110、白馬山
キャロリンの家の庭のヒマワリが、太陽のように輝いている。
しかし、インターフォンを押されて家から出てきたキャロリンは、しょんぼりしていた。
「百合ぃ、月美ぃ。見ての通りデース・・・。私の自転車はぶっ壊れてマシタァ・・・」
「え!?」
百合と月美は、キャロリンと一緒にサイクリングに行く約束をしていたので、学校や診療所がある山を自転車に乗って越えて、キャロリンの家に来たのだが、どうやら大問題が起きたようだ。
「ほら、チェーンが外れて、とんでもないことになってマース・・・」
「直せませんの?」
「ここが曲がっちゃってるデース」
「あら、まあ・・・」
今朝になってキャロリンは、自分の自転車が壊れていることに気付いたのだ。10年近く使っている自転車なので、あちこちが不調だったのだが、最近、風で倒れた拍子にこんな事になってしまったようだ。今日はお出かけできそうにない。
「じゃあ、サイクリングはまた今度にしよう」
「ノー! 私に構わず行ってくだサーイ・・・」
「え、でも・・・」
「二人とも、今日のためにバッチリ準備してきてるデース・・・」
キャロリンが言うように、百合と月美はサイクリングのために色々と準備してきており、タイヤに空気をしっかり入れ、水筒も持参し、準備体操までしてきていた。
「じゃあ、歩いて行きます?」
「歩いていったら夕方になっちゃうデース。二人だけで出発して下サーイ」
「でも・・・」
「これを私だと思って、持っていってくだサーイ!」
キャロリンは、レジャーシートや双眼鏡が入ったナップサックを貸してくれた。これをキャロリンだと思っていいらしい。
「そっかぁ。じゃあ、月美ちゃん! 二人だけで行ってみようか!」
「え、そう、ですわね・・・まあ、どうしましょう」
月美は非常に焦っているのだが、百合の目はむしろ輝いていた。
(月美ちゃんと二人きりだ・・・!)
これは滅多にないチャンスである。百合はキャロリンには申し訳ないと思いながらも、キャロリンの気が変わらないうちに、早く二人で出発したい気分になった。
(ゆ、百合さんと二人きりは困りますわぁー!!)
月美お嬢様は、百合とは真逆の感覚でドキドキしていた。クールさを保ったまま、百合と二人で遊びにいくのは難易度が高すぎるのだ。
「じゃあ、気を付けて行ってきてくだサーイ!」
「はーい!」
「え、ええ! 本当に二人で行きますの!? も、桃香さんとか誘いませんの!?」
「桃香はおばあちゃん家に行っちゃってマース!」
桃香だけでなく、鹿野里の子供たちのほとんどが、お盆休みを利用して親戚の家に帰省しており、サイクリングのお供は望めない。
「それじゃ、行ってらっしゃいデース!」
「行ってきまーす!」
「えぇ・・・!」
自転車にまたがった百合は、月美が自転車に乗るのを待ったあと、ベルをチリンチリンと鳴らして出発した。
さて、今日の目的地は、記者の花子さんがオススメしていた白馬山だ。
先日、百合が白馬山のことを月美に尋ねたら、「山からの景色は最高ですのよ」とか、「そこまでの道のりがとても美しいんですの」みたいな話をするので、百合はどうしても行ってみたくなり、サイクリングを提案したのだ。
月美は、案内役としてキャロリンを誘うことを条件に、サイクリングに参加してくれることになった。ちなみに、白馬山は大した高さの山ではないのだが、やや遠いので、自転車は必須であり、百合は銀花さんが普段使っている自転車を借りることにした。
「月美ちゃん! こっちでいいんだよね!」
「は、はい。そうですわよ」
白馬山は、鹿野里の北東部にある。
まず、キャロリンの家の前を通り過ぎ、そのまま進んで行くのだが、百合にとってはもう、ここから先が新天地なのだ。
緑のトンネルになった美しい下り坂が、光に向かって続いており、夏の森の香りと蝉の声でいっぱいに満たされている。その中を、百合たちの自転車がツバメのように軽やかに走り抜けていくのだ。
木々のトンネルを出ると、八月の熱気が二人を包み込んだ。
「おー、眩しいー!」
「帽子しっかり被って下さいね」
「うん!」
左手に山林が続いたまま、右側に広い畑が現れた。子供の背丈ほどの植物が、支柱に沿って整然と立ち並んでおり、トマトのような鮮やかな色をした可愛い野菜がたくさん実をつけているのが見えた。これも三日月野菜である。
「こんなところにも畑があったんだぁ・・・!」
百合は目を輝かせてあちこちを見回し、自転車を漕ぎ続けた。月美はそんな百合のことを見守るように、少し後ろからついていったのだ。
再び道の両側が森に覆われると、風が少し涼しくなった。
「あ! 月美ちゃん! 橋があるよ! 川かな!?」
木々の陰が途切れた日差しの中に、小さな橋が現れ、その下を爽やかな水のせせらぎがくぐっているのが見えた。百合は自転車を止め、橋の3メートルほど下を流れる川を見下ろした。森の中にあるこういう小さな川は、沢と呼ばれることが多い。
「百合さんったら、ただの橋に興奮しすぎですわ・・・」
月美は少し恥ずかしそうに、百合の隣にやってきた。
「ホタルとか、いるかな!?」
「んー、いるかも知れませんけど、昼間のホタルは寝てますのよ」
「へー! 寝てる時も光ってるの!?」
「いや・・・光ってないと思いますわ。葉っぱの裏とかで静かに寝てますのよ」
「そっか、自分のおしりが光ってたら眩しくて眠れないもんね」
月美は思わず笑ってしまいそうになったが、ギリギリでクールな表情を保った。
百合は、そんな月美の横顔をそっと見つめていた。しっとりした沢の風が、月美の髪をふわっと揺らし、夏の木漏れ日に透けて金色に輝いている。
(月美ちゃんと二人きりだなぁ・・・)
百合は、胸のドキドキに合わせて、自分の頬が熱くなるのを感じた。
月美ちゃんの人生はこれまでに12年近くあり、明日からもずっと続いていくわけだが、今日だけは百合が独り占めしていると思うと、たまらなく嬉しかったのだ。二人で共有する全ての瞬間が宝物のように感じられた。
二人はしばらくの間、せせらぎと蝉の声に耳を預け、森の奥に差す光の帯などをぼんやり見つめた。
「百合さん、ここよりも、もっと大きな橋がありますわよ」
「え! そうなのっ?」
「はい。白馬山の少し手前に。・・・もう、しゅ、出発します?」
「する~」
「じゃあ・・・はい。行きましょう」
「うん!」
百合は月美がペダルを漕ぎだすのを待ってから、自分も出発した。強い日差しや激しい暑さも、二人一緒なら平気である。
「月美ちゃん!! 上り坂だよ! ここが白馬山?」
「いいえ、まだまだ先ですわ」
森を抜けると、斜面の段々畑の間を走る、曲がりくねった山道に入っていった。
段々畑の下には、体育館3つ分くらいの広さの水田があり、青々とした葉を風に揺らしていた。さらに遠くに目をやると、針葉樹が並ぶ山林があり、涼し気な深い陰で水田を縁取っていた。ここはまだ白馬山ではないようだが、百合はここが結構気に入った。
「この辺りの水田もさ、三日月野菜なの?」
「そうですわよ。お米じゃないです」
「へ~。ここも、住所は鹿野里なの?」
「はい。今から行く白馬山も一応鹿野里ですのよ」
「そうなんだぁ~」
鹿野里は意外と広いのである。
「あら、車がありますわ。誰かいるかも知れませんわね」
「え?」
坂を上り終え、両側に畑が広がる丘の道に差し掛かると、古いバス停のような小屋のそばに、農作業用の軽自動車が停まっていた。
「あれは、柳生先生と千夜子さんですわっ」
「おー!」
侍みたいな先生と、神社の巫女さんだ。
千夜子は高校生なので、大人と一緒に三日月野菜づくりを手伝うことが多いのだ。
ちなみに教員は副業をしてはいけないと思われがちだが、色々と条件をクリアすれば許可されるらしく、柳生先生は教員と農家を兼業している。
「百合さん月美さん、珍しいところでお会いしましたね」
「こんにちは柳生先生!」
先生は古びた手ぬぐいと麦わら帽子を頭に被っていたが、キリッとした目や綺麗な鼻筋はそのままなので、農家の役を演じている女優さんみたいだなと百合は思った。
「丁度いいところに来たのう! そこの井戸端にあるフルーツ、つまみ食いしていってよいぞ」
「ホントですか千夜子さん!」
「よく冷えていてうまいぞ」
「ありがとうございまーす!」
千夜子はいつも眠そうな目をしているが、鹿野里で一番のしっかり者である。今も、百合たちとおしゃべりをしながら、園芸用のハサミを使って、三日月野菜の余分な枝を手際よく切り落としていた。
二人はお言葉に甘え、収穫したばかりの三日月フルーツをちょっと食べさせてもらうことにした。
木陰のたらいの中にザルがあり、果物たちが掛け流しの井戸水を気持ち良さそうに浴びていた。水に手を突っ込むと、とっても気持ち良い。
「これ、なんていう果物だろう!?」
「黄色いやつは確か・・・思い出せませんけど、にょろんす何たら、って名前ですわ」
「にょ、にょろんす!?」
「・・・三日月植物は変な名前が多いんですのよ・・・」
「へ~!」
百合はその『にょろんす何たら』を手に取った。
「じゃあこれ一個、頂きま~す」
桃にもレモンにも見える不思議なその果物を百合が一口かじると、冷たい果汁が彼女の口いっぱいに溢れだし、弾けるような甘酸っぱい風味が広がった。
「おいしー!!」
「とっても甘いですわねぇ」
暑さが厳しい真夏の屋外で冷たいフルーツを食べるのは最高である。
かじったフルーツの果肉が太陽でキラキラ光るのを見つめた時、百合の頭に不思議な言葉が浮かんできた。
「にょろんすぺもぺも・・・?」
百合のつぶやきを聞いた月美は、驚いて顔を上げた。
「そういえばその果物、そんな名前でしたわ!」
「え?」
「ど、どうしてその名前知ってますの?」
「分かんないけど・・・なんか急に頭に浮かんできたの。ずっと前に月美ちゃんが教えてくれたような気がする」
「そ、そうでしたっけ?」
「んー、分かんない♪ それよりさ、この井戸! ちょっと使ってみてもいいかな!?」
百合は本物の井戸のポンプを初めて見たので、水を出してみたくなったのだ。
「いいと思いますわよ。ここで手を洗っていきましょう」
「こ、これ、レバーを下げればいいの?」
「上げてから下げますのよ」
「あ、こうかな」
「はい」
「あれ、出てこないけど」
「何度もやりますのよ」
「そっか。お! なんか音がする! あ! 出てきたー!」
「あらまあ、井戸水を出すだけで大騒ぎしすぎですわ・・・」
「冷たーい!」
月美が「私がやってあげます」と言ってポンプレバーを上げ下げしてくれたので、百合は手だけじゃなく、顔もジャバジャバ洗うことが出来た。
(冷たくて気持ちいいー!)
百合は思い切って、うなじのほうにまで水を被ってみた。蝉の声が水の音と重なって、シャワーの音みたいに心地よく聞こえた。
「月美ちゃんもやってみなよ!」
「い、いや、私はいいですわ・・・」
「私がポンプやってあげるから♪」
「え、じゃあ・・・はい」
月美も顔を洗ってサッパリしたいと思っていたので、ちょっと嬉しかった。百合の前で水浸しになるのは恥ずかしかったので、首のほうまでは水浴びしなかったが、それでもかなりリフレッシュできた。
「はい、タオル♪」
「あ・・・どうも」
百合は月美にタオルを渡した後、まるでお風呂上りみたいな会話をしてしまった事に急に照れてしまって、意味もなく畑のほうへ駆け出した。
(ゆ、百合さん・・・? どうかしましたの・・・?)
このように、月美よりも百合のほうがドキドキして浮足立ってしまう場面がたまにある。
さて、先生たちと別れ、針葉樹林に沿った道を行くと、月美が言っていた通り、大きな橋が現れた。
橋の下はちょっとした谷になっており、清らかな河原が見えた。その川岸に生える竹林が、百合たちの真横に届くまで高く育っている。
「すごーい、なんか温泉地みたい!」
「お、温泉?」
「なんかね、温泉旅館に行った時とかにこういう景色見る!」
「ちょっとよく分かりませんけど・・・」
「それくらい凄いってこと! 行こう!」
この橋は5年くらい前に新しく造り直されたものなのだが、白くて滑らかなコンクリートが、鮮やかな山の緑に覆われており、日本庭園に飾られた白磁の花瓶のような、上品な調和を見せていた。
「わぁ、竹がいっぱい・・・!」
橋の先には竹林のトンネルがあり、百合は時代劇のワンシーンに飛び込んだようなワクワクを感じた。
京都の観光雑誌の裏表紙に、嵯峨野という地域の竹林の写真が大きく載っているのを百合は見たことがあるのだが、それによく似ていた。遥か頭上にまでそびえ立つ竹の葉たちが、日光を優しく遮っているので、道はキウイフルーツのようなフレッシュな緑色の光に包まれていた。
「この上り坂、もう白馬山の坂なんですのよ」
「え! じゃあここ、もう白馬山!?」
「そうですわよ。もう少し先にもっとちゃんとした斜面がありますわ」
「いよいよだねぇ!」
百合は張り切って自転車を漕いだ。
竹林の向こう側は、非常に大きな木々の間に小さな山桜や梅の木が点々と育っている不思議な斜面で、道は左右につづら折りになっていた。
「ここは坂が急なので自転車を押して行きましょう」
「うん!」
「もう少しですわよ」
「わかった! 頑張ろう!」
道の周りは小さな水平の土地があり、比較的細い木が茂っていたから、何十年か前はこの辺りも段々畑だったのかも知れないなと百合は思った。
「昔の人も、こうやってサイクリングしたのかなぁ」
「昔って、いつ頃ですの?」
「んー、奈良時代とか」
「今のところの奈良の遺跡から自転車は出て来てませんわよ」
月美は冗談に対する対応がいつも知的である。
つづら折りの坂を上りきると、その先はまだ上りの斜面だったのだが、百合にとってはかなり意外な光景だった。
「えー!! 広ーい!!」
「はい。広いんですの。美しいと思いません?」
「美しいー!」
まるで北海道の牧草地のように、20センチくらいの高さの草花が丘一面に広がっていたのだ。小さな黄色い花が、まるで銀河の星たちのように無数に咲いている。
「頂上はあそこですわ。一本だけ生えている、あの木の辺り」
「よし! 最後は自転車に乗っていこう!」
「しょうがないですわね、そうしましょう」
二人は牧草地を駆ける子馬のように、ペダルに目いっぱいの力を込めて、丘を登っていった。森から聞こえる蝉の声からぐんぐん遠ざかり、風の波と日差しのシャワーを浴びながら、入道雲の待つ夏の空に駆け上がっていったのだ。
百合と月美は、お互いの表情が気になって、相手の顔にちらちらと目をやったので、自転車を漕ぎながら、何度か目が合った。
「わぁ~! いい眺めー!」
二人を待っていたのは、遮るものの無い絶景だった。
白馬山の頂上付近の草原は、超巨大な掛布団のように滑らかに波打った地形で、ところどころにある木々のまとまりがチェスの駒のように美しく陰を落としていた。
その向こうに広がる麓の森や田園が、深い緑色と鮮やかな黄緑色を交互に織り重ねており、遠い空には伸びやかなトンビの鳴き声が響き渡っている。
「いいねぇ、ここ♪」
「いいですわねぇ」
二人はキャロリンの分身であるレジャーシートの上で仰向けに寝転がり、爽やかな木陰の下で一息ついた。
心地よい疲労感が、ふくらはぎの辺りをじんわりと包み、汗ばんだ額を涼しい風が吹き抜けた。
(このまま、ずーっとここにいたいなぁ・・・)
まるで地球と一体化しているような充実感を、月美と二人きりで味わっているのが嬉しくて、百合は胸がいっぱいになった。
百合は今、とてもリラックスしているはずなのに、胸の中にずっと虹が出ているような、不思議なドキドキも感じていた。
(なんで、ドキドキしてるんだろう・・・)
ここ数か月ずっと感じている疑問が、ここでふと百合の頭の中に湧いた。
(よく分からないけど、私・・・月美ちゃんとずっと一緒にいたいな・・・)
百合は寝返りを打って、月美の横顔を見ようとした。
それと同じタイミングで月美は、まるでデートみたいな状況になっていることに焦り、体を起こしてキャロリンのナップサックの中から双眼鏡を取り出した。そして双眼鏡を覗き、「あ、富士山が見えますわね」とか「太平洋はあの稜線の向こうのはずですわ」みたいな真面目なことを何度もつぶやいた。
百合は「へ~」と生返事をしながら、盗み見るように月美の顔を見上げていた。
(あっ・・・)
百合はここで、ちょっぴりドキッとする光景を目にしてしまった。
月美は、サイクリングにも関わらずズボンではなくワンピースを着ていたのだが、それが袖なしタイプのワンピースだったので、双眼鏡を覗いて軽く腕を上げた時に、わきの辺りから、胸が少し見えてしまったのだ。
全てが丸見えだったわけではないが、ふわっと優しく膨らんだ月美お嬢様の可愛いおっぱいの形が見えて、百合はびっくりしたのだ。普段あんなに警戒心が強いお嬢様が、不意に見せた無防備な姿に、百合はキュンとなってしまったのである。
百合はその綺麗なおっぱいを少しの間まじまじと見つめてしまった後、慌てて目を逸らし、寝返りを打って月美に背を向けた。
(な、なんで私・・・こんなにドキドキしてるんだろう・・・!!)
百合は身も心もキュンキュンと切なくなってしまって、陽だまりの子猫のように丸くなってしまった。
夏の青い空に浮かぶ入道雲を背景に、レモン色の小さな花が静かに揺れていた。