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あなたの未練 お聴きします  作者: 小山洋典
最終話 君の笑顔に花束を(上)
35/41

君の笑顔に花束を turning point


 吉住教授のもとから帰ってくると、私は事務所に足を向けた。

 先輩の姿は、なかった。

 ただ、いつもの執務室とは違い、小ぶりなお酒のボトルやビールの缶がそこかしこ転がっていて、先輩の心の荒波を物語っているように思えた。そんなことが私の胸に突き刺さり、悲しい気持ちがこみ上げてくる。

 いつも飄々として、掴みどころのない先輩。

 でも、その背中は、とても、とても大きくて。

 私の目指す目標として、時には私を守ってくれる大岩として厳然と存在していた。

 それが、今の先輩はどうだ? そんな背中が存在したことが嘘のように、小さく矮小になり、壊れてしまう一歩寸前までに追い込まれている。

 ――私の尊敬する先輩は、もういないのだろうか?

 そんな問いかけを自分自身にしてみて、その愚かさに絶句する。

 今回の、たった一事だけで、今まで培われてきた先輩への思慕の情は、手のひらを返すように、無に帰すものなのだろうか?

 私の中の先輩は、その程度の存在でしかないのだろうか?

 かぶりを振って、自分を諌める。そんなことはない。あってたまるものか。先輩は、いつまでも『あの』先輩として、私の遠く及ばない歩幅を置いて、先人としての灯火を燃やし続けていなければならない。

 あるいは、それこそが、私が先輩を自分勝手に見ている証拠に違いないかもしれない。

 だが、私はそんな先輩を失いたくなかったのだ。

 執務室のお酒の瓶や缶を片付けて、ゴミ箱に入れる。

 いつものインスタントコーヒーを入れる相手は、今、この場所を留守にしている。

 そう、『いない』訳ではないのだ。

 ただ、今は――今だけは、少し、『留守にしているだけ』なのだ。

 そう、自分に言い聞かせた。

 

***


 迷った挙句、私は春日恭子さんのお墓に向かうことにした。

 自分が何をすればいいのかわからない。何を為すべきなのか、何ができるのか? そんな気持ちが、今は亡き恭子さんがくれる言葉を欲し、『先輩にかけてあげられる言葉』を探し求める私の漠然とした衝動を喚起していた。

 もちろん、もはやそこに恭子さんは眠っていないのはわかっている。

 笹峯さんの言うとおり、魂は天上へと送られ、そこにあるのは『墓石』という名のただの石の塊に過ぎない。でも、それでもなお、恭子さんの存在が――その残滓でも残っていると考えるのなら、故人に会うとするのならば、私は迷信深い人間たちのように、その場所を選んでいた。

 墓地に敷き詰められた砂利の道を、音を立てながら、一歩一歩踏み固めていく。

 たしか、恭子さんのお墓は、この道の突き当りにあるはずだった。

「――」

 恭子さんのお墓が目に入った時、見知った影が――少し会わなかっただけなのに、途方も無い時間別れていたように錯覚させられる、先輩の姿が視界に飛び込んできた。

 墓に備えられた線香から煙が立ち、独特の香りを醸し出している。お墓の前には、先輩が用意したのであろう、色とりどりの綺麗な花束が添えられていた。

 先輩はというと、だらしなく墓石の敷地内の通路にお墓と正対して座り込み、手にもったウィスキーのボトルを時々口に当てて傾けていた。

 (先輩――)

 私は声をかけようとして失敗し、その呼び掛けは胸の内で響いただけだった。

 そのまま歩を進め、恭子さんのお墓の敷地の入口までたどり着くと、踏みしめる砂利の音で私の接近を感知したのであろう先輩が、ちらりとこちらを一瞥して、

「実習生、どうしてここを知っている?」

 と、半ば投げやりな言葉を吐き出し、ウィスキーを煽った。

「笹峯だな――あいつ、今度ひき肉にしてやる」

 そう言って、熱い息を吐く。

 そんな先輩に、私はなんと言葉をかけるべきなのかわからず、戸惑い、ついには勝手に絶望し、結局、候補に挙げられ、選択肢から外れた言葉たちを声にすることができないまま、呼気とともに霧散させた。

「吉住教授のところに行ってきたんだろ? それなら、俺が飲んでいる訳もわかるだろう? 俺の輝かしい青春時代は、真っ黒なペンキで塗りたくられてるんだよ」

 先輩は、吐き出すように言った。

「くだらないよな。お前も、笹峯に言われただろう? こんなところには誰もいない。彼女の――恭子さんの魂は、天上に送られた。それなのに、いつまでも感傷を引きずって、結局俺はここから動けずにいる。どうだ実習生、俺に失望したか?」

 先輩はウィスキーのボトルをひらひらさせながら、自嘲じみた笑みを浮かべる。

「先輩……」

 どう声をかければ正解なのだろう? どうしても、二の句を告げることができなかった。

 そんな私の心情を知ってか知らずか、先輩は無言の私に構うことなく、舌を回転させた。

「実習生、お前にも二つ名があったよな。『落ちこぼれの遊馬』だったか? 実は俺にも、二つ名があるんだよ。そう、俺は『生者殺しの新藤』と呼ばれていた。過去のことだがな。だが、その呼び名は俺の中でなお生き続けているんだ」

 そう自嘲すると、またウィスキーのボトルを煽る。

「俺が殺したんだ。『生者殺しの新藤』。――最低だよな。人間を救うために存在するものが、人間を絶望のどん底へと追いやった。俺たちには神も仏もいない。だったら、何に祈る? 祈れば赦してもらえるのか? ああ、そうさ、俺は――」

 自虐的な笑い声を上げる。

「そう、殺したんだ。俺は、彼女を……恭子さんを殺し――」

 だが、先輩は最後まで言い切ることができなかった。

 なぜなら、私が先輩を背中からそっと抱きしめたからだ。

「――実習生」

「――遊馬です、先輩」

 強く鼻腔を刺すアルコールの香りとともに、先輩の当惑が伝わって来る。

 私の方を振り向こうとして失敗し、渋面を作ると、また前方に顔を戻し、すこし狼狽したような声で言った。

「――実習生……離せ」

 だが、その言葉に、私はきつく、なお一層先輩を抱きしめた。

 先輩が、首から胸元にかけて巻き付く私の腕を、やや固く握り締めた。

「離せ。命令だ」

 先輩は、声のトーンを低めて言った。

 しかし私は、その言葉に抗ってみせ、そっと顔を先輩の横顔に近づけた。半立ちになって、おんぶをしているような体勢になり、それでも、背中から回した手の力は緩めない。

 先輩は、少し苛立ったように、低い声を出した。

 それは、地中深くに身を沈めたマントルが、膨張した憤怒の熱に耐え兼ねて、地表を押し上げるかのようだった。

「――実習生!」

 先輩の怒りが、自制しようとする体の震えとともに伝わって来る。

 しかし私は、そんな声にも、再度抗った。

「いい加減にしろ! 実習……」

「……嫌です」

 私は心からの声を出した。もう、それ以外の言葉は私の頭から綺麗に消去されていた。

「嫌です、先輩――」

 私は、先輩という存在に、その大きな背中に、そう繰り返した。

 それは『言葉』などではない。私の……いや、『私の存在自体を賭けた』、柔らかく、鈴を転がすような、しかし痛切な叫びだった。

 ややあって、先輩は顔を下に向け、震えた声を出した。

「離せ……」

 怒っているのか、悲嘆しているのかはわからない。きっと、両方だろう。

 体を震わせ、一瞬、私の腕を強く握り締め、しかしあとは私にされるがままにしている。憤怒を自重している様子が、ありありとわかる。先輩は、こんな時でさえ、私に怒りをそのままぶつけるようなことはしない。

 そんな先輩の体を、優しく、強く抱きしめることによって、私は『私を』伝えているつもりだった。

 先輩にかけてあげられる言葉は、結局見つからなかった。

 だから、私は私の出来ることをしたつもりだった。

 私の、私自身がしてあげたいことで先輩を困惑させてしまうことを知って、それでもなお、先輩を困らせた。

 それがどんなに私の身勝手であっても。

 私の独りよがりであっても。

 先輩に気持ちを、このやりきれなくも愛おしい気持ちを伝えるためにはそうせざるを得なかった。

「実習生――」

 ややあって、先輩はかすかに震えた声を出した。

「はい、先輩」

 その声の調子に、抱きついていることを咎めているのではないのがわかって、私は答えた。

「――失望、したか? こんなにも情けない、こんなにも小さな俺に……」

 私は、心の底からありったけの言葉を発した。

「いいえ――先輩は……私の先輩は、こんなにも暖かくて、優しくて、ぶっきらぼうで、力強くて、頼りになる、いつもの先輩です」

「――過大評価は好きじゃないな」

 先輩が息を吐く。

「それでも、私の先輩は、そういう方です」

 先輩は、何も言わず、首からまわした腕を固く掴むと、ぐっとその手に力を込める。

 それが、先輩のどんな言葉より鮮明で重みのある真実の答えとなって伝わってくる感じを受けた。

「今、先輩の体温が伝わってきています。心臓の鼓動も――。トクン、トクンって……。先輩だから、『私の先輩』は先輩だから、伝わって来るんです。そう思います」

 そして私は、目を閉じると、先輩の耳元に固く断言した。

「――先輩は、ここにいますよ」

「――」

 先輩は力なく頭を振ると、ややあって、大きな息を吐いた。

 そうして、手に持ったウィスキーボトルに今気づいたような仕草を見せ、その口のキャップをきつく締めた。

「実習生」

「――遊馬です」

 先輩が、ふん、と鼻を鳴らす音が聞こえた。

「……実習生、お前が俺を励まそうなんて、10年はええよ」

 顔こそ見えないが、苦笑しているのがわかる。

 そんなことが嬉しくて、私は、小さく、

 「――すみません、先輩」

 と答えた。

 

 ――結局、私たちの重なりあったひとつの影は、陽が落ちて闇に溶けてしまうまで、消えることがなかった。



***


 ――それから一日開けて。

 私が執務室のドアを開けると、珍しく先輩がソファで惰眠を貪るでもなく、いつもより幾分小奇麗にされている部屋の机のむこうから、コーヒーカップを片手に、じろりと私を睨みつけた。

「よう、実習生、おはよう」

 そう言って、不味そうにコーヒーをすする。

「……やっぱりちゃんとお湯が沸騰するまで待つんだったな、待ちきれず入れてしまったのが敗因か……」

 などとブツブツつぶやいている、『いつもの』先輩の姿がそこにはあった。

「おはようございます、先輩。それじゃあ、コーヒー、入れ直しましょうか?」

 私は幾分弾んだ声でそう言った。

「うん、頼む。今起きたばかりなんで、強めなやつをな」

「はい、強めにですね」

 私はまだぬるいコーヒーの入ったカップを両手で受け取ると、顔を綻ばした。

 そのまま、キッチンへ向かおうとすると、背中に先輩の声がかかった。

「……あー、実習生、昨日の、墓場でのことなんだが……」

 そう言って、ボリボリと頭を掻く。

「はい」

 私は、少し顔を赤らめて答えた。あの時は、ああするのが精一杯だったとわかっていたとしても、なにか気恥ずかしさを覚える。

 どうやら、それは先輩も同じのようだ。照れ隠しか、こちらを向かず、そっぽを向いて、口を開いた。

「その、な……あり……」

「――はい」

 私も、そんな仕草につられて赤面してしまう。

「まあ、なんだ、色々と……そうでもないが、とりあえず世話になった。だから、あり……が……」

「は、はい!」

 私は全身を耳にして、謝礼の言葉を待った。

 しかし、そんな様子の私に一瞥くれると、先輩は途端に不機嫌そうになり、

「……いや、そんなことよりな……、このあと、小早川さんとの面談を入れるぞ。中途半端になって、待たせてしまっているからな」

 きわめて事務的な口調になって言った。

 私は、少しばかりの落胆と恥ずかしさを覚えながらも、先輩の『精一杯』を感じた気がして、

 「はい」

 と、少し浮ついた気持ちで頷いて、キッチンへたった。

 

 

 ……そうして、いつもの面接室。

 先輩と私は、長めのソファに並んで座り、少し憔悴したような顔つきの小早川さんを出迎えた。

 「お久しぶりです。どうも、お役所仕事でお待たせしてしまったようで、誠に申し訳ありませんでした」

 先輩は、いつもののほほんとした声で小早川秀夫さんに話しかける。

「この前拝聴させていただきました、小早川さんの『未練』ですが、当方といたしましても、全力で対処させていただこうと思います。お待たせしてすみませんでした。私は……」

 先輩が、少し躊躇したように、言葉に空白を置く。

 私は、その先輩の腕を、軽く握り締めた。

 先輩は、バツの悪そうな感じの顔を見せると、しかし軽く頷いてみせた。

 「――私共は」

 そうして、いつものように頭をガシガシ掻くと、大きく息を吐いて、何を言われるのか、少し身構えている小早川さんの緊張を溶かすべく、柔和な笑顔を作った。


「――あなたの未練、お聴きします」



<君の笑顔に花束を 上 ――了>

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