102、おそろい帽子
「月美ちゃん、イチゴのジャムいる?」
朝の食卓には、手作りジャムの鮮やかなビンの色がよく映える。
初夏の香りが吹き抜ける初瀬屋のダイニングで、百合は月美にジャムを差し出した。
「わ、私は結構ですわ・・・」
「そうなの?」
「はい・・・」
「おいしいよ~?」
「い、いらないです・・・」
月美はプイッとそっぽを向いてトーストを頬張った。
普段はジャムを塗るのに、百合に薦められると照れてしまい、そのままトーストを食べ始める月美お嬢様を、百合はとっても可愛いと思っている。
「百合ちゃん、私にちょうだい♪」
「はーい、美菜先生」
百合の叔母である美菜は、たびたび初瀬屋に宿泊しているので、一緒に朝食をとることが多い。かなりポンコツな先生なのだが、百合をいつも気に掛けていることだけは事実だ。
さて、今日は日曜日であるが、百合たちには予定がある。
「ねえ百合、今日はキャロリンの家に行くんでしょう?」
銀花がレモンのジャムをパンに塗りながら百合にそう尋ねた。
ちなみに銀花は先程から、美菜先生がスープカップにひじを引っ掛けてこぼさないように横目で見守っている。
「はい。キャロリンさんに呼ばれました!」
「百合は初めてじゃない? 学校の向こう側に行くの」
「初めてです。でも、月美ちゃんが一緒だから、大丈夫です♪」
百合はそう言って微笑んだ。月美は聞こえないフリをしながらパンを頬張っている。
ちなみに、月美はしっかり焼いたトーストよりも、少し温めた程度のふわっとした焼き加減のほうが好きであり、彼女が食べている食パンはミルクのような白さだ。
(月美ちゃんの食パン、月美ちゃんのほっぺみたい♪)
百合は密かにそんな風に思った。
朝食を終えた百合と月美はさっそく出掛ける準備をした。
玄関で靴を履きながら、百合はふと顔を上げた。
まだ午前9時だが、鹿野里には強い日差しが降り注いでいるようで、初瀬屋の前の桜並木には深いグリーンの木陰が点々と続き、蝉の声が降りしきっている。都会育ちの百合の胸が高鳴る光景だ。
「じゃあ、いってきまーす!」
「あ、百合、少し待って」
百合を呼び止めた銀花が、受付カウンターの奥から白くて大きな帽子を持って来てくれた。
「これを被っていきなさい。とても涼しいわよ」
「わぁ! いいんですか?」
「どうぞ。月美が去年帽子を買った時、予備も一緒に買ったのよ」
「ありがとうございます!」
銀花が貸してくれたのは、麦わら帽子のような形をした大きな帽子で、サーモンピンクのリボンがついている。軽くてさらさらしており、百合の頭にぴったりのサイズだった。
(あれ、月美ちゃんの予備の帽子ってことは、似たような帽子を月美ちゃんも持ってるってことかな・・・?)
百合が首を傾げていると、二階から下りてきた月美とちょうど目が合った。月美はライトブルーのリボンがついた白い帽子を抱えており、なんとそれは百合の帽子と色違いだったのだ。月美はまさにその時、頭に被ろうとしていたのだが、玄関の様子を見てすぐに状況を察し、帽子をパッと後ろに隠した。
「月美、恥ずかしがらないで、あなたも帽子被りなさい」
「は、恥ずかしがっていません・・・!」
「そうかしら」
「はい・・・いってきます」
月美は帽子を目深に被って靴を履き、さっさとエントランスを出ていった。
(月美ちゃんと、お揃いだぁ!)
百合は照れながら月美の後を追いかけていったのである。
「おまたせ百合ちゃーん。先生も一緒に行くよぉ! ・・・あれ?」
一歩遅れて、美菜先生が二階から下りてきた。が、既に百合たちの姿はそこにない。
「美菜先生。せっかくの日曜日ですから、今日は初瀬屋でゆっくり休んで下さい。お風呂の準備もしますよ」
「え! 明るいうちからお風呂!? いいんですか! じゃあ、ゆっくりしよ~っと」
銀花は、百合と月美の二人だけの時間を大切にしようと思っているのだ。
まず二人は、通学路を歩いて学校のほうへ向かった。
毎朝歩いているお馴染みの里山の風景だが、登校時とは少しだけ太陽の角度が違うので、桃園商店前の一本道が少し眩しく感じられた。野鳥たちのさえずりと蝉たちの合唱の中で、二人の靴音が小太鼓のように小さく響き合っている。
「月美ちゃん、日焼け止め塗ってきた?」
「と、当然ですわ」
百合の少し前を歩く月美が、帽子のリボンを揺らしながら答えた。今日の月美はブルーを基調に服を選んでおり、空色のスカートの細かいプリーツが、歩くたびにふわっと広がってとても綺麗である。
「日焼け止め、しっかり塗れてるぅ?」
百合は小走りで月美の前へ出て、彼女の綺麗な腕を見ようとした。
「な、何ですの・・・?」
「腕見せて!」
「いやです」
「見ーせて♪」
「い、いやです・・・」
月美はそんな風に拒否しながらも、百合が自分から両腕をパッと突き出して見せてきたので、しぶしぶ右手を前へ差し出した。
腕を見たところで、日焼け止めが塗ってあるかなんて分からないのだが、とにかく百合は月美とコミュニケーションがとれて嬉しかった。
「な、なんで笑ってますの」
「別に♪ 行こうっ」
百合は月美を先導して、弓坂を駆け上がっていった。
月美はそんな百合の背中を見上げ、しばらく目で追ったあと、敢えて小さな歩幅で歩き出した。
(二人きりでお出かけ・・・緊張しますわぁ・・・)
月美はクールさを保つのに必死なのだ。
さて、坂を上り、学校の前に着いてからが本番である。ここから先は、百合にとっては新天地なのだ。
学校のすぐ右には診療所があるが、そのさらに右に小さな道があり、これがこの山の向こうに続いてるわけである。
「月美ちゃん、この道だよね」
「そうですわ」
百合はスカートを揺らして駆け出した。
「んー! 森の香りがする~。キャンプ場の匂い~」
緩やかな上り坂になっている古びた舗装路が、針葉樹林の大きな陰に包まれている。
この辺りからは、道の両側に茂る木々の背が高いので、東の空が狭く見えるが、これから足を踏み入れる新しい世界へのカーテンが開いた瞬間のようにも見えたので、百合はワクワクした。
「こっちって、キャロリン以外に誰が住んでるんだっけ。一年生のアテナちゃん?」
「はい。アテナの家と、あとは柳生先生のご自宅もありますわ」
「あ、柳生先生もこっちなんだ」
柳生先生というのは、学校にいる2人の先生のうち、ゆるふわじゃないほうの先生である。
柳生先生は中高生の数学などを担当する先生なので、百合はまだほとんど彼女としゃべったことはないが、時々廊下の隅っこで「私は・・・まだまだ修業が足りません!」みたいなことを一人でつぶやいている、愉快な先生だ。ちょっと変人だが、真面目で謙虚なサムライみたいな女性であると言える。
降りしきる蝉しぐれに包まれ、百合は目を輝かせた。全てが新鮮に感じられる百合は、ついつい早歩きになっていく。
「こんなにセミが鳴いているところ、初めて!」
「ゆ、百合さん、足元気を付けて下さい・・・」
道には枝や木の葉が散らばっているため、上を見て歩いていると危ないのだ。
「あれ、心配してくれてるの?」
「し、してません・・・! 転んで怪我したら置いていきますわ・・・」
「ふふっ♪」
優しい月美ちゃんのために、百合は気を付けてゆっくり歩くことにした。
しばらくすると、少しずつ景色が開けてきた。
「わぁ、風が気持ちいい~」
山頂とは少し違うが、尾根の辺りに辿り着いたようで、ここからは緩い下り坂になるのだ。坂の上に立つ二人の髪を、空色の爽やかな風が駆け抜けていった。帽子のリボンもふんわり揺れている。
「あ! 家がある!」
「はい。あの派手な屋根がキャロリンさんのお家ですわ」
「へー、眺めいいね、ここ!」
少し坂を下った先に、民家が数件点在するエリアが見えた。ニンジンのような鮮やかな色の屋根や、いくつかの日本家屋が、雑木林と畑の間にちょこちょこと顔を出しているのだ。
さらに、目線を遠くへ移せば、日光を浴びて輝く隣の山があり、その向こうに別の山があるのも見えた。鹿野里を包み込む自然の雄大さを、百合は肌で感じたのだ。
「まあ、ここより山頂のほうがもっと眺め良いですけどね」
「え! そうなの?」
「はい。すぐそこの道を左に行くと、この山の山頂へのハイキングコースですわ」
「おー! じゃあ、行こっか♪」
「そ、そんな時間はありませんわよ。今日はこのまま真っ直ぐ下っていきますわ」
「そっかぁ、じゃあ今度二人で行こうね♪」
「え・・・う・・・」
二人で行こう、という一言は、月美の胸に大きな波紋を広げて響いた。
(い、今・・・なんで「二人で」って言いましたの・・・? 綺麗子さんやキャロリンさんも誘って皆で行けばいいですのに、な、なんで二人きりで・・・? わざと変なことを言って私を困らせようとしますの・・・?)
月美は帽子を深く被り直して俯き、熱くなった頬を百合に見られないようにした。
日光の当たり方がここから少し変わるようで、初夏の日差しが森の中に斜めに差し込んでいる様子に、百合は心を奪われた。
太陽の光が幾筋にも分かれ、クマザサの葉に覆われた斜面を輝かせており、森のずっと奥のほうからも聞こえてくるたくさんの蝉の声が、この山を包む夏の息吹を極めて立体的に感じさせてくれた。
「月美ちゃん! あっちに畑があるよ!」
「し、知ってますわ・・・。そんなにはしゃがないで下さい」
2分ほど坂を下ると、すぐに平地になった。
この辺りはそこそこ高所なので、初瀬屋の周辺とは違った動植物が多く、栽培されている三日月野菜も百合が見たことがないものばかりだ。
「月美ちゃん、これ何の畑?」
「こ、これは、たぶん・・・」
月美は鹿野里については詳しいが、三日月野菜はあまり知らない。鹿野里の大人たちによる三日月農業の研究はまさに日進月歩であり、日々新たな発見があるため、さすがの月美もその知識に追いつけていないのだ。
「パ、パイン系ですわね。果物です」
「へー、これも美味しいの?」
「お、美味しいですわよ、はい」
ついつい知ったかぶりしてしまった。お嬢様の悪い癖である。
(私って、本当に素直じゃないですわね・・・)
目を輝かせながら腰をかがめ、畑を見渡す百合の横顔を見て、月美は胸が痛んだ。
畑のすぐ近く、道の左手に、神社の敷地のようなものが見えて来た。
「あ、ここなぁに?」
「柳生先生のお宅ですわよ」
「え! そうなんだ、広いね」
よく掃き清められた敷地には垣根や柵がなく、自由に出入りしていい雰囲気があり、広い庭には大きな銀杏の木が何本も生えていた。
「神社とか、お寺みたいだね」
「半分くらい正解ですわ。柳生先生のお庭は公園みたいに自由に使っていいことになってますのよ」
「へー!」
「まだ時間ありますし、少し散策してみます?」
「うん!」
キャロリンの家はここから100メートルくらいである。早く着き過ぎても迷惑だから、むしろここで時間を潰すのが正解だ。
「お、お邪魔しま~す」
百合は先生の家の敷地に足を踏み入れた。
地面は丁寧に草取りされており、キャラメル色の土が滑らかに広がっている。大木の根っこが地面から出ている場所があるので、つまずかないように気を付ける必要があるが、百合はついつい駆け出してしまった。鹿野里の子供たちだけが知っている秘密の広場に案内してもらえて、とっても嬉しかったのだ。
「月美ちゃん、あれなぁに?」
涼しい木陰を渡り歩いていくと、お堂のような和風の建物を見つけた。
「あれは道場ですわ」
「へー! 道場!?」
ここは柳生先生が趣味で剣道をやる時に使っている、小さな剣道場なのだ。飾り気はないが、質実剛健な雰囲気の、かっこいい日本建築だ。
「すごいねぇ。ここ、座ってもいいのかな」
「大丈夫だと思いますわよ」
小さな剣道場には縁側があり、ベンチのように自由に座れるようになっている。山登りでちょっぴり疲れた百合たちにぴったりの場所だ。
「よいしょっ。月美ちゃんもここおいで♪」
「う・・・。わ、私は結構です」
「どうして?」
「ど、どうしても・・・」
「ほら、おいで♪」
「うぅ・・・」
自分だけ立っているのは不自然すぎるので、月美は仕方なく百合の隣に腰かけることにした。
しかし二人の間にはポメラニアン二匹分くらいの距離が空いている。
「10分くらい休んでからキャロリンさんの家行こうか」
「そ、そうですわね」
さわ~っという、風に揺れる葉のささやきが、爽やかに駆けていく。
「キャロリンさん、何の用事で私たち呼んだんだろうね」
「・・・な、夏祭りに関する打ち合わせ、かも知れませんわ」
「でも、それなら学校で話せばいいのに」
「そそ、そうですわね。単に遊びたいだけかしら」
「そうかもね~」
言うまでもなく、月美はこの時かなり緊張していた。
二人は確かに、初瀬屋で一緒に暮らしているが、お互いの部屋で遊んだこともないし、お風呂も当然別のタイミングにしている。だから、二人きりでゆっくりしゃべる機会は滅多にないのだ。
百合は空を見上げながら縁側に手をついて深呼吸した。
(んー、月美ちゃんに、何かいたずらしてみたいなぁ♪)
百合はくすっと笑った。
クールな月美お嬢様は、とにかく友人同士の親しいコミュニケーションに慣れておらず、ちょっと触れ合うだけで赤面してくれる可愛い子である。百合は、月美のささやかな恋心に全く気付いていないので、無邪気にイタズラが出来てしまうわけだ。罪な女である。
「月美ちゃん、帽子、おそろいだね♪」
「だ、だから何ですの・・・?」
「可愛い帽子だよねぇ~」
百合は帽子を脱ぎ、リボンを触ったりしながら、どさくさに紛れて月美のほうへ寄っていった。
「ねえ、この帽子、ホントにデザイン一緒なの? 色が違うだけ?」
「た、たぶん・・・」
「ふーん。よく見るとここにロゴマークみたいなのついてるね♪」
「そ、そうですわね・・・」
百合はハムスター一匹分くらいの距離まで月美に近寄った。
(な、なんでそんなに近づきますのぉお・・・!?)
月美は非常に焦ったが、逃げ出すタイミングを逸してしまい、古代エジプトの座像のように固まってしまった。
緊張感とときめきが織りなす不思議な沈黙が、二人の目に映る景色をちょっぴり幻想的に変える。
繊細で清らかな空からはピアノの音色が聞こえてきそうだし、木漏れ日に手をかざして風を撫でれば、ハープの音色がしそうだ。
この幸せな空気感に乗じて、百合はついに、あるイタズラを実行することにした。
「んー、なんか、眠くなってきちゃったな~」
百合はそう言って、少しずつうとうとしていった。もちろん演技であるが、月美にはその判断がつかない。
「う~ん」
百合は月美にバレないようにゆっくりと傾いていき、やがてピサの斜塔くらいの角度になった時、二人の肩がそっと触れ合ったのだ。本当は肩に完全にもたれ掛かって頬を押し当てるつもりだったのだが、近づきすぎたためこんな感じになったのだ。
月美はもう、頭がどうにかなってしまいそうだった。
(ななな、な、なんで寄りかかってきましたの!? そ、そんなに眠いですの!? わ、わた、私こんなの初めてですのよ! ど、どなたか助けて! いや、やっぱり誰も来ないで! あぁ、半袖だから、腕が当たります! ちょ、ちょっとぉお!!! 百合さん起きてぇええ!!!)
百合の温もりと柔らかさを感じて、月美は目を白黒させた。
(どどど、どうすればいいんですのぉおお!!!)
月美にとって永遠とも思える数分間であった。
百合の髪が自分の背中にちょっぴりかかっているのも感じられて、月美は体がじんじんしてしまった。
声を掛けて起こすべきかも知れないが、何と言えばいいか分からないし、太ももの辺りをそっとつんつんして目覚めさせる方法もあるが、それも恥ずかしすぎる。月美は完全に混乱した。
(か、軽く肩を揺らしてみようかしら・・・)
ついに月美が意を決し、優しく動いてみようとした、その瞬間である。驚くことに、百合がパッと顔を上げた。
「そろそろ行こっか♪」
「ひっ・・・!」
百合はそう言って、何事も無かったかのように縁側から腰を上げ、帽子を被ってにっこり笑ったのだ。
(どうかなぁ? 月美ちゃん、びっくりしてくれたかなぁ?)
百合は月美の表情を覗き込もうとしたが、俯いてしまった彼女の顔は帽子に隠れてしまい、見えなかった。しかし、下を向いているということは、一応恥ずかしがってくれたということに違いないと思った百合は、「キャロリンさんの家、あっちだよね! レッツゴー!」と言って、一足先に駆け出したのだった。
残された月美の心の内は、大騒ぎである。
(も、もーう!! 百合さんったらぁ! 本当に寝ちゃったと思いましたわよぉおおお!!! うぅうううう!!! は、恥ずかしいですわぁああ!!! こ、こういうイタズラはやめてくださぁあああい!!!)
イヤがっているようにも見えるが、今の月美がとってもハッピーであることは言うまでもない。
最高に幸せな、忘れられない夏の思い出が、さっそく一つ出来てしまったわけである。