君の笑顔に花束を 第五部
「あらあら、遊馬ちゃん、お久しぶりね。あら? 確かまだ、実習中じゃなかったかしら。それとも、もう終わったのかしら? なんにせよ、よく来てくれたわね」
人の良さそうな微笑を浮かべながら、小さな部屋を埋め尽くす、うずたかく積み重ねられた書物の間の、奇妙に狭く開いたスペースに置かれたロッキングチェアに腰掛けた老婆は、そう言うと深い皺の刻まれた相好を崩した。
「吉住教授、お久しぶりです。今日は、良い実習先に後押ししてくださったお礼を言いに参りました……まだ実習は終わっていないのですが、とりあえずはお礼までに、ということで……」
吉住教授は「あらあら」とコロコロ笑うと、
「お礼というより、何か、深刻な話のようね。あなたはすぐ顔に出るから。本当に嘘が付けない性格なのね。そこが遊馬ちゃんのとても良いところだと思うけど」
そんな吉住教授の鋭さに私は降参して苦笑いを漏らすと、
「実は、そうなんです。今日来たのはお礼というより、今の実習先の先輩……新藤教官のことについて、教授にお聞きしたいこがあるんです」
私がそう言うと、吉住教授は人好きのする笑みでしわくちゃになった顔を更に崩してみせた。
「新藤君ね、覚えてるわ。彼は元気でやってる?」
「元気といえば元気なんですが、最近、ちょっと……あるクライエントが来たことで、今までの飄々とした調子が嘘だったみたいに変わってしまったんです」
「あらあら、それで、新藤君の過去のことに関係があるんじゃないかと思って、私に話を聞きに来たわけね」
私は肩を竦めた。この老教授にはかなわない。
「はい。先輩――新藤教官と、『春日恭子さん』との間に何があったのか、ぜひ教えていただきたいと思ったんです。新藤教官のところへコネで後押ししてくださった教授なら、何か知っていらっしゃると思いました」
教授はしばらく無言で私に笑顔を向け、うんうん、と頷いていたが、
「お茶を入れましょうか。少し長い話になるわ」
大仰そうにロッキングチェアから身を起こした。
「あの事件のことはよく覚えてるわ。私たちの世界では、一時期大騒ぎになったものね。
あれはもう、10年も前の話かしら。……いえ、6,7年前だったかしら……?
え、新藤君がいま何歳かって? そうねえ、どうだったかしら?
年をとると、時の流れがゆっくり過ぎて、その速さと遅さを見失いがちになっちゃうものなのよ。
まあ、とにかく、遠い昔、あるいはそう遠くない昔にね、まだエージェントの仕事を初めて間もない新藤くんのところへ、ある依頼が入ったの。
それが、『春日恭子さんのご両親』だったのね。ここから、新藤くんと恭子さんのつながりが始まるのだけれど……。ええ、話が飛躍したわね、ごめんなさい。
恭子さんのご両親の未練は、娘の恭子さんのことだったの。恭子さんのことが心配で、死んでも死にきれなかったのね。
というのも、恭子さんには、ひとつの『問題』があったから。
そう、自殺未遂の繰り返し――希死念慮よ。たしか、手首や腕、それから首筋に至るまで、リストカットやアームカットの傷でぼろぼろだったらしいわ。
境界性人格障害という心の病を知っているかしら? ああ、新藤くんのところに来たのも、その関係だったのね。決して珍しい病気ではないわ。ただ、依頼の内容が、『あの』当時と酷似しているのね。そうでなければあの新藤君がそこまで崩れることはないものね。
とにかく、当時の新藤君は、恭子さんのご両親の『未練』を解決するため、恭子さんと出会うことにした。
そこまでは、今の新藤君でもしようとすることでしょ? あんなことがあったのに、本当に強い子だと思うわ。自分の信念を曲げないでいるのね。
でも、それは『エージェント』としては異端なことなの。『生者と関わりを持つ』ことは、あまり他のエージェントがやらないことなのよ。エージェントという職業は、あくまで『死者の未練を晴らす』ことであって、生者と関わりを持つことは極力に避けて、面接室の中だけで結末を迎える――そんな風習が、昔から当たり前のように言われているのね。そんな決まりはないんだけど。とにかく、それが当時も、今ですら常識なの。
でも、新藤君は、そんな常識にとらわれず、積極的に恭子さんにアプローチをかけていったわ。
さて、恭子さんはさっき言った心の病――境界性人格障害を抱えていた。
この病気は、とても難しい病気の一つとされていてね、人のことを極端にすごく褒めて頼りにしたと思ったら、ちょっとしたことで正反対に罵倒し、嫌悪する……新藤君との最初の出会いの時も、救いの手を差し伸べてくる新藤君を恭子さんは崇拝といってもいいくらいに頼りにして、それに……若かったのね、新藤君も気分をよくして、恭子さんの『問題』に関して、必死になっていったわ。当然よね、自分のことをとても頼りにして、助けを求めてくれる人を誰が拒絶できるかしら?
そして、そんな関係を重ねて言って、いつしか新藤君は、『エージェント』としてあるまじき感情を抱くようになってしまったの。
――そう、人の身にあらざる存在でありながら、恭子さんの『問題』を晴らす責任をもった立場にありながら、あろうことか恭子さんと恋に落ちてしまったのよ。
恭子さんはとても綺麗な子だったけど、新藤くんのことだから、外見だけじゃなくて、『助けを求めてくるか弱い女性』を守りたい、という感情もあったのでしょうね。
でも、この病気の一番怖いところはね、『周囲の人間を巻き込んで、あらゆる手段を無意識に使ってコントロールしようとする』ことなのよ。恭子さん自身に自覚はなかったんでしょうけど、まずは『崇拝すること』、頼りにすることで、新藤くんの庇護欲をそそるとともに、女性としての『か弱さ』も見せつけて、自分自身を放っておけないようにコントロールし始めた。
新藤君は、知らず知らずのうちに巻き込まれていたのね。青かった、と言ってしまえば、それまでだけど。
恭子さんのそういった『問題』は、やがて『病的な愛情』へと変わっていったわ。これも、境界性人格障害では珍しいことではないの。性的に、奔放なタイプの人が多いわね。恋すると、恋に溺れて周囲が見えなくなってしまう。
新藤君自身も、女性になんか興味がなさそうな感じの子だったから、一旦火が付いたら、もう止めようがなかった。
でもね、だんだんと、気づかないうちに、お互いのことが重荷になっていくのよ。
繰り返される理想化と罵倒。
頑張って解決しようと思っても、何度も繰り返される自殺未遂。
そういったことで、新藤君もようやく気付いたのね、「距離を少しおかなければならない」って。
でも、恭子さんの『見捨てられ不安』がそれを許さなかった。
二人は、見えない蟻地獄にはまり込むように、お互いを苦痛に思いながらも、愛し合い、憎しみあい、もう戻れないところまで行き着いてしまった。
そして、ある日――あら、紅茶はもういいかしら? おかわりは? そう。
うん、そしてある日ね、新藤君は恭子さんの自殺予告を――疲れきっていたのね、聞き流してしまったの。
よく、自殺予告をする人は死なないなんて言うけれど、それは大きな間違いよ。こと境界性人格障害の患者の場合、自殺を試みて、実際に死んでしまうことが多々あるの。
そして、恭子さんは死んでしまった。よりによって、恭子さんの話を聞き流してしまったが故にね。
――初めての恋人、初めての失敗、死者の未練を晴らすつもりが生者を殺してしまう結果になってしまった。
それが、新藤君の取り返しのつかない『未練』になったのね。
恭子さんのご両親は、皮肉なことに、恭子さんが亡くなったことによって、『未練が解消して』、天上へ行くこととなったわ。
でも、新藤君はそんな結末や、何より自分が許せなかったのね。何度も『死んでしまった恭子さんの未練』に関わろうとした。
でもね、それは誰の目から見ても許されることではなかった。とても意地悪な言い方をすれば、『新藤君が殺してしまった人間の未練』を新藤君自身が晴らそうなんて、どう考えても無理があるものね。
彼女は転々と幾人かのエージェントの間を渡り歩いて……え、ササミネさん? ごめんなさい、その名前には覚えがないわ――とにかく、エージェントらしいエージェントだったとは聞いているわ――新藤君とは別のエージェントの手によって、天上へ送られた。
ここまでね、私が知っているのは。
――新藤君が、よく落ち込んでダメにならなかったかって思うでしょう?
そこがあの子の強いところね。
そんな事件を忘れてしまうかのように、自分のやり方を貫いて、彼は一級エージェントを名乗れるようにまでなったわ。
とても固い意志――でも、固いものはとても折れやすいものなの。
新藤君は、その傷を隠しながら、恐怖に似た感情と向き合いながら、エージェントであることをやめていないのね。
私は、あの子にひと時でも教鞭を取ったことに誇りを持ってるわ。でも、まだまだ若い子だから、とても心配しているの。
何かのきっかけで、壊れてしまうんじゃないかってね――」
先輩の、あのいつも飄々と人を食ったような先輩の重々しい過去を知って、私は何も言えず、空になった手元のティーカップを弄んでいた。
春日恭子さん。
人ならぬ身の先輩が恋した人間の女性。そして死に追いやった女性。
その途方もない意味に、私はただただ茫然自失するしかなかった。
「紅茶、もう一杯どうかしら?」
そんな私に教授は笑みを絶やすことなく、「お構いなく」と言いかけた私の掌から、器用にカップを取り上げてみせた。
しばらくして、熱い紅茶を入れたカップが私の前に差し出される。
「過去の過ちというのはね……」
教授が、ひとりごちるように口を開いた。
「まるで、昨日起こったかのように、自分を責め立てるの。でも、それでも長い時間が経って、周囲の環境や人間が変わらずに――でも確かに変わっていって、自分自身にとって大切になった人がかけてくれる一言だけでも、過ちは過ちじゃなくなる……それは、自分の人生にとって必要不可欠な成長の証であったとして、胸に刻まれるのよ。悲しみも、憤りも、決して消えることはない。でも、それをひっくるめて、自分自身であるためには、そういった過程を乗り越えることが重要になるわ。これは、歳をとってみない限り、わからないことかもしれないけれどね」
教授は、自分用の紅茶を一口口に含み、
「遊馬ちゃん、あなたは今まで、新藤君ととても近い距離にいて、何を見てきた? 何を学んできた? あなたが今、何を為すべきなのか、その答えは、あなた自身の裡にあるんじゃないかしら?」
きっぱりと、そして優しく背中を押すように、教授は私に問題を返してみせた。
私に出来ること。
私が為すべきこと。
――私に何ができるのか?
「教授も、秋葉と同じことを言うんですね」
私は肩の力を抜くと、ふうっと息を吐いた。
「秋葉? 誰だったかしら?」
眼球を上向きにさせて、「うーん」と教授が考え込む。
「東雲秋葉です。私の親友の」
「ああ、東雲さんね。いいわね、遊馬ちゃんには、遊馬ちゃんの味方になってくれる人がたくさんいる。紛れもない宝物よ。大切にしなくちゃね」
「はい」
「……もちろん、新藤君のことも、よ? わかってると思うけど」
その言葉に、大いに賛同した私は、半ば苦笑しつつ、溜息じりの息を吐きだすと、しかし折れかけていた心を奮い立たせて、
「はい、ありがとうございます、教授」
と、努めて毅然とした笑みを浮かべて頷いてみせた。




