100、保健だより
雨上がりの昇降口に、山の緑の香りが吹き抜けている。
今日の百合たちは5時間授業なので、中高生のお姉さんたちより先に帰路につくのだ。まもなく梅雨が明けるようで、校庭を照らす放課後の日差しも、少し夏めいている。
「あっ」
校門を出る頃、綺麗子が何かを思い出して立ち止まった。
「綺麗子ちゃん、どうかした?」
「んー、いや、何でもないわ! 行きましょ」
綺麗子は体操袋を頭の上に乗せてバランスを取りながら再び歩き出した。
(算数のテストの答案、ロッカーの上に置いて来ちゃったけど、まあいっか)
世間のイメージ通り勉強が苦手な綺麗子は、今回のテストで100点満点中20点という輝かしい点数を獲ってしまったわけだが、その用紙を教室のそこそこ目立つ場所に置き忘れてきてしまったのだ。もう中高生メンバーたちの授業が始まる時間だし、取りに戻るのは面倒だったのでそのまま帰宅することにしたのだ。家に持って帰りたくない酷い点数だったから丁度いい。
小学1年生のアテナちゃんは学校よりも東側の山中に住んでいるから、学校を出るとすぐにお別れである。彼女は「また明日」と言ってお辞儀をし、クールに去っていった。6才とは思えないとんでもない落ち着きである。
5年生のルネは今日も車椅子だが、体調は良好なようで、自分でタイヤを回している。車椅子の操作は腕だけでなく全身の筋肉を使うらしいので、もう少ししたら誰かが手伝ってあげる予定である。
「あっ」
弓坂を下り始めた頃、ルネが何かを思い出して車椅子を止めた。
「ルネちゃん、どうかした?」
「んー、どうしようかなぁ・・・」
ルネはポケットから銀色のボールペンを一本取り出した。
「これ、舞鶴先生のペンなのよ。昼休みに診療所行った時、間違えて持って来ちゃった・・・」
「次会った時に渡せばいいんじゃない?」
「まあ、そうだけど、気になるなぁ・・・」
舞鶴先生というのは、鹿野里に常駐する唯一のお医者様であり、学校のすぐ隣の診療所にいるお姉さんだ。ルネはすぐにでも坂を引き返し、診療所へ行きたそうな顔をしているが、車椅子で坂を行き来するのは大変だ。
「私が届けてきてあげようか」
「え?」
名乗り出たのは百合である。
「私、舞鶴先生にまだ会ったことないの。挨拶できるいいチャンスかなと思って」
「い、いいの?」
「オッケーだよ~♪」
「じゃあこれ、お願い!」
「はい!」
百合はボールペンを受け取った。
「じゃあ私とルネは先に帰っちゃうわね! 月美はどうする?」
綺麗子に尋ねられて、月美は少々慌てた。
月美は常に百合と一緒にいることを望んでいる少女だが、百合と一緒に行動してもお嬢様キャラが維持されるかどうか、毎度精査する習慣を持っている。月美のお嬢様的勘によると、今回の件はたぶん、百合と一緒にいてもオッケーな雰囲気だ。
「ま、まあ、百合さん一人では不安ですからね。頼りになる人物が必要ですわね」
「月美ちゃん、一緒に来てくれるの?」
「え、ええまあ・・・」
「やった~♪」
「迷子になられたら困りますからね。仕方ないですわ」
というわけで、百合と月美は診療所へ向かうことになったのだ。
鹿野里診療所は学校のすぐ南側にあり、坂のほうから見上げると学校の右隣りに見える施設だ。校舎の非常口から簡単にアクセスできるため、正式に保健室の役割も果たしている。
「ねえ月美ちゃん。舞鶴先生ってどんな人?」
「いい先生ですわ。ちょっと変わった人ですけどね」
「へ~、変わった人かぁ」
「はい。いつもほんわかした雰囲気なのは美菜先生と同じですけれど、かなり腹黒くて常に何か悪い事を企んでいるような信用できない雰囲気が漂っている点で決定的に違いますわね。でもいい先生ですわよ」
全然いい先生という感じがしない。
立葵やクレマチスが咲く小綺麗な庭の向こうに、診療所は佇んでいる。
建物の一部が昭和時代のままであり、剥がれかけの白いペンキが味わい深いが、車椅子用のスロープなど、現代的な設備も整えられているようだ。山の中腹にあるこの診療所へ来てくれた鹿野里住人へのせめてもの誠意といった感じかも知れない。もう少し坂の下のほうに診療所があれば便利なのだが、学校の隣接施設として機能しているから仕方ないようだ。
「こ、こんにちはー」
「失礼しますわ」
真鍮製のカウベルがコロンコローンと鳴るお洒落なドアを開けて、二人は診療所に足を踏み入れた。
一方その頃、ルネの車椅子を押しながら麓の道を進んでいた綺麗子は、早くも家に辿り着いた。ちなみに綺麗子の家は鹿野里に古くからあるそこそこ立派な和風のお屋敷だ。
「ただいま~! 行ってきま~す!」
「ちょっと綺麗子、どこ遊びに行くか言いなさいっていつも言ってるでしょ」
ランドセルを玄関に放り出してさっさと出ていこうとする綺麗子を、エプロン姿の母が引きとめた。
「ルネと遊びに行くのぉ。たぶん神社のほう」
「チャイムまでに帰って来なさいね」
「は~い」
「あと、最近テストの答案見せないけど、テストが返ってきた日はちゃんと見せなさいね」
「え! あ~・・・」
「今週はテストなかったの? 先週もなかったわよね」
「な、なかったよ~! ここ一か月は全然~」
「じゃあ、テストがあったら必ず見せなさいね」
「はいぃ~」
綺麗子は考えている事が顔に出るタイプなので、母に怪しまれる前にさっさと玄関の外へ出ることにした。残念な点数をとってしまった時は大抵、週末に母から特別な課題を出されるのだ。算数ドリルを10ページ、みたいな過酷な課題である。
(土日を算数ドリル三昧で過ごすなんて最悪だわぁ~・・・)
20点を獲ってしまったことは絶対に秘密にしなければならない。
「あなたが百合ちゃんかぁ♪ 噂通り、べっぴんさんやなぁ♪」
「い、いえいえ・・・」
「全然診療所来てくれへんから、はよ怪我せんかなぁと思ってたところや~♪」
「あはは・・・!」
関西弁でブラックジョークをしゃべるこのお姉さんが、鹿野里にいる唯一のお医者さん、舞鶴先生である。なかなかの変人だが、里の住人からは信頼されているお姉さんだ。
百合と月美が招かれた診察室は、コーヒーの良い香りが漂っており、年季が入ったスピーカーからピアノジャズも流れていた。まるで喫茶店である。
ルネが間違えて持っていってしまったボールペンを返すと、舞鶴先生は「わざわざおおきに♪」と言ってそれを白衣のポケットに収めて微笑んだ。先生は笑顔がとても綺麗である。
「届けてくれたお礼に、何か飲み物出したるわぁ♪」
「え、いいんですか」
「ええで~♪ 消毒液でええか?」
「え!?」
「冗談やんかぁ♪」
舞鶴先生は冷蔵庫からオレンジジュースを出し、グラスに注いでいった。
「そういや、神社の近くにカフェオープンしとったなぁ。二人とも、もう行った?」
「行きましたわ。ローザ様という女性が一人で切り盛りしてますのよ」
「へ~、うちも今度お邪魔しよ~」
「ローザ様は図画工作の教室も近々始めるかも知れないみたいですわ」
「そうなんやぁ、多趣味な人やなぁ」
舞鶴先生と月美が会話している間、百合はなんとなく、先生のデスクの上に置かれたコンピューターの画面を眺めた。そこには、簡単なイラスト付きの記事が表示されており、タイトルには『鹿野里保健だより 第100号』と記されていた。
「これって舞鶴先生が書いてるんですか?」
「そうやでぇ。体調管理に関する週刊記事や」
「へー、すごーい」
感心する百合の横で、なぜか月美が得意げに胸を張った。
「これ、いつも初瀬屋のロビーに掲示してますわよ。私は毎週欠かさず読んでいますわ」
「へー! そうなんだ」
「熱中症対策とかは百合さんも読んでおいたほうがいいですわよ」
「そうする~」
さすが月美ちゃんである。
「先生これ、今回が第100号なんですか?」
「せやなぁ」
「100回も書いてるなんて、凄いですね」
「凄いのはうちやなくて、ずっと読んでくれとる人たちや。うちは好きで書いとるからなぁ♪」
先生は「はい、濃塩酸♪」と言いながらオレンジジュースを出してくれた。京都風の物腰だが、冗談の頻度は大阪人並みである。
「体調管理の記事をぜ~んぶ書き終えて完結したら、また別の記事を書き始めるつもりや。うちはこれ、ずーっと続けるつもりやで♪」
「へー! 毎週ですか!?」
「あ、忙しい週は普通にサボるで~♪」
舞鶴先生はコーヒーカップ片手に、陽だまりの猫みたいな顔で笑った。やる気だけは無限にあるようなので、心が広い鹿野里住人はこれからも彼女の執筆活動を末永~くお見守り頂きたい。
しばらくして、先生は何かを思い出したように立ち上がった。
「そういや、大学の後輩が論文のデータ集めしとってなぁ、二人に答えて欲しいアンケートがあるんや♪ すぐ終わるから協力してや~」
「え、私もですの?」
「二人ともや」
医学ではなく、心理学のデータ集めらしい。
百合と月美は、用紙に印刷されたたくさんの写真の一つ一つに対し、「見覚えがある」「見覚えがない」の二択で答えたあと、写真の印象を一言で記入していくという、不思議な作業をすることになった。
床にフライパンが一つ置かれたアパートの一室、尖塔が天を突くような大きな聖堂、機械仕掛けの綺麗な白馬・・・実に多様な写真が並んでいた。
もちろん、百合は初めて見る写真ばかりなので、全て「見覚えがない」にチェックを入れたが、中にはなんとなくノスタルジーを感じる写真もあったから、一言記入する欄には丁寧に印象を書いておいた。たぶん、デジャブとかの研究に違いない。
「はい、おおきに♪ 月美ちゃん、相変わらず字ぃ綺麗やなぁ」
「ま、まあこれくらい普通ですのよ」
先生は妙に真剣な眼差しで二人のアンケートを眺めた後、ニヤっと笑って、それを大事そうにプラスチックの書類ケースに入れた。本当に変わった先生である。
「ところで舞鶴先生、今回の保健だより、初瀬屋の分は私が今頂いていきますわ」
「あ、そうしてくれると助かるわぁ♪ すぐ印刷するわぁ」
いつもは舞鶴先生が直接鹿野里の各所を巡って保健だよりを配っているのだが、月美が一枚貰っていけば少しはその手間が省けるわけだ。
「ついでに、山田さんのお家にも持っていってくれへん? 綺麗子ちゃん家」
「もちろんですわ」
初瀬屋から綺麗子の家へは徒歩3、4分であるから、お安い御用である。
「では、私たちはそろそろ帰りますわ」
「は~い♪ いつでも怪我しぃや~♪」
百合と月美は2枚の保健だよりを持って診療所を後にしたのだった。
やがて、鹿野里に夕暮れが訪れる。
同学年のルネと遊び終えた綺麗子は、スキップしながら家に向かっていた。
ちなみに、今日の綺麗子とルネは、ろう石と呼ばれるチョークに似た落書き用の筆記具で石段に絵を描いて遊んだ。
神社に続く石段に落書きしたら怒られそうなものだが、鹿野里の住人は皆優しいので、危険な遊びをしない限り絶対に叱られない。
そもそも、石段のお絵描きスポットは、神社で巫女をしている千夜子という高校生のお姉さんが教えてくれたのだ。千夜子は、担任の美菜先生よりもしっかりしている賢い生徒であり、言葉遣いが少々ストレートすぎるという難点があるが、年下に対して非常に寛大である。
(ん・・・? 誰かいるわ)
綺麗子の家の前に、二人の人影が見えた。目をこらしてみると、どうやらそれは百合と月美であり、玄関には綺麗子の母の姿も見える。百合が何かを手渡そうとしているようだ。
「あ!!!」
教室のロッカーの上に忘れてきた答案用紙に違いない、そう思った綺麗子は血相を変えて百合たちに駆け寄った。ちなみに綺麗子は50メートル8.7秒であり、小柄な5年生の割にはなかなかの俊足である。
「百合ぃー! 月美ぃー!」
「あ、綺麗子さん。おかえり~」
「それ、もらったー!!!」
綺麗子は百合が持っていたプリントが母の手に渡る直前にそれを奪い取った。そして「やっほーい!」などとハイテンションに騒ぎながら玄関に飛び込み、階段を駆け上がったのだ。
「ぎりぎりセーフ!! 危ない危ない~♪」
自分の部屋のベッドに飛び乗った綺麗子は、プリントをベッドの下にサッと隠し、大の字に寝転んで満足げに笑ったのだった。
「保健だより、すごく人気だね」
「・・・そ、そうですわね。綺麗子さんがあんなに喜ぶなんて意外ですけど」
「実は健康志向だったのかな。あ、千夜子さんだっ」
綺麗子の家の前に、学校帰りの千夜子がやってきた。千夜子は綺麗子の母に「こんにちは」と言ってお辞儀をし、カバンからプリントを一枚取り出した。
「綺麗子の忘れ物です。お節介かとは思いましたが、お持ちしました」
「まあ千夜子ちゃん、わざわざありがとう!」
「いいえ」
「あら、テストの答案?」
「はい。残念ながら20点のようです。先週のテストは15点でしたから、健闘したほうなんですけどね」
この週末の綺麗子が、算数ドリル三昧で過ごしたことは言うまでもない。