八年目の枇杷
海風に窓のレースが翻り、凪の終わりを教えてくれる。
窓枠の向こうは、よく茂った枇杷の枝葉に縁取られ、一幅の絵画に見えた。
濃い緑の隙間から海が覗く。薄青い布にビーズをばらまいたように、遠くできらめいていた。
◆
報せを受けたあの日から、魚を口にしていない。
遠くの海のできごとだった。船体と乗組員は、引きあげられることなく、すべてが終わった。
あの人はあの後、何に食われたのか。
深く冷たい水底に沈んで、泥に埋もれた貝に食われ、忸怩たる思いを抱えたまま、永劫の眠りの中、うなされているのだろうか。
……そんな筈はない。
小魚に食われ、その小魚は一回り大きな魚に食われ、その魚は海鳥に食われ、いつかここに帰って来る筈と、ずっと待っていた。
報せを受けた次の日に、枇杷の種子を窓の下に埋めた。
艶やかに光る黒い粒は、あの人が居ないこの庭で芽吹き、すくすくと育った。
新しい葉は淡い緑色で、和毛に包まれ、日の光を受けて自ら発光するようだった。
帰ったら喜ぶだろうと、あの人が好きだった枇杷を育てて待つことにした。
◆
新しい葉は、やがてその色を深め、厚く固く丈夫になった。
細くしなやかだった幹は、一年経る毎に逞しくなり、嵐にも負けなくなった。
枝葉を伸ばし茂らせて、窓辺を覆い尽くしても、あの人の好きな枇杷を切るに忍びなく、樹の気の赴くまま、その生のままに伸ばした。
枇杷の固く粘り強い性質は、あの人によく似ている。
一度だけ、訪ねてきた女があった。
家には上げず、枇杷の若木へ案内し、その緑陰で少し話した。
客は、パールピンクの唇から身勝手な言葉を吐き出し続けた。
別れ際、聞いてみた。
「これが何の木か、ご存知ですか」
「……いいえ」
「枇杷ですよ」
「そうですか」
この問答に何の意味があるのか。客は訝し気にしていたが、ついにその問いを口にしなかった。
あの人は、枇杷が好きだった。
招いた覚えのない客は、それを知らない。
教えてやる義理もなく、それきり二度と姿を見せなかった。
◆
この冬、初めて花が咲いた。
小さなつぼみは、茶色い毛布に包まれていた。毛布がゆるりと解け、白い五枚の花弁が開く。
一重の小さな花を見て、薔薇の仲間であることを思い出した。
偏にあの人が帰る日を夢見てきた。
冬空に咲いた薔薇の仲間は、メジロやヒヨドリを呼び、甘い蜜をたっぷり与え、寒さに震える鳥たちを養っていた。
小鳥は花に嘴を刺し込んで、一心に蜜を味わい、窓辺で待つ者にも気付かず去って行く。
寒さがゆるむ頃、花が散り、代わりに小さな実をつけた。
◆
青葉茂れる初夏の風、深い緑の木を揺らし、たわわに実る初生りの黄金の果実に撓る枝。
涙の形の果実。
あの人が、あんなに好きだった枇杷。
こんなに姿は違っても、誰かを傷つける棘を持たなくても、枇杷はやはり薔薇の親戚だった。
夏至を前にした強い日差しの中で、凛として背筋を伸ばし、あの人のようにこの庭に佇んでいる。
葉陰でアルバムを開き、一葉、一葉、枇杷に見せるようにページをめくる。
悲しい報せより以前の思い出が、この手の中にある。古いアルバムは重く、腕は疲れたが、虫干しのつもりで最後の一葉まで開いて見せた。
冬の間、この樹に憩ったのは海鳥ではなかった。
結実の頃を迎えても、この庭に海鳥は帰らない。
思い出を見せても、初夏の果実は応えなかった。
◆
初生りの枇杷を笊に摘み採る。
二時間程冷やし、半分は仏壇に供え、半分は皿に盛った。
あの人と差向いで、白い産毛に包まれた枇杷を手に取る。
初生りの果実を挟んで、形だけの仏壇と静かに対峙する。
……あの人は、もう、ここへは帰らない。
ぬるんだガラス器が汗を滲ませ、曲面を雫が伝い落ちた。
意を決して、喜ぶ人の居ない初生りの枇杷を手に取った。
産毛に指先を触れ、そっとその形をなぞる。短い毛が思いの外、強く押し返す。
桜貝の爪でヘタをつまみ、涙の形に沿ってゆっくりと引き下げた。人の皮を剥ぐように、産毛の生えた肌色の薄皮をめくる。
その傷から、透き通る果汁が流れ、指を伝い手の甲を濡らし、肘へ向かう。
肘から腕へ、腕から手の甲へ、手の甲から指先へ向かって舌を這わせ、枇杷の血潮を味わう。
その甘い雫を舌で拭い、枇杷の傷口に唇を押し当てた。容赦なく歯を立て、ぬるくなった果肉を齧り取る。
あの人があんなに好きだった初夏の味覚。その果実を独り占めにして堪能した。
瑞々しい果実に口づけしても、あの人の本当の気持ちは、終にわからなかった。
後に残った黒い種子はあの人を飲み込んだ海に投げ捨てた。
あなたのいないこの世界で、八年の孤独が思い出に変わる。
【テーマ】世界が満たされる時、最も美しいキスシーンを。と言う趣旨の短編企画。略して「セカキス」
ビワの花言葉っぽいお話にしてみました。