プロローグ
月日は百代の過客にして……と詠んだのは芭蕉だったか。
数々のクライエントとの出会いの中、右往左往しながら瞬く間に時間が過ぎ去っていき、私の実習期間も残すところあとわずかになってきている。
事務所に着くと、一夜にして人外魔境と化す執務室を簡単に片付けて、いつものように事務所を住居としているのであろう先輩を起こしにかかり、朝一番のインスタントコーヒーを入れる。
クライエントの依頼を待ち、先輩と他愛も無い悪ふざけの会話を交わしながら時間を潰す。クライエントが来たら忙しいことこの上なくなるが、フリーの時はとことん暇だ。そんな日常に慣れてきて、こんな時間もかけがえのない、愛おしく居心地の良いものに感じている。――いつまでも、この時間が続けばいい。そんなことを思いながら、私は、自分用に入れたミルクティーのカップを傾けた。
私は、ここに来て、何を学んだのだろうか? 何を学んでいるのだろうか?
少しは――ほんの少しでも成長することができたのだろうか? 先輩の役に立っているのだろうか?
そんないたずらな問いかけは私をいつも不安にさせる。「落ちこぼれの遊馬」は、私の心の奥深くを蚕食しながら、「自身」と「自信」にいつも揺さぶりをかけつづけている。しかし、それは今まで持っていた劣等感とは少し違う――違ってきた。様々なクライエントとの関わりの中で、自分の力不足を思い知らされ、自分の限界はどこまでなのか、自分が何者であるのかという、絶え間無い自分自身への問いかけに変わってきている。辛い時もたくさんあるけど、時には挫折し、時には喜ぶことを繰り返しながら、数々のケースの中で醸造されてきた経験によって、最近では少し自分のことが好きになり始めている。
先輩の、ぶっきらぼうだけど厳しく優しい言葉。クライエントに向かい合う真摯な態度。いつも私を支え続け、見守ってくれる、暖かい背中。いい加減なのにしっかりしてて、意地悪だけどとても優しい。そんな先輩の後影を追い続け、今の私は、まだ「良いエージェント」への険しい旅路の途中にいる。
「――先輩、いつもありがとうございます」
デスクに足を放り投げながら美味しそうにインスタントコーヒーをすする先輩に、そう口にすることはない。その言葉はあまりに重みがありすぎて、声になることなく、口の中で霧散する。
事務所の時の流れは、とてもゆっくりだ。もともと霊感の強い人間ですら見落とすような、人外の建物であり、生者はその存在に気づきすらしない。訪ねて来るものはクライエントくらいである。
ずっと若い男女が――先輩は若作りだけど、年齢は教えてくれないのだが――同じ屋根の下にいて、浮いた事の一つも起きないのはどうかと思う反面、それが「先輩と私」なのだ。そんな関係こそが、とても心に染こんで地味な日常に暖かな彩りを与えてくれる。
しかし、そんなささやかな、幸せで柔らかい気持ちのくつろぎは、今日突然途切れることになった。私の感じていた快い時の流れを断ち切るように、唐突に事務所の玄関ドアが乱暴に開かれた。
「よう!」
開口一番、右手をシュタッと直角に挙げて挨拶をする。思いもかけない、クライエント以外では初めての来客だった。
ノックの一つもせず、突然現れてきた男性は、年の頃にして30代始めくらいだろうか? 収まりの悪いオレンジ色に染めた髪が印象的で、アロハシャツとサンダル姿というラフな装いだ。先輩と私を見ると、形の良い鼻梁とクールな切れ長の瞳の相貌を崩して、人懐っこい笑顔を浮かべる。
「……笹峯か。なんの用だ? 俺に用はないぞ?」
先輩が、不機嫌そうに出迎えの言葉を発した。男性――笹峯さんの登場でコーヒーの苦味が突然増したかのような渋面を浮かべ、ため息混じりにボリボリと頭を掻いた。
先輩の友人だろうか? 私は慌てて、自己紹介をする。
「あ、私、実習生の二階堂遊馬です。笹峯さん――ですか? はじめまして」
笹峯さんは破顔しつつ、私を値踏みするように見やると、「うん、うん、若い子はいいね」と頷いて、
「遊馬ちゃんだね。君のことは、新藤からよく聴いてるよ。なんでも、『あの』吉住教授の秘蔵っ子で、腐った魚のような目をした新藤の一番弟子じゃそうじゃないか?」」
「そんなことは言っとらん。第一、お前が根掘り葉掘り聞いてくるだけだろうが」
苦虫を噛み潰したかの表情で、先輩が訂正を加える。
「まあ、それはそれ。しかし――新藤、悲しいぞ。遊馬ちゃんがこんなに可愛い子だとは教えてもらってなかったぞ? 水臭いじゃないか、我が心の友よ。一言でも聞いていたら、もっと早く訪ねて来たというのに!」
『可愛い』などと言われると赤面のいたりだが、笹峯さんの言葉はどこか中性的で、いやらしさは感じなかった。この人もエージェントなのだろうか? この事務所に入ってくるということは少なくとも人間ではないのだろう。
「要件はなんだ?」
面倒くさそうに、仏頂面の先輩が尋ねると、笹峯さんは大げさに肩をすくめて、
「相変わらず無愛想だな。お前の飲んでいるインスタントコーヒーくらい味気ない返事で悲しい限りだよ。まあ、僕が来る要件なんか、女絡みを除いたら『二つ』しかないだろう? 今回は委託だよ、委託! リファー!」
解決できない未練を持つクライエントは、より上級、あるいは得意分野としているエージェントへと委託されることになっている。一級エージェントである先輩のもとへは、解決困難ケースのクライエントが回ってくる。そういう持ち回りのシステムなのだ。……しかし、自分が解決できないケースを委託しに来たというのに、この清々しいまでの軽薄さと爽やかさは何なんだろうか? もう少し低姿勢であるとか、疲れた様子や悲壮感を漂わせるとかであっても良さそうなものだが。察するに、きっと先輩とは気の置けない仲……なんだろうな――多分。でも、来る要件が、『2つしかない』ってどういう意味だろう? まあ、深くは追求しないけど。
「あ、あの、せっかくご足労いただいたのですし、なにかお飲みになります?」
笹峯さんの強烈な個性に圧倒されながらも、私が実習生としての役目(半ば先輩の秘書みたいなものだ)を果たすと、笹峯さんは嬉しそうに、
「若いのにできた子だね。同じできた女の子なら、若いほうがいい。うん、若いっていいね。僕はあそこで行儀悪くインスタントコーヒーなんていう泥水をすすっている輩より、もっとずっと上品なんだ。だから、そうだな、ダージリンも捨てがたいが、アールグレイという手もある。しかしやはりここは宿主をおもんばかる気持ちを込めて、僕も無難にコーヒーをお願いしておこうか。もちろんレギュラーでいれて欲しいな。あ、角砂糖は3つね」
全然上品とは言えない態でまくし立てる。
私は気圧されつつも、「わかりました、コーヒーですね」と答えた。
キッチンへ向かう途中、
「……新藤、遊馬ちゃんね。可愛いし、いい瞳をしている子じゃないか。お前が魚の死んだような目になる前にそっくりな輝きだ。や、これは失礼。死んだ魚に申し訳ないよな。怒るなよ。あの事件の後も、前も、お前のうろんな目つきは変わらないもんな。しかし、いい子そうじゃないか、羨ましい限りだ。俺のところにもあんな可愛い子が来れば、朴念仁のお前とは違って速攻手を出すんだがな。ってか、そうでなききゃ、男がすたると思わないか? 男は甲斐性、据え膳食わずはなんとやらってね。や、そう嫌そうな顔するなよ。それで、今回のケースだがな……」
笹峯さんが先輩に何やらまくし立ててる声が聞こえた。何か、私を手放しに褒めているみたいだけど、軽薄な外見と性格が異常にマッチしている笹峯さんのことだ、大して他意のない戯言だろう。私のことを一見しただけでわかったようなことを言っているけど、私に言わせればあの人ほど素直に性格がつかみやすい人も珍しい。たった数言の会話だけで、その内面も丸わかりだ。――つまりはそういう人なのだと自分に言い聞かせて、あえてスルーすることにした。
――コーヒー、コーヒー。インスタントじゃなくて、レギュラーコーヒーに、角砂糖三つ、と。
しかし、先輩もだけど、エージェントって、あんな変わり者ばかりなのだろうか。今更だけど、なにか私の思い描いていたエージェントとはイメージ違うなあ……。あるいは、類は友を呼ぶというやつだろうか?
ブルーマウンテンの豆を挽きながら、私はやれやれ、と息をついた。




