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百合と何度もファーストキスを  作者: ささやか椎
第3章 田舎暮らし
108/126

108、午前の仕事

 

 まだ蝉たちが眠っている早朝に、百合は目を覚ました。


(よし! まだ5時だ!)


 窓辺に駆け寄ってカーテンを開けると、ほんのりと青い、薄明りの鹿野里が広がっていた。白い鳥が何羽か空をゆったり飛んでいるが、それ以外は草木に至るまで全てが寝静まっているように感じられる景色である。


(急がないとっ)


 百合は部屋の洗面所でささっと顔を洗って、昨晩からしっかり用意しておいた着替えにチェンジし、廊下に出た。


「あっ・・・」

「あ! 月美ちゃんおはよう!」


 まだ足元の常夜灯しか点いていない薄暗い廊下に、月美の姿があった。百合の部屋のすぐ前で待ってくれていたようだ。ちなみに月美はイルカの模様が入った水色のワンピースを着ていたのだが、百合は月美がこの服を着ているのを見るたびに内心「可愛いなぁ~」と思っている。


「行きますわよ」

「うんっ!」


 二人はスリッパをパタパタいわせながら、一階のロビーへ向かった。



 なんと、今日の夕方、初瀬屋に珍しくお客さんが来るので、百合は旅館の手伝いをしようと思ったのだ。

 旅館の仕事を体験してノートにまとめれば夏休みの自由研究になるので、百合は張り切っているわけである。


「銀花さんっ、おはようございます!」

「おはよう百合、月美。早起き出来たのね」

「はい!」


 銀花は当然、既に起きており、手桶と柄杓ひしゃくを使って玄関前に打ち水をしていた。


「じゃあ出掛けるわよ。もう支度はできてる?」

「は、はいっ」


 百合たちはこれから、銀花が運転する車に乗って、鹿野里の南にある直売所に行くのだ。

 来客は今日の夕方なので、朝の食材の仕入れをゆっくりお手伝いできるのだ。ちなみに明日の今頃はお客様のための朝食を作り始める時間だから、3人揃って直売所に行くことは出来ない。


「月美、鍵を開けて先に乗ってて」

「はい」


 月美は非常に慣れた様子で車のキーを受け取り、駐車場へ向かった。月美ちゃんカッコイイなぁ~と思いながら、百合は彼女のあとについていった。しっとりした夏の朝の風が、寝起きの百合の頬をくすぐった。


 初瀬屋旅館と書かれた白い車の後部座席のドアを開けた月美は、「どうぞ」と言って百合をエスコートしてくれた。


「お邪魔しま~す」


 車内は、草刈りした直後の芝生にメロン果汁を振りかけたような、不思議な香りがした。きっと、三日月野菜を頻繁に運んでいるからだろう。


「じゃあ閉めますわね」

「はーい」


 百合の隣に乗り込んだ月美は、あまり深く考えずにドアを閉めたのである。


 が、ドアを閉めると、車内は当然密室となり、静寂が二人を包み込むことになった。月美はすぐに後悔したが、再びドアを開けるのも変なのでどうにもできなかった。


 一方の百合は、二人きりの時間を少し嬉しく思った。


「月美ちゃん、いつもこうやってお手伝いしてるの?」

「は、はい・・・まあ、時々は」

「へー、偉いね♪」

「別に・・・ふ、普通ですけど」


 百合は月美としゃべりたい話題がどんどん溢れ出してきた。夏祭りでは浴衣を着たいね、とか、私たちの朝ごはんは何時くらいになるだろうね、とか、そんな感じの話である。


 が、すぐに銀花が車に乗り込んできたので、二人だけの時間は終わってしまった。月美はホッとしたのだが、百合としてはちょっと残念である。




 走り出した車内には、ピアノとチェロで演奏された軽やかなクラシック音楽が掛かっていた。


「今日のお客様は笠馬かさまの地域新聞の記者さん5人よ。17時頃にチェックインの予定だわ」

「地域新聞ですかっ」

「ええそうよ。気にしなくていいのに、女性だけで来るらしいわ」

「へ~」


 鹿野里一帯で育てられている三日月野菜が、女の人の近くじゃないと元気に育たないというとんでもない性質を持っていることは有名だから、このような気遣いをしてくる観光客は多い。

 今回のお客様は地域新聞の取材のために来るわけだが、どちらかと言えば仕事というよりはただの観光らしい。


 やがて、月美が「コホン」と咳払いをしてから、得意げに何かを喋り出した。


「銀花さん、今日は夏Aになりますの?」

「そうね。連泊で、夏Cまでよ」

「はい。お鍋はどうなりますの?」

「お鍋は湯葉で。Bの天ぷらはこのあと直売所で決めるわ」

「はい」


 さすが旅館の娘だなと百合は思った。百合が知らない用語で銀花さんと会話する様子は、百合をドキドキさせた。


 ちなみに、月美が銀花のことを「銀花さん」と呼ぶ理由は、親子ではなく姪と叔母という関係だからだそうだ。銀花さんがまあまあ若いので、親戚のお姉さん的なやつかな、と百合は思っていたのだが、概ね正解であった。



 南にある小さな山を越えると、すぐ左手に直売センターがあった。


 ここは鹿野里で作られた三日月野菜たちがメインで販売されるお店であり、普段は大変賑わっているのだが、まだ開店前なので駐車場は閑散としている。


「到着よ。それじゃあ、百合は私についてきて」

「は、はい!」

「月美は台車お願いね」

「はい」


 車を下りた百合は、銀花と一緒に店の裏口へ向かった。直売所の背後の森には涼しい空気が立ち込めており、早起きなヒグラシたちの合唱が聞こえた。


(すごい! 関係者以外立ち入り禁止のところに入るんだ・・・!)


 百合はジェットコースターに乗る前みたいな緊張と高揚を感じた。


「おはようございます」


 銀花がそう言って裏口へ入るので、百合も小さな声で「お、おはようございまぁす」と言っておいた。

 半分だけ電気が点いた店内に、2、3人の女性がおり、三日月野菜が入ったプラスチック製の箱を台車から降ろして、中身をチェックしたりしていた。


「あらぁ、百合ちゃんじゃないの♪」

「え! ローザさん!?」

「おはよう♪ 初瀬屋さんのお手伝い?」

「は、はい!」


 なんと、図工教室でお世話になっているローザさんがこんなところにいた。ローザは喫茶店もやっているが、メインの仕事は三日月農業の研究であるから、百合たちが知らない場所でこのように働いていたのだ。

 ちなみに今ここにある三日月野菜は、今朝収穫されたものであり、このためにローザたちは4時に起きているのだ。


「台車持ってきましたわ」


 別行動していた月美は、初瀬屋から持参した小さめの台車を店内に運び入れた。非常に手慣れている。


 欲しい三日月野菜をあらかじめ注文していたらしく、銀花と月美はスムーズに目的の食材を手に入れ、台車に積んでいった。


「銀花さん、三日月野菜って、朝に収穫したやつのほうが美味しいんですか?」

「そういう種類が多いわ。けど、見た目がレタスやキャベツに似た野菜は夕方獲れたほうが美味しいから、午後にまた来る場合があるのよ」

「へー!」


 百合は銀花の言葉をせっせとメモしていった。素晴らしい自由研究になりそうである。


 ローザたちに挨拶した百合は、月美に一緒に台車を押して外へ出た。

 大人の世界を垣間見たような気がして、百合はちょっぴり成長できた気がした。大人びた月美への憧れも、ますます増したと言える。




 初瀬屋に戻る頃、すっかり日が昇っていた。


 このタイミングで百合たちは朝食をとることになった。

 今朝は簡単にトーストと目玉焼きで済ませるが、お客様が宿泊している日の朝は、いわゆる「まかないご飯」になり、余った食材で作られたちょっぴり豪華な朝食になる。明日が楽しみだ。


「この後はどうするんですか?」

「客室やロビーの清掃よ。百合たちには、ちょっと面白い場所を掃除してもらおうと思っているわ」

「え?」



 なんと、それは一階の大浴場だった。




「洗剤は2種類あるわ。一回目はこっち。仕上げはこれよ」

「わかりました!」

「詳しいことは月美がだいたい知っているわ」

「はいっ」


 朝食を終えた百合は、さっそくお風呂掃除に取り掛かることにしたのである。

 湯舟にお湯が入っていないお風呂場は、まったく別の場所のように見えた。東からの日差しは入ってこないし、開け放した窓から風が入ってくるから、あまり暑くはなかった。


(水遊びみたいで楽しみだなぁ! でも、そんなに甘くないか)


 百合はわくわくする気持ちを押さえながら、腕まくりをして気合を入れた。


「じゃあ百合さん、始めますわよ」

「はーい!」


 いつのまにか学校の体操着に着替えてきた月美と一緒に、百合はデッキブラシでお風呂磨きを始めた。範囲は湯舟だけでなく、床も全てである。


「月美ちゃん! 私、こっちからやるね!」

「はい。滑らないように気を付けて下さい」

「はーい!」


 百合はとっても張り切っている。

 ちなみに、サンダルを履いて掃除する場合もあるが、洗剤が残っている時のザラザラした感触が分かるように敢えて裸足でやることが多いのだ。


「おー。月美ちゃん、これ腕疲れるね!」

「べ、別に・・・これくらい普通ですわ」

「え~、そうかなぁ。私もうこの辺痛くなってきたっ」


 百合は月美と一緒に作業できる喜びで、ずっとにこにこ笑っている。このチャンスを生かして、いっぱいしゃべりたいものである。


「月美ちゃん! カーリングって知ってる?」

「あー、あの、漬物石みたいなのを氷の上で滑らせるやつですの?」

「そうそう! あれってさ、ブラシでこんな風に地面こすってるよね!」

「そんな動きでしたっけ。ちょっと違う気がしますけど」

「え、じゃあ、こうかな?」

「それは絶対違います」

「えへへ♪」


 わざと変な動かし方をしたら、月美が鋭くツッコミを入れてくれたので百合は嬉しかった。二人の話し声は、旅館の外にまで聞こえるくらい、大浴場に明るく反響した。


 二人で作業したので楽だったが、それでも1時間近くブラシを掛けることになった。


「仕上げの洗剤を流す時は、水じゃなくてお湯を使いますのよ」

「え、そうなんだ」

「はい。しかもマックスの温度ですわ」

「わー、熱そう」

「熱いです。でもそのほうがしっかり流れますのよ」


 この作業はちょっと厄介であり、お風呂場がかなり暑くなるのだ。43度くらいのお湯を流しながら、水切りワイパーをせっせと動かさなければならないので、真夏にやってはいけないレベルの仕事である。


「よいしょ! よーいしょ!」


 しかし百合は元気を出し、お湯と洗剤をしっかり流していった。足の裏で感じられる湯舟の底の石の感触が明らかに変わっていったので、百合は掃除の喜びを感じた。


「オッケーですわ。これくらいにしておきましょう」

「あっつーい!」

「ちょっと涼みましょう・・・」


 二人は掃除道具を置き、窓辺に両手をついて身を乗り出した。


「涼しいー!」


 百合は、サウナから出てきた時のような爽快な気分に包まれた。

 遠くの西の山並みが非常に眩しく感じられる。夏の緑があんなにも鮮やかだったなんて、都会にいた頃の百合は知らなかったのだ。


 二人は少しの間、うっとりと遠くを眺めた。


「百合さん、もう一息ですわよ。シャンプーのボトルを綺麗に並べていきますのよ」

「わかった! それで全部終わりってこと?」

「はい。ボトルの中身のチェックも同時にやっていきますけど」

「よしっ! 頑張ろう!」


 もうすぐ終わりと聞いて、百合は充実感を覚えると同時に、寂しさも感じてしまった。やり残したことがあるような、未練の情がちょっぴり湧いたのである。


(月美ちゃんに、あのことお願いしたいけど・・・やめとこうかなぁ・・・)


 実は、百合は月美にどうしても言いたいことがあった。

 それは非常に恥ずかしい内容なので、百合自身も半ば諦めているようなものであるが、一緒にお風呂掃除をしたこの機会に、思い切って伝えてみるべきかも知れない。


 ボトルを並べていきながら、百合は他愛もないことをしゃべって、本題を話すチャンスをうかがった。全ての作業を終えて道具を片付け、脱衣所へ戻ろうとする頃、ようやく意を決した百合は、月美の隣でこんな風に言ったのである。


「と、ところでさぁ。月美ちゃんと一緒にお風呂場に来たの、今日が初めてだったね」


 そう、百合は月美と一緒に一度も入浴したことがないのだ。


「あ・・・う・・・」


 月美は返事に困り、白いバスタオルを両手で握ったまま固まってしまった。

 月美ももう小学6年生であるから、百合が何を言いたいかはすぐに察することができた。同い年の女の子二人が、同じ旅館で暮らしているのに、一回も一緒に入浴していないのは、かなり不自然なのだ。客観的に見れば、まるで喧嘩でもしているかのような距離感なのである。


(や、やっぱり、不自然ですわよね・・・)


 自分がクールな性格を演じて格好つけているせいで、百合さんに寂しい思いをさせていると思うと、月美は胸が痛んだ。


 月美がちょっぴり暗い顔になってしまったのを見た百合は、なるべく明るい声色で話を続けた。


「ねえ、いつかまた一緒に来ようね♪」

「あ・・・それは・・・えーと・・・」


 百合は照れながらも、月美の耳に唇を寄せて言った。


「掃除とかじゃなくて、普通に♪」

「うっ・・・!!」


 月美は白いタオルで頬の辺りを押さえながら、非常に小さい声で「えぇ、まあ、そのうち・・・」と答えたのだった。


(いやいやいや・・・!! わたくし何を言ってますの・・・! 絶対無理ですわぁああ!!!)


 ついつい会話の流れでオッケーと言ってしまったが、月美は一瞬で後悔した。二人仲良く入浴なんてしたら、月美は3秒でのぼせてしまうだろう。これは一大事である。


 しかし、月美は気づいていないのだ。

 月美の隣で「やったー!」と言いながら笑顔で手足を拭いている百合も、月美と同じくらい胸をドキドキさせていることに。

 

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― 新着の感想 ―
[一言] 一緒にお風呂に入る約束したからにはちゃんと入らないとですね( *´꒳`* )
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