君の笑顔に花束を 第三部
この前にもらった名刺によると、まだ建てられてから幾ばくも経たないであろう小奇麗なテナントビルの2Fが、笹峯さんの事務所らしかった。とはいえ、各階ごとに掲げられているネームプレートの2Fには、なんの名称もない。いかなテナントビルとはいえ、先輩の事務所と同じく、常人には入り込めないような空間がそこには存在するのが了解できた。
エレベーターで2階にあがり、ネームプレートのない扉のインターフォンを押すと、やや間があって、スーツ姿の女性が内側からドアを開いた。私の顔を見て、少し戸惑った顔をしたが、私が自己紹介すると、相好を崩して、「笹峯のお客さんですね。今、呼んでまいりますから、奥でお待ちください」と、半透明なキャビネットで隔てられたやや手狭な空間のソファに腰掛けるよう促された。
笹峯さんは、そう時間をかけることなく、いつものアロハシャツとサンダルという、いかにも場にそぐわない格好で姿を現した。右手をシュタっと直角に曲げて、「やあ! 来てくれて嬉しいよ!」と、屈託の無い笑顔を浮かべる。「例の件、考えてくれたのかな? 随分早かったね」
「あ、いえ、そうじゃないんです」
私は言い澱んで、先日のクライエントと先輩のことについて手短に話した。
「今日来たのは、先輩の過去が知りたくて……春日恭子さんとは何かあったのは確かなんです。過去を探るなんて、先輩には失礼かもしれないけど、それでも、少しでもお役に立てたらと思って……」
そう、一気に話すと、笹峯さんはやや失望したような嘆息をつき、
「やれやれ、遊馬ちゃん、君は一体どこまで知っていて、どんなことをやりたいと思っているんだい?」
私は唇を噛んだ。
「私は何も知りません。何の役にも立てないかもしれません。ただ、先輩の辛い過去を――多分、ですけど、辛い過去を少しでも和らげられてあげなくっちゃって、空回りしているんです」
笹峯さんは「ふーむ」と腕組みをして、
「うん、全部話しちゃいたいな。でも、僕から話したら、新藤に殺されることは必至だから、ここはあえて口をつぐんでおくよ。ただ、そこまで知っているのなら、自分で調べる手立てを教えてあげることにやぶさかではないな。くれぐれも新藤には僕が教えたなんて言わないで欲しいんだけど――、まあ、僕が教えたことはバレバレになるだろうけど、あくまで大人の節度を持って、情報を提供しよう」
「情報?」
私が訝しんで聞くと、
「この前新藤が君を置き去りにして行っていたところに案内するよ」
笹峯さんは両手を広げて、ウィンクしてみせた。
***
「ここは……」
「そう。死者たちが眠ると、人間たちが本気で考えている場所。えーと、こっちのはずだよ」
笹峯さんの後をついて、墓石の並べられた間の狭い砂利道を歩く。
半ば予想はしていたが、笹峯さんが先輩が足を運んだところとして案内してくれたのは、殺風景で流行らない感じの寺の墓地だった。先輩がわざわざ足を通わせていた所、笹峯さんが知っていたこと、何より『春日恭子さん』とキーワードが立て続けに続けば、それは容易に想定の範囲内にあることだ。
しばらく進んでいくと、道の突き当りに、しおれかけた色とりどりの花と、線香の燃えかすの残った墓へとたどり着いた。
――墓石には、『春日家の墓』と銘打ってあった。
「これが、春日恭子さんの……?」
あの時見た写真と資料には「委託」「未練解決済み」の押印がされていたはずだ。春日恭子さんはすでに死んでいて、その未練は晴らされている。
「……この人の――恭子さんの未練だったことが、先輩の過去に関わっているんですね」
私は笹峯さんに尋ねた。
「いやいや、春日恭子さんの未練自体には、新藤はノータッチだよ」
確信じみた私の発言に、笹峯さんは予想の斜め四十五度を行く返答で返した。
「――え?」
では、この墓は? 未練の資料は? 先輩の、あの反応は?
「わけがわからない、というふうだね。もちろん、遊馬ちゃんの手持ちの情報が少なすぎるから、しょうがないんだけどね。僕は深くは語らない。遊馬ちゃんが調べあげるのなら干渉しないけどね。まあ、ここに連れてきたというだけでも良しとしてよ」
釈然としないものを感じながら、私は墓石の正面に屈んで、手を合わせる。
笹峯さんは、そんな私に、下手な口笛を吹いた。
「弟子は師に似るもんだね。ここには誰もいないよ。もう未練は解決済みだ。わかっているだろう? なんだって、そんな人間みたいな『ポーズ』をとるんだい?」
確かに、笹峯さんの言うとおりだ。
だが、私は死者の魂がここにはないことを知りつつも、亡くなった人の尊厳を守るため、こうして手を合わせていた。無用な感傷といえばそれまでになるが。
案の定、いつものおどけた声で、笹峯さんがまくし立てた。
「人間って、何考えてるんだろうね? 魂のことを信じないやつでも、神も悪魔も信じないやつでも、こんなところには誰もいないことが分かっていながら、それでも墓を建てる。全く、わけがわからないよ。全ては消え去った。こんなところには誰もいないというのに。本当にわけがわからないな、君たちは」
「君『たち』」という言葉に引っかかって、私は笹峯さんに確認を取った。
「先輩も、ここへ来て、お花やお線香を供えているんですよね」
「そう、新藤のやつも、毎年彼女の命日になるとここへ来る。そこにあるような、しおれたでっかい花束を持ってね。死者への礼儀だかなんかわからないけど、人間がそうするならともかく、僕たちがやるのは、また意味が違う。いかにむかし関与したクライエントのことだからって、非合理的だよ。失敗は誰にでもある。しょうがないじゃないか。エージェントはそこまで過去を引きずってやる仕事でもないと思うんだけどね。――何よりも……」
「――何よりも?」
まだ何かあるのだろうか? 私は首をひねった。
笹峯さんは一息ついた。
「辛気臭いじゃない?」
そう言って、カラカラと笑う。忘れてた、笹峯さんはこういう人だった。
まあ、死者がここに眠っているのでないという認識からこそ出てくる台詞だが、果たして、私や先輩、それに対する笹峯さんの態度は、どちらが正しいのだろう? ふと疑問に思って、尋ねてみることにした。
「笹峯さんは、こうしてお参りするということを無駄だと思っているんですか?」
「おやおや、では、逆に聞かせてもらおう。無駄じゃないと思う根拠は? 少なくとも、僕には理解できない」
「――ッ」
私は何も言い返せず、唇を噛んだ。
「そういうところから、少しずつ直していかなきゃいけないな」
笹峯さんは、黙り込んだ私に柔らかい声をかけた。
私はあえて同意せず、いや、同意できず、笹峯さんから示されたヒントの糸をたぐり寄せるのに集中することにした。
春日恭子さんが先輩の過去に、何らかの形で関わっていたことは確かだ。
しかし、笹峯さんは、『春日恭子さん自身の未練には』先輩はノータッチだという。確かに、委託されていた資料だし、解決したのは先輩じゃない。あの時、解決した担当者の名前はといえば――。
唐突に、記憶のシナプスがスパークした。そう遠くない過去と、最近の出来事が融合を果たす。
笹峯さんが事務所に来てた時笹峯さんに先輩が言っていた『借りを返せというのだろう』という言葉。
先輩と笹峯さんの関係の一端。
それが一つの絵を描いた。
「先輩は以前、笹峯さんには借りがあるって言ってました。もしかして、春日恭子さんの未練を晴らしたのって……」
何故あの時の『担当者』の名前を見過ごしていたのだろう? 自分の注意力の無さを責めながら、私が問いかけると、笹峯さんは誇らしげに両手を広げて、
「そう、春日恭子の魂を天上へ送ったのは僕だ」
にっこりと微笑んだ。




