あなたの未練 お聴きします 第一部
事務所の執務室のドアをノックして扉を開けると、書類にうずもれたゴミ溜めのようなデスクに足を乱暴に乗せたその男性は、じろりと私を一瞥し、重々しく口を開いた。
「『優』だ」
「……は?」
自己紹介しようとして出鼻をくじかれた私は、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「だから、『優』だといっている」
それで話は終わりだとでも言うように、近くにあった本を顔に載せて、眠りに入ろうとする。年頃の女の子が入ってきているのだから、もう少し行儀よくできないのだろうか。
「ちょ、ちょっと……」
「なんだ?」
眠そうな眼で、彼は言った。
「自己紹介くらいさせてください」
短髪の頭をぼりぼりと掻くと、彼は大きな欠伸を漏らした。
「言ってみろ」
あわてて、私は姿勢を正した。えーと、なんていうんだっけ?
昨日あれほど練習してきた挨拶なのに、担当教官がこんなだとは思わなかったから、調子が狂ってしまった。
「本日、養成機関から実習に来ました、二階堂遊馬です。まだまだ若輩者で、至らない点も多々あるかと思いますが、どうぞご指導とご鞭撻のほど、よろしくお願い致します」
深々と礼をする。
よかった、練習の成果が出た。きちんと突っかからずにいえた。
「よろしく。新藤だ」
しかし彼は、ぶっきらぼうにそう言うと、再び本を顔の上に載せようとする。
「ちょ、ちょっとぉ。教官~」
泣き声で私は言った。
それにしてもだらしのない人だ。彫りの深い顔立ちは、まあ二枚目半といっていいところだけれど、無精ひげは伸び放題、しわくちゃのシャツとくたびれた黒いスーツ姿。
重要なのだかどうだかよくわからない書類で部屋中散らかり放題で、足の踏み場がない。
本棚も虫食い状態で、重そうな本が床の上に散乱している。デスクの上の電話はこれまた書類の束にうずもれて、急にかかってきても取れない状態になっている。
ファイルキャビネットは開け放たれ、そこにも書類が束になって入っている。分類なんてされてないんだろうな。
奥のソファベットには脱ぎ散らかしたワイシャツとネクタイが無造作にかかっている。
もしかしてこの人、執務室に住んでいるのではないだろうか?
「だから、自己紹介は聞いただろう。『優』だ。それ以上になにが望みだ?」
「なんですか、『優』って?」
「成績だよ。俺は俺の生徒に『優』しかつけたくないんだ。いいだろ、楽で?」
それはそうかもしれないが、あまりにも投げやりではないだろうか。
「新藤教官、困ります。私は一人前のエージェントになるためにここにやってきたんです。第一、実力も実習態度も見ないうちから成績の話を持ってこられるとはなんとも非常識です」
「やれやれ、真面目なことで」
やっとのことで、新藤教官は足をデスクから下ろし、私に向き直った。
「それじゃ、まず初めの指導だ。教官というのはやめてくれ。教官なんてたいそうな役職につくよりも、俺は現場一本槍、一エージェントでいたいんだ」
「だったら、実習生の受け入れなんてしなければいいじゃないですか」
「偉いさんの決めたことだ。俺は認めていない」
「でも、さっき、自分の『生徒』には優しかあげたくないって」
「便宜上、生徒と呼ぶしかないだろうが、ええ? 実習生?」
「遊馬です、教官」
「実習生、俺は教官と呼ばれるのが嫌いだ。別の呼び方にしてくれ」
「じゃ、じゃあ、先生」
「教官と大差ない」
「ん~、それじゃ、新藤さん」
「なんだ、そのなれなれしい口調は。先輩と呼べ。新藤はいらん」
子供か、この人は。
「初めからそういえばいいじゃないですか」脱力して、苦情を言う。
「今思いついた。君みたいな若い女の子に先輩って呼ばれると、10歳は若返った気がする。懐かしきかな、青春時代ってやつだ。さて、そういうわけで、俺は寝る」
「教……先輩!」
「すぐに忙しくなる」
もはや聞く耳持たずといった態で、先輩は寝入ってしまった。
「この人が本当に一級エージェントなの? 信じられない!」
私は天を仰いだ。
***
『人間界』と『天上』の狭間に位置する我々の世界では、私たちの存在が確立して一定期間経つと、すぐ養成機関へと入れられ、成績に従ってA~Eランクのランク付けが行われる。進む進路は、情報部などの事務職などもあるが、エージェントを目指すものは、短い期間ながらも実習を終了し、養成機関を卒業したあと、はれてエージェントとなることができる。
その後、エージェントは現場での仕事の成果によって、さらに一級から三級までのランク付けをされる。その中でも、一級エージェントは、人間の『未練』の95%以上を解決してしまう超エリートで、全エージェントの5%満たない。
生まれたからには、皆が憧れるのが一級エージェントだ。
省みて、私の養成所の成績はDランク。いわゆる落ちこぼれというやつだ。
一般的に養成機関は私たちが個性を持つことを嫌うが、私はランクが低くても頑張っていることだけは評価され、養成機関では異端に属する吉住教授のコネで、今回の実習先が決まった。
一級エージェントの元で実習ができると知ったときの私の喜びようといったらなかった。
一流の職場で、一流の仕事に携わらせてもらえると思った。
それが……。
「ああ、やっぱりこの書類の束、分類も何もされてないわ。本は本棚に平積みになってるし……あ、珈琲のしみ。後で染み抜きしなくちゃ……」
ぶつくさ言いながらも、初仕事は部屋の整理と言うことになった。生来の潔癖症が自分でも疎ましい。
とりあえず、床に散乱している書類の束と、重い本をテーブルの上に載せていく。床が見えなければ、どうしようもない。
「うう~ん、うるさい」
てきぱきと掃除に着手し始めると、早々に先輩から苦情がもれた。
「教……先輩、起きてくださいよ。とりあえず部屋を片付けますから」
「必要ない。どこに何があるかはわかっている」
「嘘つかないでください、『重要』って書かれたメモ帳の走り書きが床に落ちた本の下にある時点で、どこに何があるかなんて、分かるわけないじゃないですか。整理整頓がすばやい情報の引き出しになるんですよ。それでも一級エージェントですか?」
「一級とかなんだの、くだらねーよ。書類の束も本も俺たちも、要は使えるときに使えるかどうかだ」
「だから、いつでも使えるように掃除するんじゃないですか」
「わかった、わかった、奥のソファで寝てるから、気が済むまでやってくれ」
投げやりに言うと、先輩は部屋の奥にあるソファベッドに横になった。
「手伝ってくれないんですか? 書類の分類なんて、どれが重要で、どれが重要じゃないかなんて私じゃわかりませんよ」
「そこらへんも適当にやってくれ。これは試練であり、指導だ」
私は再び天を仰いだ。
思い描いていた一級エージェントのイメージが、ギャップを超えて崩壊し始めている。
実習先を斡旋してくれた際、変わり者の吉住教授は、「きっと、ほかの実習生よりは新鮮な思いになれると思うわよ」と言っていたが、こういうことだったのか。
所詮は劣等生、いわくありげなところしか、お鉢が回ってこないということだろう。
いやはや、これが初めの試練か。
でも負けるものか。やってやる。
私は腕まくりをすると、人外魔境と化している執務室の掃除に、本腰をすえて取り掛かった。