君の笑顔に花束を 第六部
どこにでもあるような――というのが一番しっくりくるような、質素で無個性なワンルームマンションが、小早川秀雄さんの恋人、中川紗奈さんの住居だった。先輩と私は、小早川さんの依頼を受けた後、実際に恋人だった紗奈さんに会ってみることにしたのだ。
何度かインターホンを鳴らしているのだが、一向に出てくる様子がない。インターホンにはこちらを伺うためのカメラも設置してないし、もしかしたら、部屋にいないのかもしれない。
「留守……なんでしょうか?」
その疑問を、口に出して先輩に問いかけてみる。
私の実習期間もあと一週間を切るようになり、できれば最後のケースとして、ひと目でもクライエント関係者との接触を持ちたいところなので、紗奈さんが留守にしてるかもしれないことには、自分の運の悪さに毒づく思いでもあった。
私の言葉に「さあな」というように肩を竦めたが、先輩は構わず、何度もインターホンを鳴らし続ける。
そんな行動を続けたあと、ようやく諦めたのか、「やれやれ」と先輩が呟いた時だった。
魚眼レンズの向こう側をさっと影が通った。
先輩は目ざとくその瞬間を逃さず、「こんにちは」と言い、頭を下げる。居留守を見破ったことを伝えるには絶妙のタイミングだ。先輩なら良い新聞勧誘員か、セールスマンにでもなれそうな気がする。
在宅してることがバレて、渋々であろうか。ややあって、訝しむような感じにドアが開かれた。
「はい――なんですか、あなたたち?」
まだあどけなさが残っている卵型の顔つきをした、眉目秀麗な、やや背の低い女性が、トロンと濁った目で、迷惑そうに姿を現した。ドアに寄りかかるようにして入口を半開きにし、空いたほうの手はビールの缶を握っている。
その姿は、ちょっと前までの先輩と重なり、私は軽いフラッシュバックを覚えた。自暴自棄になり、酒に溺れ、全てを投げ出したがっている様子。アルコールが相当量入っているのは、その匂いと顔の緩み具合、目つきから明らかだった。
だが、先輩の時との大きな違いとしては、その手首にありありと、そしてグロテスクに人の目を引く赤黒いいくつもの傷跡が刻まれていたことだろう。紗奈さんは弱々しく、儚げで、そしてどこかしら攻撃的な雰囲気に、酒精をまとって私たちの前にたたずんでいた。
「はじめまして、私は小早川の友人で、精神科医の新藤といいます。こちらは助手の二階堂です」
先輩は身分を偽った自己紹介をし、一礼する。私も、それに合わせて、軽く会釈した。
「精神科医? 精神科医がなんの用よ? わたしの薬はこれで十分。帰って帰って」
眼前にビール缶を持ち上げて、軽く振る。そして、そのままドアを閉めようとして、ふと何か思考に引っかかったように動きを止めた。
「あ……あれ? 秀雄さんの友達なの? たしか、そう言ったわよね?」
先輩は、しっかりと頷いて、「はい」と答えた。
「小早川のことは急なことで、心中お察しします」
「わたしは、てっきり……あなた精神科医って名乗ったから……お酒のことで、どこかのお節介が余計なことをしたのだとばかり……。ごめんなさい、秀雄さんのお友達なのね……」
そう言うと、鼻と口を掌で覆い、急に嗚咽し始めた。
「秀雄さん……」
先輩はハンカチを取り出そうとして、いつかのごとくそれがしわくちゃであることを確認し、渋面を作って私にハンカチを渡すよう視線で促すと、「お察しします」と繰り返した。
「小早川のことは、あまりに急なことで、私共もショックを受けています。しかし――虫の知らせがしていたのでしょうね、私も『小早川の病気』のことで、何度か相談を受けていたのですが、生前、小早川から『俺に何かあったら、恋人のことを頼む』と言われていたので……。偶然とは恐ろしいものです。できれば、起きて欲しくない偶然でしたが」
紗奈さんは、涙でぐしゃぐしゃになった美しい顔を上げて、
「そうですか、それじゃあ、あなた達はわたしをこの絶望から助けに来てくれたんですね。わたし、秀雄さんがいないとダメなんです。こんなわたしでも、助けてくれるんですね」
先輩は、力強く頷いた。
「はい、それが小早川との約束です。初対面で安請け合いすることもなんですが、中川紗奈さん――紗奈さんとお呼びしてもよろしいでしょうか? 私共は、紗奈さんの助けとなれるように、力を尽くすことをお約束します」
紗奈さんは、先輩の柔らかく優しい言葉を聞くと、中身の入ったビールの缶を取り落とし、両手で顔を包み込んだ。紗奈さんはそのまま、辺りも気にしないかのような大声で嗚咽をもらし、ついにはしゃがみこんでしまった。
紗奈さんの半身が下へ沈むと、ワンルームの部屋の様子が飛び込んできた。狭い6畳間に、封の切られた、いくつかのワインボトル、中身の入ったまま倒れて床に染みを作ったのであろうウィスキーの瓶、そして大量のビールの空き缶が見える。
しかし、何よりも目を引いたのは――。
「ありがとう。ありがとう。わたしを助けて。わたしは今――」
紗奈さんは、えづきながら、先輩のスーツの胸元を弱々しく掴み、崩れるように身をあずけた。
「本当にちょうど良かったわ。わたし――」
そう言うと、泣き疲れたのか、それともアルコールのせいか――おそらく両方だろう、
「――今から死ぬつもりだったの」
ろれつの回らない口調でそう吐き出すと、先輩の胸の中で、そのままガクンとして寝入ってしまった。
紗奈さんのワンルームの部屋。
その部屋の中央には、輪っかを作ったロープがぶら下がっていた。
――それから。
とりあえず首吊り用のロープを取り外すと、紗奈さんのために布団を敷いて横にさせる。
空の――あるいは中身の入ったままのアルコールの瓶や空き缶を片付けると、先輩は大きくため息をついた。
「『行動化』だよ。紗奈さんに限らず、こういう障害には顕著なんだが――」
頭をボリボリと掻いて、
「なにか辛いことがあると、自己破壊的な飲酒をすることがある。珍しいことじゃない」
悲しそうに言った。
「それにな、初対面の人にあれだけ簡単に『今から死ぬところだった』と言えるのは、単に酒のせいとは言い切れないだろうな。それがこの病気の怖さだ。自覚をしてないんだよ。しかし、自分の行動が人にどういう影響を与えるかは無意識的に知っている。『苦しみに耐えきれない。支えになってくれ。――助けてくれ』紗奈さんが自分で言っていたとおり、それが真実だと思うよ。でも、それを『そうでなければ、助けてくれなければ自殺する』というのとは、また意味が違うだろう? 今回の自殺未遂に立ち会ったのはたまたまだったが、関わった人間に対してこれをほとんど脅迫にすり替えていくんだ。意識的、無意識的を問わず、他者をコントロールし出すのさ」
先輩は言葉には出さないが、紗奈さんを春日恭子さんと重ねて見ているのかもしれない――そんな、過去を思い出すかのような、沈痛な響きが、私の胸を打った。
「でも、それでも、恋人に死なれたら、こんなふうに動揺しちゃう……自分を壊してしまいたくなる気持ちも分かります……もちろん、なんとなく、ではありますけど」
何より、先輩自身がそうだったではないか、とは言わない。言えない。でも、その言葉が先輩を傷つけるかも知れないことを分かった上で、あえて紗奈さんを擁護した。
人の死を悼む。それは、人としても、私たちにとっても、とても大切なことだと思いたかった。例えそれが、病的なものであっても、人の価値や尊厳は、亡くなったあとでも、意味を失わない。そう考えたかった。
「――そうだな、その通りだ」
先輩は大きく息を吐くと、私の気持ちを汲むように、軽く肩を竦めた。それから、革の小ぶりなケースを取り出して、電話番号とメールアドレスの書かれた名刺を、そっと紗奈さんの眠る布団の枕元に置いた。
「今日のところは、これで退散しよう。ところで……なあ、実習生――」
「遊馬です」
「――実習生……なあ……この人は、恭子さんではなくて……」
「――はい」
私は、しっかりと先輩の声を聴いた。先輩は多分、紗奈さんに恭子さんの姿を見ているのだろうと確信していたからだ。さきほど私が紗奈さんに先輩のフラッシュバックを見たように、先輩もまた、紗奈さんと恭子さんを重ねているのではないだろうか。
恋に落ちたものが、不幸な別れを強いられる。それが、どれほど辛いものか、どれほど心残りなものか、先輩の苦渋に満ちた顔がありありと物語っている。
だが、『恋』とはつまるところ、そういうことなのではないだろうか? 一方的で独りよがりな、でも、何かがつながることに一喜一憂し、それが故、かけがえのないものとして、相手を思いやる。
――もっとも、私の初恋は、まだ初恋未満で、偉そうなことは言えないけれど。
「……いや、何でもない」
何か言いたそうだった先輩はしかし、そう言うと、もう一度紗奈さんの寝顔を見て、目を瞑ると頭をボリボリと掻いた。
それは、過去の自分と対峙するために必要な儀式のように、私には思えた。
***
事務所に帰ってくると、先輩は、幾分無理しているようにも感じられるが、それでも温和な、のほほんとした口調で口を開いた。
「――実習生」
「遊馬です」
「――実習生、今回は長期戦になるぞ。まず間違いなく、お前の実習期間内に片付くケースではない。あえて釘を刺しておくがな。出会いがあれば、当然に別れがある。それが、どんなに満足できる形ではなくてもな。それだけは覚えておけ」
「――はい」
本音を言えば、小早川さんと紗奈さんの行く末を、最期まで見届けたい。だが、それは単なる実習生に過ぎない私には叶わないことだということを心の中で準備しておかなければならない。先輩は、一度のめり込むと周囲が見えなくなる私を気遣って、あえてそんな警告を伝えてくれているのだ。ケースを途中で手放しても、そのやるせなさに耐えられる強さを、私は持たなくてはならない。
先輩は、そんな緊張した面持ちの私に口角を上げて苦笑すると、
「まあ今は、とりあえずコーヒーをいれてくれ。お前はこの実習で、コーヒーを入れることには精力を費やしてきたからな。いわば、インスタントコーヒー入れのプロだな」
「その他に取り柄はないんですか?」
少しムキになって答えると、
「他に何かあると自負してるのか?」
と、先輩が畳み掛けてくる。
私は渋面になり、口を尖らせた。
「もう! その意地悪な性格直したほうがいいですよ!」
そう言うと、先輩は私の批難もどこ吹く風で、
「……仕返しだよ。今回、お前には色々されたからな」
鼻をふん、と鳴らして、おどけてみせる。
私はその言葉には赤面せざるを得なかった。確かに今回、私は自分の領分を超えて先輩に干渉しすぎたからだ。お墓での『あの時』のことが思い出されて、恥ずかしさに穴に入りたくなる。
――でも。
よかった、一時はどうなることかと思っていたけど、先輩はいつもの先輩に戻ってきている。そんなことに安堵した。
そんな私の心情を知ってか知らずか、先輩は人の悪い笑みを浮かべると、
「コーヒー」
とぶっきらぼうに言った。
「はいはい、ただいま」
渋々キッチンへ向かう途中、ふと思うところがあった。
ところで今回のケース――紗奈さんに類似した恭子さんの未練を断ち切った笹峯さんなら、なにかヒントになるものを教えてくれないだろうか?
いずれにせよ、笹峯さんには、スカウトの答えとは言わないでも、『エージェント』となる上での、私の考えている道のりと方向性の意思表示をする必要がある。
――実習終了まで、あと一週間を切っている。笹峯さんに、後学のためにでも、教えを請うことは有益なことかもしれないと思いつつ、私はまず美味しいインスタントコーヒー作りに精力を傾けることにした。




