巣立ちの頃 第五部
幾度目かの面接から数日を置いたあと、私は入れたてのインスタントコーヒーを先輩に手渡し、私の初回面接の日以来晴れない不安で暗い気持ちを吐き出しすことにした。
「……先輩、私、間違っているでしょうか?」
「んー?」
先輩は、相変わらず緊張感のない、間延びした声で返してくる
「私……私は、修斗くんに、自分の勝手な感情を押し付けてるだけなのかもしれないなって、今になって思います。あんなことを言って、修斗くんをまた一歩追い詰めただけなのではないでしょうか? 私のやっていることは、無意味ですか?」
先輩は頭をボリボリ掻いて、コーヒーにひとくち口をつけた。
「お前は、自分自身で、無意味だと思っているのか?」
私は、ハッとして、かぶりを振った。
「いえ……」
その声は、自分でも驚くくらい弱々しくて。
泣き出したくなるような感情が私を襲った。
しかし先輩は、「うん」と頷いて、
「この仕事に、100パーセントの自信を持ってやってる奴なんかいないよ。もしいるとしたら、それは勘違いか、自分を騙しているだけだ。エージェントというやつは皆、不安を抱きながら、押し殺しながら、時には恐怖にも似た感情でクライエントとの関わりを持っている。だが、怖がっていてばかりでは、何も変わらない。わかるだろう? それが、今、お前がまさに体験している『現場』というやつの正体だ。だが――」
つと、先輩は視線を私から逸らした。
「お前はうまくやってるよ。いや、上手い下手ではないな。お前はお前のできることを精一杯やっている。それでいいんだ……お前のできることをすれば、それでいい。それにな――」
先輩が続けてなにか言おうとした時、
「よお!」
という陽気な声と共に、事務所の玄関ドアが開いた。
「笹峯……今度は何の用だ?」
突然の来訪に話を断絶させられた先輩が、迷惑そうに言う。
「あらー、そんな邪険にしなくてもいいじゃない、マイフレンド! 委託したとはいえ、ケースがどうなってるのかは気にかかるからな、特にお前の場合は。いや、待て待て待て! 早々に叩き出そうとするなよ! 知ってのとおり、僕はこう見えても『超』がつくほどの真面目なんだ。もう、気がかりで気がかりで……そう、今回も純粋に、遊馬ちゃんに会いに来るついでに、経過報告を聴きに来ただけだよ」
「順序が逆だろう……」
先輩は渋面を作る。どうやら、笹峯さんは先輩の天敵のようだ。立て板に水のごとく捲し立てる笹峯さんの取り扱いに手を焼いて、ペースを崩されているのがありありとわかる。
笹峯さんはそんな先輩に「あっはっは、そうかもねー」と笑うと、私に軽くウィンクをしてくる。
「まあ、それはそれ。経過報告は実は電話で聞いているけど、今回は実習生なのに遊馬ちゃんが主導で動いてるって聞いて、びっくりしてやってきたわけだ。新藤、お前が実習生にケースを任すなんて、まして、解決困難なケースを実習生主導にさせるなんて、そうそうない一大事だろう? これは電話越しで聞いて傍観してるだけじゃ惜しい、とてもじゃないが、いてもたってもいられないビックイベントだと思って、こうして馳せ参じたわけだ。うんうん、遊馬ちゃん、今回はとても頑張っているそうじゃないか? 新藤があんまり君を褒めるから、僕ですら手放したケースを、一体どう扱っているのか、当の遊馬ちゃんから聞きたいと思ってさ!」
「いい加減な捏造をするな。俺は実習生としては、よくやっている、と言っただけだ」
先輩が、ため息混じりにそう漏らす。まともに相手にしたら負け、とでも思っているのだろう。
「まあまあまあまあ。僕の真意は、単に遊馬ちゃんと話したいだけだとという、自分の欲望に正直な動機で来たわけではないということだよ。多分お前のことだから、『今日』は遊馬ちゃんをひとりきりにして、『あそこ』へ行くつもりなんだろう? 毎年毎年、ご苦労なことだと思うけど、独りきりで寂しがるであろう遊馬ちゃんを放っておけない。朴念仁なお前でも、レディを一人ぽつんとおいていくのは流石に気が引けるだろう? そんなわけで僕はせめて、微力ながら遊馬ちゃんを口説くついでに話し相手を買って出てあげようかと思った次第だよ」
そう言って、両手を大きく広げる。
「で、行くんだろう?」
そんな笹峯さんを、先輩は憎々しげに睨めつける。
「笹峯、貴様というやつは……」
「おっと、ストップ。別に『あの事』を話すつもりなんか、さらさらないよ。知られたくない過去の一つや二つ、誰でもあるだろうしね。かくいう僕にも、一〇や二〇はある。『あの事』を話すかどうかは、新藤、お前自身の決めることだよ。僕は関知しない。争いごとはてんで苦手なの、知っているだろう?」
「――既に言っているようなものじゃないか。それだけ思わせぶりな発言をしておいて、お前を信頼しろとでも言うのか?」
先輩は、今までに見せたことがない、怒りの表情を浮かべていた。これほどまでにあの温和な先輩の激情を掻き立てる『あの事』とはなんなのだろうか?
しかし、笹峯さんは動じた様子もなく、「オフコース!」と無邪気な笑みを浮かべた。
「ま、とにかく、遊馬ちゃんは、しばらく預かるよ。お前はお前の行きたいところに行けばいい。茶飲み話がてらに口説きながら、経過報告を遊馬ちゃん自身から聞くだけだから、何の心配もしないで行ってくればいいさ」
先輩は、怒りにわなわなと手を震わせていたが(こんな先輩を見るのは初めてだ)、やがて、大きく嘆息すると、残っていたコーヒーを一気に飲み干して、言った。
「笹峯」
「ん、なーに?」
「お前のことだから、『借りを返せ』とでも言うんだろうな?」
「ご明察。いやー、持つべきは察しのいい親友だね。もう、以心伝心、ツーとカーの仲だね、僕たちって」
先輩はガシガシ頭を掻いた。いつもと違い、苛立地の境地で頭を掻きむしっているようだった。
「……本当に、余計なことは言うなよ? もし何か言ってみろ、貴様のその軽薄でよく回転する舌を引っこ抜いて、ミキサーにかけてミンチにしてやるからな」
「はいはい、心得てますよー。それじゃ、いってらっしゃい。どっちが叩き出したのかわからないようになっちゃったね、これは失礼。でもお前と僕の仲だ、ご期待通り、遊馬ちゃんはじっくり口説かせてもらうよ」
「……勝手にしろ。――実習生、俺はちょっと出てくる。帰りは少し遅くなると思うが、くれぐれもこいつに心を許すなよ? こいつは口からではなく、口だけで生まれてきたような奴だということは、お前にも理解できるだろう? 言ってることの九割は戯言だ。適当に聞き流しておけ」
先輩はそう言うと、事務所のドアを荒々しく開けて、外へと出て行った。
私は先輩と笹峯さんのやりとりに、呆然として、言葉を失っていた。
そんな呆気にとられている私を気にする様子もなく、笹峯さんは、
「遊馬ちゃん、今日はあの朴念仁に気兼ねすることなく、楽しい時間を過ごすことにしようよ。とりあえず、紅茶を入れてくれるかな? アールグレイで。砂糖は3つね!」
親指をびしっと立ててみせた。
先輩が事務所を去ったあと、笹峯さんは私の予想を裏切るように、私の拙い状況説明を、「うん、うん」と聴いてくれた。「口説くとき必要なのは話し上手になることじゃなく、聞き上手になる事なんだ」なんて軽口を叩きながら、「それで?」とか「なるほどねー」とか、オーバーリアクションをとりつつ、しかし温和な雰囲気で話を促してくれる。やっぱりこの人も、なんだかんだいいながらプロなんだな、と私は舌を巻いていた。
ひとしきり話を聞いてくれたあと、笹峯さんは、ぽん、と膝を叩いた。
「そうか。新藤はおさえるところはおさえてる。さすがとしか言い様がないな。今回、君に主導権を委ねたのも、単なる信頼とかではなく、一番修斗くんと距離が近い君だからこそなんだな。うん、いいと思うよ、君の進め方は、オーソドックスだけど、ちゃんと的は射ている。僕と修斗くんでは温度差がありすぎたからね。今回は、配役の妙とでも言うのか、適材適所で、上手く『ハマった』進行状況になっている」
私は、その言葉に、胸をなでおろした。客観的かどうかはわからないけれど、第三者からの肯定はいかにお世辞であっても、嬉しいものだ。笹峯さんは砂糖過剰のアールグレイに口をつけると、うんうんと頷いて、
「うん、安心した。このまま、君主導で続けていくことがベストみたいだね。既に修斗くんの心の扉は開き始めている。僕とはやり方が違うけど、いい感じだよ」
「ありがとうございます」
微笑する笹峯さんに、私も笑顔を返した。
報告は終わったのだが、先輩はまだ帰ってこない。
ふと、思い出すことがあった。この人なら『あの事』とやらをつらつらと話してくれるだろうか? 先輩のプライバシーに触れるのはルール違反だと知りながら、好奇心を抑えきれず、私は探りを入れてみることにした。
「――あの、ところで笹峯さん」
「ん、なーに?」
「先輩の、『あの事』って、一体なんなんですか?」
笹峯さんは大仰に驚いて見せて、
「やっぱ聞いちゃう? 聞いちゃうの? そうだなあ、話してあげたいのは山々だけど、新藤に後で何をされるかわからないから、とりあえず僕は沈黙の黙秘権を行使させてもらうよ。あ、今のってトートロジー? でも、気になるよね、『あの事』なんて言われたら、そりゃ気になっちゃうよね? うーん、話したいな、教えてあげたいな。実はもうすでに、喉に引っかかった魚の小骨のように、僕の食道から声帯にかけて、それを語る言葉が出たがっているんだけどね。でも、ここは親友の顔に免じて、できれば聞かないで欲しいな」
私は、少し落胆して、
「そうですよ……ね。先輩の言いたくないことを無理に聞き出そうとする私が悪かったです。ごめんなさい」
「いやいやいや、君は何も悪くないよ。好奇心旺盛なのはいいことだ。ただ、やっぱり女の子はそんな慎ましさを持っていたほうがなおのこと良い。そうだな、質問には答えられないけど、ひとつだけ、先輩エージェントとして――君に言ってあげたいことはある」
笹峯さんは、そこまで言うと、息をひとつついて、切れ長の瞳を細くした。眼球の光が、わずかに輝きを増したように見えた。
「遊馬ちゃんを見てると、昔の新藤を思い出すんだよね。目の輝きが、あいつとそっくりだ。そして、クライエントや生者に関わる姿勢が、どうしてもやつとかぶって見て取れる。新藤は確かに凄まじいまでの技量と成功率を持ったエージェントだ。だが、完璧なわけではない。完璧なんて、ありえないんだよ。そうじゃないかい? 当たり前だよね。――その証拠に、新藤は、過去に取り返しのつかない過ちを犯したとだけ言っておこう。今回のケースを遊馬ちゃん自身から聞いて思ったんだけど、遊馬ちゃんも人間にのめり込みすぎるのはよしといたほうがいいと思うよ。エージェントっていうのは、ただ、死者の未練を晴らすことに従順になるだけでいいんだ。君『たち』は反発するかもしれないけど、僕はそう思うね。そうでなければ――」
笹峯さんは、不意に声のトーンを落として、先を続けた。
「――そうでなければ、そのことに気づけなければ、君はこの先……人を殺す」
「――!」
私は絶句した。
クライエントのことを、人のことを思いやることが人を殺す?
――わけがわからない。
「僕が言えるのはそのくらいだ。後のことは新藤自身に聞いてくれ。――と、招かれざる客にそろそろかぼちゃの馬車のお迎えが来たみたいだね。やあ、新藤、お帰りなさい。遊馬ちゃんに何を吹き込んだかって? 何も言っちゃいないよ。ただ、口説き落とすにはお前の帰りが早すぎたみたいだ。残念至極だよ。それじゃ、僕は失礼させてもらうことにするよ。二人きりになるからといって、くれぐれも『劣情を抱かないようなことが無いように』ね。それじゃ、僕はこれで」
戻ってきたばかりの先輩に、そう軽口を叩くと、笹峯さんはまた右手をシュタッと直角に上げて、事務所から出て行った。
まるで一過性の台風のような人だ。突然人のテリトリーに入り込んで、嵐のごとくまくし立て、思わせぶりな発言とともに去っていった。
「先輩……おかえりなさい」
「……ああ、ただいま」
先輩と私は、お互い顔を見合わせて、安堵感にも似た大きなため息をついた。




