11、アテナと翼
もうすぐ夜明けである。
女学園島は日本列島の東側に位置するため、日の出の時刻が早く、まだ午前4時過ぎなのに、東の空がほんのり色づいてきた。
「ん~、今日はいい天気になりそうだ」
雲一つない瑠璃色の空には、まだ星々が輝いている。冴え渡る早朝の空気の中で、翼は大きく深呼吸をした。
「体育祭日和だろうね~!」
「そうね。昼間は多分、日焼けしちゃうわ」
爽やかな気分の翼の隣で、アテナは冷静に紫外線の心配をしている。
「いつも思うんだけど、アテナはちょっと日焼けを気にしすぎじゃないかなぁ・・・」
「私はビドゥの生徒会長よ。美しくあることに全力を尽くすことは義務なの。あなたみたいに、もっと自由に暮らしてみたいものね」
「あはは・・・」
色んな部活を器用に掛け持ちして毎日楽しんでいる翼に比べれば、生徒会の仕事に毎日追われているアテナは確かに不自由かも知れない。二人は、互いに信頼し合う仲良しのルームメイトなのだが、性格は正反対である。
アテナは持っていた懐中電灯のスイッチを切り、機馬車のロボット馬の背中をそっと撫でた。
「毎度の光景だけれど、壮観ね」
「そうだねぇ。これだけ沢山の機馬車が並ぶのは、イベントの時だけだ」
体育祭の会場はビドゥ学区ではなく、お隣のストラーシャ学区である。ビドゥの生徒たちは全員、朝から大移動しなければならないので、普段は車庫でホコリを被っている機馬車も総動員で学舎付近に集められたのだ。馬たちは昨日から海に向かってのんびりと立っており、ソーラーと風力を利用して発電中である。今も、馬たちの背中に立てられた布製の小型風車が、気持ちよさそうに風を受けて回っている。
「ちょっと早いけど、私たちはそろそろ行こうか」
翼は、客車のついていない単体の黒馬の風車を取り外し、手際よく畳むと、鞍の側面のケースに収め、慣れた様子で馬にまたがった。翼は演劇部の部長であるが、機馬部の部長でもある。
「本当に先に会場へ行って大丈夫なの?」
「大丈夫さ。みんなが使う機馬車は自動で進むし、私以外の機馬部のメンバーがちゃんと指導する手筈になっている」
「それなら、私たちは先に行きましょう」
今日は3学区合同の体育祭である。ビドゥ学区の生徒会長であるアテナは、早めに会場に行く必要があるのだ。
「それじゃあ、お手をお貸しください、お姫様」
「お姫様って・・・あなた何を言っているの」
アテナは極めて冷ややかな反応をしながら、翼に手を伸ばした。翼はアテナの体をひょいっと引き上げ、黒馬の後ろに乗せた。鞍はひんやりしていたが、翼が朝露を拭き取ってくれた後だったのでアテナのスカートが濡れることはなかった。機馬は後ろ足が大きな車輪になっているため、二人乗りした場合は後ろの席のほうが揺れが少なく、乗り心地がいい。
「それじゃあ、しっかり掴まっていて下さいね~」
「わかっているわ」
アテナは翼の体にそっと腕を回した。
二人を乗せたロボット馬は、パシューッと威勢のいい音を立ててから、前脚でコトンコトンと地面を蹴って動き出した。ここから緩やかな坂を上がっていき、丘を越えていくのだ。
「ねえ、翼」
「ん? なんだい」
しばらくして、アテナが翼に話かけた。
「二年前の今日のこと、覚えてる?」
まだ星明りに照らされている葡萄畑を駆ける風が、アテナの金色の髪を揺らした。
「あー、二人三脚のこと?」
「そうよ」
アテナは翼のポニーテールにそっと鼻を近づけながら答えた。
「私たち、当日の朝まで練習しなかったわよね」
「い、いや、練習なら随分前からやったじゃないか」
「二人一緒に走ったのは当日の朝が初めてだったわ」
「そ、そうだったかなぁ・・・覚えてないけど」
翼は照れながら笑った。
翼とアテナは二年前の体育祭で二人三脚をやることになったのだが、お互いに恥ずかしがってしまい、個人では練習するのに、肝心の二人練習を当日の朝まで出来なかったのだ。
「あれからもう二年が経ったのかぁ。私たちもすっかり大人になったね」
「・・・そうかしら」
アテナは翼の背中におでこをぴたっとくっつけて囁いた。
「あなたは何も変わってないわよ」
イイ感じの二人である。
二人を乗せた馬は丘の頂上へ出た。
この辺りの高原には天文台以外にあまり建造物がないため、何億年も変わらない自然の味を風に感じることができる。
「ん~、相変わらずいい景色だ。地球が丸く見える」
「そうね」
やがて、夜明けの空気の涼やかなブルーの中に、広大なストラーシャ学区が静かに姿を現した。
ストラーシャ学区は、クロワッサン型をした女学園島の、内海に面している。
完璧な円形に近いその内海は、美しいビーチによって囲まれた巨大な湖のようにも見えるが、最南端でちゃんと海と繋がっている。緩やかな坂道には家々が立ち並んでおり、それらはいずれも白とブルーを基調にした地中海風とも言うべきカラーに統一されている。赤レンガや黒々とした石造りのビドゥ学区よりかなり爽やかな街並みであり、ビーチ付近はどことなくハワイアンな空気も漂っているから、夏にはピッタリの学区と言える。今はまだ6月だが、内海の水温は高いのでビーチは早くも遊泳可能だ。体育祭の後に元気が余っている生徒がいたら、ちょっと水遊びもできるわけである。
しばらくすると、ジャージ姿の生徒たちの一団が、丘の一歩道を駆け上がってきた。丘は背が低い果樹と高山植物で覆われているので見晴らしが良い。
「あ!」
「翼様と、アテナ様だわ!」
息を切らしながら、少女たちは歓声を上げた。
「おはようございます!」
「おはようございます! 翼様、アテナ様!」
少女たちはストラーシャ学区の運動部員らしく、体育祭の前だというのに朝練習を始めていたようだ。
「おはよう皆」
「ごきげんよう」
翼たちは馬上からそう挨拶を返した。
が、ジャージ姿の一団が通り過ぎた後、翼たちの元へ駆けて戻ってくる生徒が一人いた。
「あの、翼先輩」
「ん? あぁ、キミはこの前の」
「はい。先週は相談に乗って下さって本当にありがとうございました。おかげ様で自分に自信が持てるようになりました」
「それは良かった。部活も頑張ってるみたいじゃないか」
「はい! ・・・あの、もしよろしければ、またご一緒にお食事、お願いできませんか」
「もちろんいいよ」
「あの日のこと、私ずっと忘れません・・・」
「ありがとう。相談なら、いつでも乗ってあげるよ」
懐の広い翼の言葉に、少女はパッと笑顔を輝かせ、深く頭を下げてから走り去っていった。
「翼」
「ん? なんだい」
「今の子は誰なの」
アテナはいつも通りの冷静な声で、当然の疑問を翼にぶつけた。
「あー、え、ええと、この前、相談に乗ってあげた子だよ」
「一緒にごはんを食べたの?」
「ま、まあね」
「二人だけで?」
「そ、そうだったかなぁ」
「・・・ここで降ろして」
「え?」
「ここで降ろして。私は歩いていくわ」
アテナが馬から無理やり飛び降りようとするので、翼は慌てて馬を停めた。アテナは上品に馬を降りると、丘の道をさっさと歩きだしてしまった。
「も、もしかして怒ってる?」
翼はゆっくり馬を歩ませながら、アテナに尋ねた。
「どうして私が怒る必要があるの。体育祭前に少し準備運動をしようと思っただけよ」
「いや・・・でも・・・」
アテナは普段から感情を表に出さず、いつも静かで穏やかな口調を使うので、彼女の考えていることを読み取るのは、一般人には難しい。しかし翼はアテナと長い付き合いのルームメイトであるので、アテナが不機嫌になっていることは容易に察することができた。
「・・・いや、アテナ、大丈夫だよ、ちょっと相談に乗っただけだってば」
「でもお二人でお食事をしたんでしょう? 仲がよろしくて結構だわ」
「そ、それはたまたま夕ご飯の時間だったからさ。それに、食事をしたのはビドゥの学舎にある食堂だよ。全然デートとかそういうのじゃないから」
「・・・信用していいのかしら」
「もちろんさ」
立ち止まったアテナは氷のような無表情のまま翼の瞳を見上げ、じっと覗き込んだ。
ストラーシャ学区には飲食店が多い。
これはストラーシャの恵まれた風土によってもたらされた豊かな食糧事情のお陰である。この島特有の、超栄養豊富な野菜と果実の多くは、ストラーシャ学区とアヤギメ学区で栽培されたり自生したりしているのだ。
「アテナ、いい匂いがしてきたね」
「そうね」
機嫌を直し、翼の後ろの席に戻ったアテナは、翼にそっとしがみつき、ポニーテール越しに返事をした。
「体育祭の当日なのに、生徒たちは自分の担当する作業を頑張ってるみたいだね」
レストランの運営を任されている生徒たちは当然、早起きをしてスープを煮込んだりしているわけである。澄み切った朝の空気に溶け込んだ温もりが、二人の鼻をくすぐった。
すると、白いテラスが美しい二階建てのレストランの前を機馬が通りかかった時、中から二人の少女が駆け出してきた。
「翼様! この間はありがとうございました!」
「え、ああ・・・どうもどうも」
翼はちょっとイヤな流れを感じた。
「あ! アテナ様も、おはようございます」
「おはよう。それよりあなたたち、この翼と何かあったの?」
「はい! この間、水泳の個人指導をして頂きました! 私たち、全然泳げなかったんですけど、翼様が手取り足取り教えて下さったお陰で、かなり泳げるようになりました!」
「手取り足取り?」
「はい! 水着も選んで頂きました!」
アテナは静かに馬を降りた。
「アテナー・・・怒ってるよねぇ・・・」
「別に、怒ってないわ。最近運動不足だったから、歩いてるだけよ」
そろそろ朝日が差し込んでくる時刻だというのに、二人の間には暗雲が立ち込めている。
「わ、私はちょっと、あの子たちに泳ぎ方を教えてあげただけだよ。私マリンスポーツ部も兼任してるわけだし、普通でしょ」
「そうね。あの子たちの手を取って楽しそうに水遊びしたり、あなた好みの水着を着させて楽しんだりする様子が簡単に想像できるけれど、普通だと思うわ」
「わ、悪かったよぉ・・・でも、泳げなくて悩んでいる生徒を見過ごせないっていう気持ちは分かって貰えるだろう? アテナのルームメイトとして、学園に尽くしたいと思っているのさ・・・」
「怪しいものね」
「んん・・・あ! 今度からはマリンスポーツ部のメンバーか、水泳部の子たちと一緒に練習を指導することにするよ! 私一人で面倒を見るのは大変だったからね」
「多人数で指導を行うというのね」
「ああ」
「・・・信用していいのかしら」
「もちろんさ」
立ち止まったアテナは人形のような無表情のまま翼の瞳を見上げ、じっと覗き込んだ。
ストラーシャ学区には平野もある。
静かな内海のビーチに近づくにつれて、傾斜はなくなり、ヤシの木に似た南国の高木が立ち並ぶ大通りが増えていくのだ。
今回体育祭の会場となるグラウンドをはじめ、芝の公園などもたくさんあり、おまけに素晴らしく美しい砂浜もあるから、運動部の生徒たちを中心に人気の学区となっている。ビドゥやアヤギメの生徒たちの中にも、部活のためだけにストラーシャへ毎日通っている子がいるくらいだ。
「もうすぐグラウンドに着くね」
「そうね」
再び機嫌を直し、翼の後ろの席に戻ったアテナは、翼の背中に優しく抱き着いたまま、返事をした。
「今年はどんなドラマが生まれるだろうか、わくわくするよ」
「怪我する子がいなければ、それで充分だわ」
「おや、生徒会長としては、ビドゥが優勝して欲しいんじゃないのかい?」
「そんなの建前よ。本当は、皆が楽しんでくれれば、細かいことはどうでもいいわ」
アテナは翼と一緒にいる時、生徒会長ではなく、一人の生徒としての素直な意見を言うことができる。二人は信頼関係によって強く結ばれているのだ。
「今年はやっぱり、百合ちゃんと月美ちゃんのコンビが注目されているね」
「そうね。あの子たちの活躍は皆が期待しているわ。でもとにかく、二人が楽しんでくれればそれでいいわ」
「そうだねぇ」
百合と月美に関しては、アテナたちも気に掛けている。モテすぎる百合と、そのルームメイトである月美が、どうすれば幸せに生活できるか、いつも考えているのだ。
「そう言えば翼、この前、百合さんと月美さんを海賊洞窟レストランに招待したんでしょう?」
「ああ。大成功だったよ。とても喜んでくれたし、二人は演劇部への勧誘にも協力してくれた」
「それは良かったわ。演劇部員は増えたの?」
「うん。百合ちゃんたちのお隣さんが入部してくれたよ。なかなか面白い二人さ」
「そうなの。どんな風に面白いの?」
「入部してくれたのは、綺麗子ちゃんって子と、桃香ちゃんっていう子さ。綺麗子ちゃんはとにかく度胸があって、おまけに名前の通りとっても華があるんだ。見てるだけでこっちがニヤけてしまうくらい可愛いんだ。それから桃香ちゃん。この子も素晴らしく可愛い。本人は舞台に立つ勇気なんてないと言っているが、私が見る限りあの子はとてつもない才能を秘めている。今は裏方の仕事をしてもらって、少しずつ演劇の魅力を感じてもらい、いずれステージに立つことを勧めてみるつもりさ。とにかくそれくらい、美しく有望な子たちなのさ。さすが、百合ちゃんと月美ちゃんのお隣さんだよ。いやぁ、百合ちゃんと初めて目が合った時は頭の中が真っ白になりそうだったなぁ~。しかも一緒にいるのがあの月美ちゃんだよ。あの二人と一緒に、またどこかに行きたいなぁ~」
「・・・降ろして」
翼は実にアホウである。
アテナはまたまた馬を降り、すたすたと歩いていってしまった。
翼は基本的には誠実で、優しく爽やかな王子様のような性格をしているのに、ちょっとだけ女の子にデレデレしてしまう悪い癖があるのだ。
「ご、ごめんよアテナ」
「どうして謝るの。あなたはたくさんの後輩と仲良くできる、素敵な先輩だわ」
「い、いや・・・なんかかなり怒ってない?」
「怒ってないわ」
どう見ても怒っている。
この二人、公にはカップルではない。どちらかが相手に告白をしたわけでもないし、人前でラブラブなところを見せたりもしたことがない。
しかし、実態は完全に恋人同士である。
一年生の時に初めて出会い、ルームメイトとして暮らし始めた当初から二人はお互いを意識し合い、長い時間をかけて、恋を育んできた仲なのである。二人とも恋愛に関しては不器用であるが、相手を想う気持ちに偽りはない。
「ごめん。アテナ」
翼は黒馬から降りて、アテナに駆け寄った
「怒らせるつもりはなかったんだ。その・・・確かに後輩たちは可愛いが・・・ええと・・・」
翼は顔を赤らめ、小さな声で言った。
「アテナが・・・一番だから・・・」
歩いていたアテナの足が止まった。
差し込んできた朝日の木漏れ日が、アテナの金髪の上を流れるように輝いて揺れた。
「・・・信用していいのかしら」
「もちろんさ・・・」
振り返ったアテナは、ほんの少しだけ頬を桜色に染めながら翼の瞳をじっと覗き込んだ。
「・・・信用して良さそうね。あなたは演劇部のくせに、嘘が下手だから」
「いや、そんなことはないけど・・・」
「そんなことあるわよ」
何でも器用にこなす翼がポンコツな大根役者になってしまうのは、アテナの前だけである。
「それじゃあ、お手をお貸しください、お姫様」
「調子に乗らないでね、王子様」
アテナはやっぱり冷たい反応をしながらも、馬に乗った翼に白い手を伸ばした。翼はアテナの体をひょいっと引き上げ、後ろに乗せた。
「あ、でももう、グラウンドに着くけどね」
「グラウンドの外を一周だけしましょう」
「え?」
「いいから」
「あぁ・・・うん。わかったよ」
グラウンドの外周は、メタセコイアという美しい樹木の並木道になっており、ここだけは南国風ではなく避暑地のような雰囲気である。
すっかり明るくなった空を見上げながら、アテナは翼の温かい腰に腕を回した。そして機馬が動き出したのを見計らって、翼のポニーテールに顔を埋め、うなじの辺りに優しくキスをしたのである。
「な、なに!?」
「・・・いいから。前を見て操縦しなさい」
アテナは恋人に甘える時もクールである。
二人は、生徒たちが集まってくる直前の時間まで、朝日の香る並木道で、二人きりの乗馬散歩を楽しんだのだった。