104、ドライブ
今日はいよいよ、プールの授業である。
鹿野里の児童生徒たちは、学校ではなく、初瀬屋の駐車場に集合した。
「朝は涼しいね~」
「そうですわね」
早朝なので、まだ辺りは青みがかった薄明りに包まれており、しっとりした涼しい風に乗って寝起きのカエルたちの歌が田園一体から聞こえてきている。
しかし、みるみる輝きを増していく清々しい空の色を見れば、今日の昼が爽やかな夏の陽気になることは容易に想像できた。きっと気温も上がるだろう。
「皆ぁ~、忘れ物はありませんかぁ~?」
「ハーイ!」
綺麗子とキャロリンは非常に張り切っており、早くもおでこにゴーグルをつけて準備体操をしている。百合はそんな二人を見て、くすくす笑ってしまった。早朝から元気いっぱいで、外に遊びに行くのを待ちきれずうずうずしている様子が、百合のおばあちゃんの家で飼われている柴犬たちにそっくりだったからだ。
しかも、よく見ると綺麗子は既に水着姿であり、薄手のパーカーを羽織っているだけである。
「・・・綺麗子さん、水着で行くのはいいですけど、帰りはどうしますの?」
「その時はその時よ! 私の好きな言葉はね、明日は明日の風が吹く、ってやつよ!」
「明日は風邪を引く、の間違いじゃありません?」
月美が珍しく冗談を言ったので、百合はちょっと笑ってしまった。
「ねえ月美ちゃん、これから行く学校って、どこにあるの?」
「笠馬の市街地ですわ。海のほうですのよ」
「へー!」
「片道1時間くらいですわね」
「わ~、ドライブ楽しみだね」
「べ、別に・・・」
「月美ちゃんは、プール好き?」
「き、嫌いです・・・」
大きなプールバッグを肩に掛けた月美が、恥ずかしそうにそっぽを向いた。
百合たちの学校は正式名称を『花菱女学園・鹿野里校』といい、今から向かうのは、本校である『花菱女学園』だ。
「じゃあこれから二つのグループに分けま~す」
「え~」
美菜先生の車と、柳生先生の車に分かれて向かうのだ。百合や月美は、柳生先生が運転する3列シートのワゴン車に乗ることになった。
「じゃあ、月美ちゃん先に入っていいよ♪」
「え・・・は、はい・・・」
百合はまず、一番後ろのシートの右端に月美を座らせ、自分はそのすぐ隣に腰を下ろすことにした。
(ゆ、百合さん・・・やっぱり私の隣に来ますのね・・・)
月美は人知れず焦り、なるべく窓のほうへ体を傾けて百合から距離を置こうとした。
普通の人間であればこのようなバナナみたいな姿勢で1時間もドライブできないわけだが、こういう時の月美の忍耐力は凄まじいのでおそらく可能である。
(あ、月美ちゃん、さっそく照れてる♪)
百合は嬉しかった。
あんまりグイグイいくと嫌われそうなので加減は難しいが、百合は今日も月美ちゃんにいっぱい仲良し攻撃をしかけるつもりである。一緒に暮らしているとはいえ、月美の体に触れられるチャンスは本当に少ないからだ。
「アテナちゃんも後ろのシートおいで♪」
「うん」
一年生のアテナちゃんが、百合の左隣に来てくれた。百合がアテナのシートベルトを締めてあげると、アテナは無表情のまま少し頬を染めた。
「じゃあ、私とルネがここね!」
綺麗子とルネが、百合たちの前のシートに乗り込み、準備は完了した。この車にはルネが快適に乗り降りできる特別な座席があるので、だいたいいつも小学生メンバーたちが乗るようだ。
柳生先生が運転席に乗り込み、ミラーの角度などを丁寧にチェックした。
「では、僭越ながら私、柳生が運転を務めさせていただきます。生徒諸君の命を預かる身として全身全霊を以てハンドルを握らせていただきますので、よろしくお願いいたします」
「先生、美菜先生の車が先に行ってしまいますわ」
「あ! では、発進させていただきます!」
柳生先生はかなりの変人である。が、安全運転だけは保証されているようだ。
「さらば鹿野里~! 達者でなぁ~!」
「・・・綺麗子さん、半日で戻ってきますのよ」
綺麗子は窓にへばりついて大袈裟に手を振った。
百合はおよそ3か月ぶりに鹿野里の外に出ることになる。
大通りを南へ進み、高い木々が茂る緑のトンネルの坂を上っていくと、やがて景色が開けた。
「おお! 遠くに海が見える!」
「あの辺りが笠馬の市街地よ!」
「都会だなぁ~」
太陽を受けた住宅地が白砂のように輝いており、深い青を湛える海原を鮮やかに縁取っている。その砂地に突き刺さった小さなハーモニカにも見える構造物たちは、鹿野里とは縁遠い高層ビル群だ。
「百合! 左を見て! この建物はね、三日月野菜の直売所よ! ママたちはここに野菜や果物を持ってくるの!」
「へ~!」
「ここのソフトクリーム美味しいのよ! 三日月いちご味が最高!」
「食べてみたいなぁ~」
「まだ朝早いから開いてないの。帰りに寄れば食べられるわ!」
「じゃあ、寄ってみたいなぁ~」
「柳生先生! 後で直売所寄って~!」
「かしこまりました」
全然先生っぽくない先生である。
山を下り、鏡川が大きな川と合流する辺りへたどり着くと、綺麗子は思い出したようにカバンをあさり、表紙がくしゃくしゃになった自由帳を一冊取り出した。
「じゃあ皆! 夏祭りの相談よ!」
「綺麗子ったら、夏祭りの話大好きね」
ルネがくすくす笑っている。
綺麗子は学校の休み時間になるとすぐに夏祭りに関する会議を開くのだ。
ちなみにローザの図工教室は現在、夏祭りの美術班となっており、カラフルな提灯や案内板などを作っている。
「あ! 大ニュースなんだけど、アヤギメ神社の倉庫に古いお神輿があるって千夜子ちゃんが言ってたわ!」
「えー! それ、使っても平気なの? 大事なものなんじゃない?」
「神社の巫女さんである千夜子ちゃんが使ってオッケーって言ったのよ! それに、お神輿はお祭りのためのものなんだから、長い眠りから覚めて喜ぶはずだわ!」
「そうね! じゃあ大事に使いましょ!」
百合は、綺麗子やルネの会話にもちろん興味があり、夏祭りへの意欲は彼女たちに負けていないのだが、頭の中が月美のことでいっぱいであり、いまいち話し合いに参加できなかった。
(んー、せっかく月美ちゃんが隣に座ってるのに、なかなかコミュニケーションとれないなぁ)
いたずらしようと思っていたのに、いざとなると勇気が出ないのだ。
太ももの辺りをちょんっと指でつつくとか、以前やったように寝たふりをしてもたれ掛かるとか、耳元でささやくとか、色んなアイディアがあるのだが、なぜか実行に移せないのだ。
(この前の水着姿、綺麗だったなぁ・・・今日またあれを見られるんだよね・・・)
そう思うと、月美という存在が妙に神聖なもののように感じられて、気軽にタッチできなくなってしまったのだ。
一方月美は、百合が絶対なにかしてくるだろうと警戒しており、窓に肩を寄せたままじっとしている。すぐ隣に百合がいる緊張のせいで、ほっぺがほんのり赤いから、それを見られないようにするため、顔は外に向けたままだ。
綺麗子が大声で校歌などを歌っているうちに、やがて車は駅前の大通りに差し掛かった。ちなみに、綺麗子は意外と歌が上手い。
「ねえ百合! 百合は笠馬の駅前で遊んだことある?」
「え? 全然ないよ。引っ越しの日も、すぐに車に乗って鹿野里行ったから」
「じゃあ今度一緒に来ましょ! 映画館とか、屋内遊園地もあるのよ!」
「へー! 面白そう!」
道の左手に、見覚えのある駅前ロータリーが見えた。もし右側に駅があったなら、百合は「わぁ~駅だ~」などと言いながら月美に寄りかかることができたはずなのに、残念である。
(よし! 次に右側の窓に注目するチャンスがあったら、月美ちゃんに思いっきり、もたれ掛かるぞっ!)
百合はそう決意し、闘志を燃やした。
さて、アテナちゃんが自分のほうをじっと見つめていることに気付いた百合は、窓の外の景色に気を配りながら、アテナとおしゃべりをすることにした。アテナはまだ6才だが、かなりしっかりしており、自分の好みや意見をはっきり言えるタイプの少女である。
「アテナちゃんってさ、銀花さんにピアノ習ってるんでしょ?」
「うん」
「ピアノ、好き?」
「うん」
「いいねぇピアノ~♪ ピアノってやっぱり音がすごく綺麗だよね。優しく鍵盤を押すと、ポ~ンって優しい音がするでしょ。でも力強く押すとグワ~ンって大きな音がするよね。あれが凄く面白いなぁ」
「私、優しく弾く音が好き」
「ホント!? あれいい音だよねぇ♪ 特にさ、高い音を優しく弾いた時、すっごく綺麗だよねぇ」
「うんっ」
「レッスンは楽しい?」
「んー、楽しくない時もある」
「え、そうなの? 楽しそうだけどなぁ~。あ、でも確かに、同じところ何度も何度も練習するんでしょ? それは大変かもねぇ」
「うん」
「でもさ、上手く弾けるようになった時って、やっぱり楽しい?」
「うんっ!」
「そっかぁ! アテナちゃんが弾く曲、聴いてみたいなぁ♪」
「聴きたい?」
「え? うん! 聴きたい聴きたい!」
「じゃあ、今度聴かせてあげる」
「ホント~!? 嬉しい~♪ 今どんな曲練習してるのぉ?」
ほとんど無自覚なのだが、百合は小さい子と仲良くなる能力に長けている。
子供向けアニメの登場人物のような大きめのリアクション、安心して会話できるポジティブな空気感、そして相手の立場に立って想像力を働かせて展開するおしゃべりは、天賦の才と言っていいかも知れない。
(ゆ、百合さん、きっと私にも話しかけてきますわ・・・!)
月美は先程からずっと警戒している。「月美ちゃんはピアノ好きなの?」と尋ねられた時の、知的でかっこいい返事などを懸命に考えているのだ。
しかし、百合と月美の間に何も起こらないまま、車はどんどん花菱女学園へ向かっていった。
百合はとにかく、右側の窓に注目が集まる機会を待っているのだが、なかなかそのチャンスが訪れない。
途中、クジラの形をした水族館や、昔の城下町を再現した街並みなど、面白い景色を綺麗子が教えてくれたが、どれも左側だったのだ。右側にあるはずの太平洋も、海沿いの道路を通らなかったせいで、お目に掛かれなかったのである。実に不運だ。
(月美ちゃんの太ももにそっとタッチするだけでいいのに、なかなか出来ないなぁ・・・)
せっかく隣に座っているのに、このままでは悔いが残ってしまう。
「皆さん、まもなく花菱女学園です」
「おお~! 一年ぶりに来たわ~!」
緑の葉が茂る桜並木の坂を車はゆっくり上がっていく。今日は平日なので花菱女学園の生徒たちも普通に登校しており、ワインレッドのブレザーを着た中高生の少女たちが歩いているのが見えた。ちなみにこの学校には初等部がないので、皆百合より年上である。
そんな少女たちが、百合たちの車を見つけて振り返った。
「見て! 鹿野里の子たちの車じゃない?」
「午前中にうちの学校のプール使うのよね!」
「いつも来てる子たちだわ!」
毎年プールを借りに来ているので、綺麗子たちの顔を覚えている子も多い。残念ながらこの学校の生徒たちと一緒に水泳の授業をやることはないが、休み時間などで友達を作れる場合もある。
「それでは駐車します」
「はーい」
ついに目的地に到着してしまい、百合は焦った。いたずらをするチャンスはいくらでもあったのに、きっかけに全く恵まれなかった。
一方の月美は、百合が何もしてこなかったので拍子抜けであり、ちょっぴり残念な気分でもあったが、クールさを保ったまま無事に着いて一安心であった。
しかし、この世界のどこかにいるかもしれない、乙女たちのラブラブをつかさどる女神が、このような状況を見過ごすわけがなかった。百合と月美がドキドキできるチャンスをしっかり用意してくれていたのだ。
車が停まり、百合たちがシートベルトを外した、その時である。百合にとって千載一遇のチャンスが訪れたのだ。
「あ、美菜先生の車もう停まってるわっ」
右側の窓に顔を寄せて、綺麗子がそんなことを言ったのだ。
(み、右側だぁ!!)
百合の心臓はドキッと飛び跳ねた。一瞬ためらったが、百合は勇気を出して月美のほうに体を寄せた。
「どれどれ~? キャロリンさんたち、もう下りてる?」
「うっ!」
少々強引だったが、百合は月美に密着することに成功した。
ほんの一瞬だが、百合のおっぱいが月美の二の腕辺りにぽよんと当たったのだ。
「それじゃあ、私たちも下りよっか♪」
赤面する月美の可愛い横顔を見て嬉しくなった百合は、アテナちゃんの手を引いて車外へ向かった。
(やったあああ!! 月美ちゃんに触れた!)
ほんのり潮風の香りが混ざる夏の日差しの中で百合はグッと伸びをした。
(なんか、今回は難しかったなぁ~。なんでこんなにドキドキしちゃったんだろう。もっと気軽にやればいいのに)
積極的に行動できなかった自分への疑問は残るが、とにかく百合は、月美の可愛い表情を見ることができた達成感で胸がいっぱいになった。
しかし、百合の挑戦はこれで終わりではない。実は彼女にとってもっと大きな挑戦が、この先に待ち受けているのである。
「じゃあ皆~、プールはこっちで~す!」
「はーい!」
そっと手を繋いできたアテナの小さな手を握り返し、百合は美菜先生のあとについていった。
(・・・ゆ、百合さんったら、油断も隙もありませんわね。この後もきっと、私にグイグイくるつもりですわ。ホントにしょうがない人ですわねぇ)
月美は不機嫌そうな顔を作りながらも、非常に軽快な足取りで百合の背中を追いかけていった。幸福感を隠すのが下手なお嬢様である。