106、プールサイド
少女たちの歓声が、水しぶきを上げて初夏の色に輝いている。
花菱女学園のプールは、上空から見ればまさに、四角く切り取られた太平洋そのもので、海風が吹き抜ける爽やかな空の色を映して、ターコイズブルーに潤っていた。
「オッケー合格ぅ! アテナちゃん水に潜れるんだねー!」
一学期の水泳の授業をたった一回で済ませてしまおうという斬新なシステムなので、美菜先生や柳生先生は意外と真面目に一人一人の到達度をチェックし、指導してくれている。
50メートルを平泳ぎで泳ぎ切り、美菜先生から合格を貰った月美は、プールの縁にもたれ掛かって空を見上げた。じっと眺めていると、あの大きな入道雲も少しずつ風に流されて動いているのが分かる。
「月美」
「ひっ!」
突然話しかけられて、月美はびっくりしてしまった。
「・・・どうしたんじゃ、そんなに驚いて」
「ど、どうもしていませんわ」
「そうか。あと5分で休憩じゃ。もう少し頑張るぞ」
「は、はい」
鹿野里の唯一の高校生である千夜子が、月美に声を掛けてくれた。千夜子はいつも眠そうな目をしている寡黙な巫女さんなのだが、水着になると意外とスタイルが良く、古風なスクール水着姿でぐんぐん水面を切り裂いていった。
(百合さんが来たのかと思ってびっくりしちゃいましたわ・・・)
月美はほっと胸を撫で下ろした。
(百合さん・・・泳いでますわね)
月美は横目で、少し離れたところにいる百合の姿をこっそり盗み見た。
この世のものとは思えないほど美しい、水着姿の天使が、年上の桃香ちゃんに泳ぎを教えている。濡れたうなじや肩に輝く水しぶきを見て、月美は胸の中がざわつき、体の芯がキュンとしてしまった。
(い、いけませんわ・・・! 何で百合さんを見つめていますの! 私はクールなお嬢様なんだから、しっかりしなきゃ!)
月美は百合に背を向け、平泳ぎを始めた。
お嬢様的には平泳ぎというのは少々ダサいのだが、泳げないほうがもっと格好悪いので、やむを得ずこの泳ぎ方をしている。
(百合さん、今日は絶対私にイタズラしてきますわよね・・・)
月美は先程から非常に警戒している。
(わざとらしくぼ~んとぶつかってきて、私の反応を楽しんだりするつもりですわ、きっと)
想像するだけで顔が赤くなってしまいそうだが、月美は顔を水にしっかり浸して泳ぐことで何とか誤魔化した。
しかし、月美が心配したようなことは起きず、休憩時間となる。
「それでは皆さーん! プールサイドに上がってくださーい!」
ホイッスルの音と共に、柳生先生が号令を掛けた。
月美は百合の動向を探り、安全な休憩場所を見極める、わざと遅めにプールサイドに上がることにした。
プールサイドには流線形の屋根があり、シャチ2頭分くらいの大きな日陰となっているから、休憩となれば当然、少女たちはそこに集まるわけである。綺麗子は保冷剤を枕にしてベンチに寝転がり、キャロリンはそんな綺麗子の足の裏をくすぐってはしゃいでいた。
プールサイドに上がった月美は、真面目な千夜子と大人しい桃香の間に腰掛けることにした。
「ここ、座っていいですの?」
「あ、月美ちゃん。どうぞっ」
この二人の間は非常に落ち着く。
ちなみに百合は幼いアテナちゃんと一緒に綺麗子の近くに腰かけているから、月美はここにいる限りイタズラされることはないのだ。
「月美ちゃん、その水着似合ってるよぉ」
「あ、ありがとうございますわ桃香さん。まあ私はこういうの興味ないんですけど・・・」
「桃香も似合っておるぞ。ちょっとサイズが合っていないかもしれないが」
「え! この水着、小さいですか・・・?」
「確かに、胸の辺りがキツそうですわよ」
「えええ! やだ、恥ずかしいですぅ・・・」
桃香ちゃんは胸を両手で隠しながらほっぺを赤くした。実に可愛い先輩である。
さて、この時、百合はどんなことを考えていたかというと、完全に月美のことで頭がいっぱいだった。
(ど、どうしよう・・・! 月美ちゃんと全然おしゃべりできない!)
せっかくの水泳授業だというのに、このままでは非常にもったいないことになる。「水冷たいねー!」とか「気持ちいい~♪」とか「追いかけっこしよっ!」とか、しゃべりたいことは山ほどあるのに、勇気が出なくて近寄れないのだ。
(だって、月美ちゃんの水着姿・・・すごく、綺麗なんだもん・・・)
百合はタオルを頭から被ってうつむき、自分の太ももをゆっくりさすった。水着選びの日に感じたドキドキを、百合は完璧に引きずっているのだ。
「ねえ百合! さっきアテナに触ってた不審者はね、不審者じゃなくて、この学園の生徒会長なのよ!」
「そ、そうらしいね。翼さんっていう人なんでしょ」
「うん! それでね、8月にやる夏祭りに招待してみようと思うのよ!」
綺麗子のこの提案を聞いたアテナが嫌そう~な顔をしている。日本へ来て初めて納豆を見た留学生が、よくこんな感じの顔をする。
「翼会長を誘えば、この学園の子たちもたくさん連れてきてくれるはずよ! そしたら大盛り上がりになるわ!」
「じゃあ、あとでもう一回翼さんに会ってみよっか」
「オッケー!」
アテナは無言のまま、雨の日のアルパカみたいな不機嫌そうな顔でベンチを離れてしまった。普段は無表情なアテナちゃんが、今日はなかなかに表情豊かである。
ルネが大の字で寝転んでいるマットの上に、アテナはぺたんと座り込んだ。
ちなみにルネは普段車椅子で生活しているが、プールの授業には参加できる。ルネは極端に足腰が悪いわけではなく、体が全体的に弱いタイプの病人なので、水の浮力と抵抗を利用したほどほどな運動はむしろ彼女にぴったりなので、水泳授業には毎年参加しているのだ。
「ねえアテナ、誤解してるけど、翼会長はいい人よ」
「うそ。絶対不審者」
「どうしてぇ? ちなみにあの人モテモテよ?」
「そんなこと関係ない。この学園の人は、見る目ない」
「あらまぁ、翼会長、完全に誤解されちゃったねぇ~♪」
笑いながら体を起こしたルネは、手のひらに日焼け止めを出し、アテナの顔や首に塗ってあげた。まるで姉妹のようである。
そうこうしているうちに、休憩時間が終わった。水泳授業はいよいよ後半戦である。
月美はさすがにそろそろ百合さんが近づいてくるぞと覚悟し、気合を入れてからプールに戻った。
気温はぐんぐん上がっており、休憩前よりも日差しが強くなっていたので、水はとても気持ちよかった。
「月美ぃ!」
「ひっ!!」
「月美って平泳ぎ出来るんでしょ!? 私に教えてー!」
綺麗子が月美の背中にむにっと抱き着いてきた。月美は百合を警戒しまくっているのだが、少々緊張しすぎて顔がこわばっているので、綺麗子とたわむれて少しは気を紛らわすことも必要かも知れない。
「ま、まあいいですわよ。でもとりあえず放してください・・・」
「あ! こっちのコースで泳ぎましょ! こっちのほうが浅いわよ!」
月美は綺麗子と一緒に泳ぐことになった。
水中に降り注ぐ光は、ほどけた白いレースの糸のように、柔らかな編み目をプールの底に描いて揺れている。月美は自分の陰がそのあいだを縫うように進んで行く様子をゴーグル越しに眺めながら、百合のことを考え続けていた。好きな人のことは、簡単に頭から離れるものではない。
ところが、いつまで経っても、百合が近づいてきてくれない。
月美は時折百合の様子を窺ったが、彼女は何事もないように華麗に泳ぎ、桃香ちゃんとしゃべったりしている。月美はだんだん不安になってきた。
(あ、あら・・・? もしかして私、避けられてますの・・・?)
よく考えると、今朝からあまり百合とおしゃべりしていない。
(もも、もしかして私、百合さんから嫌われてますの!?)
月美は胸がズキッと痛んだ。心当たりがあるからだ。
二人は初瀬屋で一緒に暮らしているが、帰宅後の月美はほとんど百合と関わらず、話もあまりしていない。食事中に百合のほうからたくさん話しかけてくれるが、月美はそれを涼しい顔で受け流し、短めに返事をするのみである。月美はこれがとてもクールでカッコイイ行為であると考えている変人であり、それを百合も受けて入れてくれているとばかり思っていたが、もしかしたら、とうとう嫌われてしまったのかも知れない。
(そりゃそうですわよね・・・。私みたいな無愛想な変人、嫌われて当然ですわ・・・)
月美は水底に沈んでしまいそうなほど、気分が重くなってしまった。不器用な自分が情けなくて、涙が出そうになった。
こうなってしまうと、月美のほうから百合に歩み寄り、コミュニケーションを図る必要がある。温厚な百合が月美に対して本気で怒っているはずはなく、冷たい月美お嬢様とちょっと距離を置いているだけに違いないから、月美のほうからフレンドリーに接すれば、この状況は改善されるかも知れないのだ。月美はそう考えた。
すると、月美にチャンスが訪れる。プールの授業が最終盤にさしかかり、自由時間がきたのだ。
「はーい! そしたら最後にぃ、10分だけ、自由時間にしまーす!」
先生たちと千夜子が協力してコースロープを巻き取ると、自由な空間がプールいっぱいに広がった。
「皆ぁ! ビーチボール持ってきたデース!!」
「ナイスキャロリ~ン! じゃあ輪になって広がりましょ!」
キャロリンと綺麗子が素晴らしい提案をしてくれた。月美はルネに「体調大丈夫ですの? 無理しないで下さいね」などと声を掛けながら、スーッと百合のほうへ近づいていった。すぐ隣で遊べば、さすがにしゃべってくれると思ったのだ。
「じゃあ、いくデース! 落としちゃダメですよぉ~!」
「えっ、早いですわね」
月美の心の準備が始まる前に、ゲームが始まってしまった。月美は百合の隣に来ることができたのだが、百合は最年少のアテナちゃんと一緒に協力してプレイするようで、あまり周囲の人間に気を配る余裕はなさそうだった。
一度だけ「はいっ!」と言いながら月美にボールを回してくれた瞬間があったが、名前を呼ばれたわけでもなかったので、月美の喜びはほんの一瞬のものだった。隣にいるとほとんどボールも貰えないし、会話は全然生まれなかった。
(・・・ぜ、絶対私のこと避けてますわぁああ!!)
月美はすっかり意気消沈してしまい、今にも涙が出そうで、ゲームの後半は何度もビーチボールを落としてしまった。こんなに悲しい気分になるなら、夏なんて来なければよかったと月美は思った。
さて、この状況を変えられるのは、百合しかいない。
とにかく百合が、勇気を出して月美とおしゃべりすればいいのだ。
(うぅ・・・なんとかしなきゃ・・・!)
百合も、月美と同じくらいこの状況に苦しんでいた。
月美が声を掛けてくれないのはいつものことなのだが、自分が月美に話しかけていないのは非常に不自然であり、それに関する合理的な説明が上手く心の中で整理できず、焦っていたのだ。「水着姿の月美ちゃんが可愛すぎて、照れちゃって全然しゃべれなかったー!」と素直に本人に説明すればいいのだが、なんだかいつものような冗談っぽい空気感で言える自信がなく、二の足を踏んでいた。
説明することは無理でも、とにかく話しかけるきっかけが欲しいものである。
しかし、ビーチボールは時間を残酷に進めていく時計の振り子のように青空を行ったり来たりするのみで、百合と月美の間に奇跡を生んでくれそうにない。
百合は諦めなかった。アテナちゃんと一緒にボールを追いかけるフリをしながら、頭はフル回転させていたのだ。
(あ・・・!)
そしてついに、百合はひらめくのである。
(そ、そういえば・・・! 私、今日あれ持ってきてる!!)
百合は、ある素晴らしいアイテムの存在を思い出したのだ。
「はーい! それじゃあ、水泳の授業は全部終わり~! 整理体操でよ~く深呼吸したら、シャワー室に戻りましょう~!」
すっかりブルーな気分の月美は、すぐに行動する気にならず、しばらく海坊主のようにプールを漂い、一番最後にプールサイドに上がって体操をした。月美は横目で百合を見たが、彼女は誰よりも早く更衣棟へ戻っていってしまった。
月美はなんだかとっても寂しくって、日陰で膝を抱えて座り込んだ。
「月美ぃ! どうしたの? 蟻いるの?」
「いませんわ・・・」
「早く着替えに行きましょ! 自販機でアイス買えるわよ!」
「お先にどうぞ・・・」
水泳帽を脱ぎ、髪をほどいた月美は、その後もしばらくの間、一人で座ったままぼーっとしていた。
蝉の声が耳の中にこだまするが、吹き抜ける東風は妙に爽やかで、月美の腕や足が少しずつ乾いていくのが分かった。こんな素敵な夏の日に、月美の胸の中は墨のように真っ黒だ。
(そろそろ行かないとまずいですわね・・・)
やがて月美は重い腰を上げた。
すると、ちょうどその時、更衣棟へと続く階段から、誰かが上がってくるのが見えた。
「え・・・!?」
その人物が百合であることに、月美は瞬時に気付いたのだ。
(ゆ、百合さん!? ひ、一人で、どうして戻ってきますの・・・!?)
百合はまだ水着姿であり、恥ずかしそうに俯き、前髪を片手でいじりながら、眩しいプールサイドを小股でちょこちょこと歩いてくる。彼女は間違いなく、月美のほうへ真っ直ぐに向かってきていた。
(な、な、なんでしょう!? 忘れ物・・・!?)
月美が辺りを見回すと、足元に水泳帽とゴーグルが落ちていたので一瞬びっくりしたが、それは月美のものである。
(な、なんのご用ですのぉお・・・!)
月美は背筋をぴんと伸ばしたまま、手だけをもじもじさせて、その場に立ち尽くした。
百合は日陰まで来ると少し速足になり、月美に駆け寄った。
「月美ちゃんっ」
「は、はいっ!?」
「一緒に写真撮ってくれない?」
「え?」
百合はスマートフォンを握りしめていた。
これは引っ越し前に百合の母が連絡用として買ってくれたものである。鹿野里の子たちが誰も携帯電話を持っていないのに、頻繁に持ち歩いていたら見せびらかしているようで気が引けるから、百合はほとんど人前でスマホを取り出さず、写真も初瀬屋の窓からの景色くらいしか撮っていないのだが、今日は隣町に出かけるので、なんとなくバッグに入れて持ってきていたのだ。
「一緒に写真、お願い♪」
「あ・・・いや・・・私は・・・その・・・」
百合がしゃべりかけてくれた喜びで月美は顔がじんじんしており、言葉も出ず、プールの水面に視線を落としてもじもじしてしまった。
「いい?」
「あの・・・その・・・」
「撮っちゃお♪ 隣いくね」
「あっ!」
百合は月美に寄り添うに、肩が触れ合わないギリギリの距離までくっついた。カメラレンズを向けられ、画面に水着姿の二人が映っているのを見た月美は、どんな顔をしていいか分からず、ひどく慌てた。せめて目だけはレンズに向けていないと不自然なので、月美は困っているような、怒っているような、それでいて幸せそうな眼差しをカメラに向けた。
「はい、チーズ♪」
カシャッという音が、自分の心を裸にしてしまったようで、月美は非常に恥ずかしかった。が、誰かと二人きりで写真を撮る経験は初めてだったし、しかも相手はあの百合さんなので、月美は頭がぽわぽわしてしまった。くすぐったいような、とっても幸せな気持ちである。
この時の百合が、内心非常にドキドキしていたことは言うまでもない。
プールサイドを歩いて月美の元へ向かう時は、本当に緊張してしまい、あえて足を速めて、勢いで月美にしゃべりかける作戦にしたくらいである。勇気と知恵で、百合はこの状況を打破したのだ。
「もう一枚、いい?」
「・・・は、早く済ませて下さい」
「じゃあ今度はさ、ピースして♪」
「う・・・」
「こんな感じで♪」
百合はピースサインを作った自分の手を月美に見せた。
月美はこの時、誤って百合の胸元を思い切り見てしまい、透き通るような柔らかな素肌が、真珠のように輝いている様子を、目の奥に焼きつけてしまった。月美はもう、幸せで頭がクラクラした。
「じゃあいくよ♪」
「・・・はい」
「はい、チーズ♪」
シャッターが切られる瞬間、わざとではなかったのだが、百合の肩が、月美の肩にちょんっと一瞬だけ触れてしまった。びっくりした月美が「あっ・・・!」と声を洩らしたのと、カメラのシャッター音がしたのは、ほぼ同時であった。
二人は少しの間キョトンとして、見つめ合っていたが、やがて百合が笑い出した。緊張から解放されたような感じがして、百合の胸に幸福感がドッと溢れ出してきたのだ。
「な、何をそんなに笑っていますの・・・」
「ごめんごめん!」
「早く着替えに行きますわよ・・・」
猛烈に恥ずかしくなった月美は、逃げるようにその場を去ることにした。一刻も早く更衣棟の個室に入り、胸の鼓動を落ち着かせたかったのだ。
「月美ちゃん!」
「え・・・?」
やや遠くから百合に呼ばれた月美は、髪を揺らして振り返った。
太陽が降り注ぐプールサイドは、白砂のビーチのように眩しく輝いており、遥か遠くに鮮やかな青い海と入道雲が見えた。
そして、天使の羽のような白い水着で素肌を飾る百合が、ひまわりみたいに笑っていた。
「月美ちゃんの水着姿・・・すごく、すっごく素敵だよっ!!」
百合がずっとずっと言いたかった一言が、ここでようやく声になり、夏の空に羽ばたいたのだ。
二人きりのプールサイドに、眩しい風が吹き抜けた瞬間である。