりではないのだ。むしろ、今から始まるのである。
「じゃあ、月美ちゃん! 行こうっ」
「は、はい・・・」
「一緒に、あっちこっち回ろうね!」
「えぇ・・・まあ、いいですけど」
「行こうー!」
石畳に響く初々しい二人の下駄の音が、蝉しぐれと祭囃子の中へ駆けていった。