1、初恋
どこまでも広がる、青い海である。
レモン色の太陽が甘酸っぱく輝きながら、サラサラと波間に揺れていた。
大型クルーズ客船の広い甲板には、春の爽やかな潮風が吹き抜けている。その風に長い黒髪をふんわり泳がせながら、月美は一人で紅茶を嗜んでいた。
「ん~、美味しいですわ♪」
黒いドレスに身を包んだ彼女は、ついこの間まで中学生だったとは思えない、大人びた風貌の、美しいお嬢様だ。
「ダージリンのいい香り。私の淹れ方が上手かったのかしら」
月美は涼しげな顔で自分の紅茶を褒めた。彼女は自分のことをクールで高貴な女だと思っており、誰にも見られていない場所でも、いつもこのように格好をつけている。
「青い海に美しい少女。はぁ~、絵になりますわねぇ」
月美はウットリと目を細めながら、水平線の彼方を眺めた。変人である。
「それにしても・・・」
月美はそっとティーカップを置いて甲板をぐるっと見渡した。
「本当に誰も来ませんわね・・・」
空っぽの白いテーブル席たちが、波音の中で静かに太陽を浴びている。
「皆さん、劇場に行っちゃいましたのね・・・」
新入生のほとんどは、クルーズ船内にある劇場に集まり、上級生たちが催す歓迎セレモニーを楽しんでいるのだ。
「・・・別に、寂しくなんてないんですのよ。お嬢様は群れませんから」
自由参加と言われれば参加しないのが月美の生き方である。彼女が理想とするお嬢様像は、誇り高き一匹狼なのだ。
「ん~、クッキーも美味しいですわ」
大人っぽいビターココアの風味が、月美の口いっぱいに広がった。
学園島到着まではまだ少々時間があるようなので、もう少しここで待ってみようと月美は思った。月美は通りかかった誰かの憧れの的になりたくて仕方がないのだ。
しばらくすると、何かの気配が月美に近づいてきた。
すぐに月美は、自分ができる最高にクールな横顔を作り、訪問者の反応を耳で探った。しかし、聞こえてきたのは靴音や感嘆の声ではなく、ちょこちょこと甲板を飛び跳ねる可愛らしい爪音だった。
「・・・あら」
やって来たのは、小さな青い鳥だった。
「・・・なんだ、鳥でしたの。格好つけた私が馬鹿みたいですわ」
「ピヨ」
「ピヨじゃありませんわ・・・」
フリルの付いたひらひらのドレスが珍しいのか、青い小鳥は首を傾げながらぴょんぴょん跳んで月美のそばに寄って来た。
「・・・ちょっと。来ないで下さいます? 私、動物は嫌いですのよ」
ちなみに月美は今日、コンタクトレンズを入れ忘れており、青い小鳥がセロハンテープの台みたいに見えている。しっかり者のようでいて、実は結構ポンコツなお嬢様だ。
「・・・なんでこっちに来ましたの?」
「ピヨ」
「ピヨじゃないですわ・・・」
青い小鳥はテーブルの下から月美を見上げてきた。どうやら月美が飲んでいる紅茶に興味があるらしい。
「これは人間の飲み物ですのよ。あっちいって下さい」
月美は知らん顔をしてティータイムの続きを始めた。
潮騒を伴奏に、ウミネコやユリカモメたちの楽しそうな歌声が青空を飛び交う。
そしてその合間に、劇場のほうから月美の同級生たちの歓声が微かに聞こえてきた。
「んー・・・」
月美はそっと自分の足元に視線をやった。青い小鳥はまだそこにおり、月美のドレスの裾から顔だけ出して彼女を見つめていた。
「きょ、今日だけですわよ・・・!」
月美は二杯目の紅茶用に残しておいた美味しい天然水を紙コップに注いだ。半分くらいで充分だとも思ったが、底までくちばしが届かないと可哀想なのでたっぷりと入れてあげた。
「ほら、有難く飲みなさいね」
「ピヨ!」
床に紙コップが置かれると、青い小鳥はピョンピョン跳ねてそれに近づき、まるで水遊びをするように幸せそうに水を飲み始めた。海上には真水が無いので、鳥たちは案外、喉が渇いているのかも知れない。
「・・・あなたはどうして空を飛びませんの? 空にはたくさんお友達がいますのに」
月美は、一人ぼっちの小鳥に今の自分の姿を重ねてしまい、そんな風に声を掛けた。しかし、キラキラと水しぶきを上げながら喜ぶ小鳥の耳には、彼女の言葉なんか入らない様子だった。実に無邪気である。
(まったく、世話が焼けますわね)
クールな月美も、この時だけはちょっぴり微笑んでしまったのだ。
するとその時、クルーズ船のフロアに通じる銀の扉がゆっくり開く音がした。
(だ、誰か来ましたわ!)
待ちに待った瞬間である。扉を開けられる巨大な鳥でない限り、今度こそ人間であるはずだ。すかさず月美はお嬢様フェイスを作り、ティーカップを上品に口元に持っていった。
(さあ! 最高に美しい私をご覧あそばせ!)
変人である。
沈黙を満たす波音と胸の鼓動が、清々しい青空をより一層きらきらさせる。
月美は誰かの熱い視線を感じている時が一番幸せだ。
空気の読めない青い小鳥が、いつの間にか月美の靴の上に乗って居眠りを始めた頃、ついに沈黙が破られる。
「あ、あの・・・!」
鈴が鳴るような澄み切った声が、月美の耳をくすぐった。
「こんにちは・・・!」
月美はちょっとピクッと動いてしまったが、まだ返事はしなかった。胸の高鳴りを必死に抑えながら、格好つけ続けているのだ。
声の主がゆっくり近づいてくる気配がする。遠慮がちな靴音が、なぜか月美の耳たぶや頬の温度をどんどん上昇させていくので、月美は大急ぎでクールな台詞を考えることにした。高校生になった記念すべき第一声は、とにかく落ち着いた、大人っぽいものでなければならない。
コホン、と小さく咳をした月美は、遠い目をしながらゆっくり口を開いた。
「いま私、お茶を飲んでいますのよ。少し静かにして下さいます?」
決まった。
究極に硬派で美しいお嬢様台詞、ここに誕生である。ちょっと冷たく突き放すような態度がカッコイイと思っているアホな月美は、自分のあまりのクールさに惚れ惚れした。足の先に小鳥を乗っけた女の言う台詞とは思えない。
さて、これに対する少女の反応は、ちょっと意外なものだった。
「わぁ・・・!」
少女はまるで虹でも見つけた時のような小さな歓声を上げたかと思うと、月美のテーブルにパタパタと駆け寄って来たのである。
「あの、あの! 私、百合って言います!」
「わぁ!」
想像以上のハイテンションに、月美のほうがビックリしてしまった。
「今年入学する、一年生です! 私の顔、ちゃんと見て下さい!」
「か、顔!? なんですの急に・・・?」
太陽が透き通る白いワンピース姿の少女が、月美の視界で、大輪の百合の花のように清らかに輝いた。
百合という名のその少女は、月美の手でも握りにくる勢いで接近してきたが、急に我に返ったらしく、照れ笑いしながら二、三歩下がった。
「ごめんなさい。でも私、あなたみたいなクールな人に会いたかったんです♪」
「・・・そ、そうですの?」
そう言って貰えると月美も嬉しいが、もう少し落ち着いて欲しいところである。月美の足元の小鳥も、「なんだなんだ?」みたいな顔でテーブルの下から出てきた。
すると百合は、ここで妙なことを月美に尋ねてきたのだ。
「あなたは、私の声を聞いても、何ともなかったんですよね?」
「え?」
緊張して顔が熱くなったが、なんとかクールさは保った。
「私の顔を見ても、ドキドキしないんですよね?」
コンタクトレンズを着けていないので、顔はほとんど見えていない。
「・・・もう。あなた何をおっしゃってますの? 私は別に何ともありませんわよ」
なんだかよく分からないが、月美はとりあえず、格好つけながらそう答えたのだった。
この回答が、月美の運命を大きく左右することになったのである。
「私嬉しいです。とても・・・」
百合は涙ぐんだ声で喜んだ。変人には変人が寄ってくるのかも知れない。足元の青い小鳥も首を傾げているが、とりあえず月美のクールさが相手に伝わったことは確からしいので、月美の高校生活のデビュー戦は一応成功したと言えるだろう。
せっかくだから、美味しい紅茶を淹れて、もてなしてあげようと月美は思ったが、残念ながらもう沸かす水がなかった。さっき青い小鳥にあげたのが最後だったのである。
「・・・コホン。同級生の美しい知り合いが出来て喜ぶのは勝手ですけど、私はそんなにフレンドリーな女じゃありませんのよ。硬派で高貴なお嬢様ですからね」
「はい♪」
「向かいの椅子に腰かけてもらって別に構いませんけど、お紅茶とかはごちそうしてあげませんわよ」
「座ってもいいんですか! ありがとうございます♪」
「え・・・」
かなり冷たく接しているのに、百合はなぜかとっても嬉しそうである。
(変な人ですわねぇ・・・)
正面の席に腰かけた百合の姿は、月美の目にはぼんやりとしか見えない。
遥かな水平線の淡いブルーを背に、春の日差しの中で微笑む百合は、ウエディングベールに包まれた水彩画の乙女のように儚げで、懐かしいような、切ないような、不思議な感覚を月美に抱かせた。
「わぁ、かわいい! この子、あなたのお友達ですか?」
「え?」
いつの間にか青い小鳥が、馴れ馴れしく百合のワンピースの裾で遊び始めていた。
「ち、違いますわ! 私が紅茶を飲んでいたら、勝手に近寄って来たんですのよ」
「ペットじゃないんですか?」
「ぜ、全然違います! 私クールなお嬢様なので、動物なんかに興味ないですから」
「ふふっ。そうなんですか?」
「はい。興味ありません」
百合は清楚にクスクス笑ったあと、「かわいい♪」と言いながら小鳥の頭を指先でなでなでした。どうやら百合は動物が好きらしい。小鳥も嬉しそうにピヨピヨ鳴いた。誰にでも懐く鳥である。
その時、クルーズ船の白いスピーカーから、ゆったりとしたクラシック音楽が流れ始めた。月美も大好きなパッヘルベルのカノンである。
『まもなく当船は女学園島に到着いたします。一年生の皆さんは、お降りのご準備をお願いします』
船内放送の美声のお姉さんによれば、約二時間に及んだクルーズ客船の旅もようやく終わるようだ。
「わぁ、見て下さい! 島が見えますよ! ほらほら!」
立ち上がった百合が、月美を手招きしながら甲板の縁へ駆けだした。自分の高校生活の舞台となる島なので、月美もすぐに見に行きたい気持ちだったが、あえて一息入れ、「まったく、しょうがない人ですわねぇ・・・」とつぶやいてからティーカップを置き、ゆっくり立ち上がることにした。お嬢様の美意識は高い。
鮮やかなアクアブルーの向こうに、洋菓子のショーケースのような美しい街並みが現れた。
赤レンガの西洋風建築と新緑の木々が、港付近のみならず小高い山肌にも、階段を作るように仲良く立ち並び、その所々から大きな聖堂や時計塔がすらりと顔を覗かせている。こんがり焼けた赤レンガの屋根の上では太陽が弾み、桜色の広場では花びらが風に踊って、遠い緑の丘ではたくさんの風車が手を振るように回っていた。不思議なノスタルジーとファンタジックな魅力に包まれた、テーマパークのようなこの街が、これから月美たちが生活する女学園島だ。
(・・・全然見えませんわ)
月美は早くコンタクトレンズを入れたほうがよい。
「すごーい、綺麗ですねぇ!」
百合の声に我に返った月美の関心は、再び百合に向けられた。
(・・・不思議な人ですわね。超クールな私相手に、こんなにはしゃいで・・・)
月美は何気なく百合のすぐ隣りに立ち、銀色のフェンスにそっと手をついた。並んでみると、百合は結構スタイルが良く、二人の身長はほぼ同じだった。青い小鳥も、空になった紙コップを被って遊びながら、よちよち歩きで二人についてきた。
(・・・なんだか、いい香りがしますわ)
ココナッツのように甘く、桃のようにジューシーで、百合の花のように清らかな香りがする。月美は急に顔が熱くなってきた。
(な、なんで私、緊張してますの?)
港の近くを旋回するユリカモメたちが甲板の上をゆっくり横切り、パッヘルベルのカノンがそろそろサビを迎えようというタイミングで、月美はなんとなく、百合の横顔を覗き見てみることにした。コンタクトレンズは着けていないが、この距離ならしっかり見えるだろう。
「あ・・・」
月美は思わず声をもらした。
時間が止まったように感じられた。
波の音も、鳥たちの声も、頬を撫でる潮風も、みんな月美の意識から消えた。
その空っぽになったハートを一瞬にしていっぱいに満たす圧倒的な存在感が、月美の瞳を釘付けにした。
(な、な・・・)
クールな女を気取っていた月美は、もうここにはいなかった。
(な、何なんですの!? この人!?)
そう。実はこの百合、この世のものとは思えないほど美しい少女だったのだ。
百合は幼い頃から性別を問わず多くの人からモテてしまい、まともな友人関係を築けずに暮らしてきた、ちょっと寂しい少女なのである。だから、自分に恋をしないような硬派な人間をずっとずっと探し求めていたのだ。
「そう言えば」
「ひっ!」
百合は艶やかなポニーテールをふわりと揺らしながら月美と向き合った。
「あなたのお名前、なんとおっしゃるんですか? 私と同級生、なんですよね?」
正面から見た百合の笑顔は、朝日に照らされた真珠のように神々しくて、月美は頭がくらくらした。星座の世界のようにきらめく百合の瞳の中で、月美はただ迷子の子猫みたいに、自分がいつの間にか足を踏み入れていた運命の嵐に怯えていた。
「つ、つ、月美ですわ!」
先程までとは打って変わって余裕が無くなった月美は、上ずった声ですぐにそう叫んだ。
「月美さん、ですか。綺麗なお名前ですね♪」
百合のまっすぐな眼差しが、穏やかな声が、甘い香りが、月美の知らない熱い感情を打ち上げ花火のスターマインのように激しく湧き起こし、それが全身をゾクゾクと駆け巡る。もう月美の心臓は、彼女の顔を真っ赤にするためだけにせわしなく働く、壊れた機械になってしまった。
「・・・本当に良かった。月美さんみたいに、私と普通に接してくれる人にお会いできて♪」
月美のことをクールなお嬢様だとすっかり信じてしまっているピュアな百合は、月美の顔色の変化になど全く気付かないのだった。百合もなかなかの天然である。
「これからよろしくお願いしますね、月美さん♪」
体が動かない。頭が回らない。声も出ない。
しかし月美は返事をしなければならないのだ。でないと、今の月美が、全然クールな女じゃないことがバレてしまう。
「あ、うぅ・・・あの・・・」
月美はくるりと百合に背中を向けた。
「べ、別に・・・知り合いくらいになら、なってあげても、か、構いませんのよ・・・!」
お嬢様根性を振り絞って必死に答えたその声は、ちょっぴり震えていた。
(私、どうしちゃいましたの!? なんでこんなに顔が熱いんですのぉ・・・!? 相手は・・・相手は女の子ですのにぃ・・・!!)
紙コップからひょっこり出てきた青い小鳥は、いつの間にか真っ赤になっている月美の顔を見上げ、また首を傾げたのだった。
「ありがとうございます! 月美さん♪」
二人を包み込むようにそっと吹き抜ける穏やかな海風の中で、百合は天使のように微笑んだ。
初めての恋に落ちてしまった不器用なお嬢様を乗せて、クルーズ船はついに、花の香りがいっぱいに満ちた、乙女たちの世界にたどり着くのだった。
読んで下さってありがとうございます!
完結まで責任を持ってがんばりますので、
よろしければ、おつきあいくださいね*