エピローグ
弥生さんを天上に送ってから、数日が過ぎた。
結局、弥生さんは、何も変わらなかった。
――でも、何かが変わった。
それは目に見えない、触れることも、感じることもできない、不確かで曖昧なもの。
――それが結論だ。魂が戻ってきてないのが、何よりの証拠。
……先輩は、最初から気づいていたのかもしれない。
その、正体も知れぬ、曖昧なものを、どんな結果になろうとも、二人がどんな真実を導き出そうとも、再び繋ぎ直すことが、弥生さんの未練を解消する唯一の方法であった、と。
さて、その後の私はといえば、今日も変わらず執務室の掃除をしている。
まったく、一日でどれだけ散らかす生活無能力者スキルを先輩は持っているのだろう?
毎日掃除をしないと、あっという間に人外魔境と化す執務室を掃除しながら、そんな不満をひとりごちながら。
そして、掃除をひと段落させると、私はいつものように先輩を起しにかかる。
「先輩、先輩! 起きてください。今、美味しいコーヒー入れますから」
「うーん、あと5分後にしてくれ」
ソファベッドに体をうずめた先輩がうなる。
「そのやり取りは、以前もしました。ほら、早く起きてください」
「……うるさいな、わかったよ……」
珍しく素直に、先輩はソファベットから身を起した。
「実習生、コー……」
「今いれてきます」
差し出したコーヒーを手渡し、一口、口をつけるのを見届けると、私は先輩に言った。
「私、今回のケースで、先輩の言ったこと、少しわかったような気がします。人を受け入れるというのは……いいえ、受け入れてもらうのは、むしろ私たちの方なんですね。明日香ちゃんにも、弥生さんにも、そんなことを教わった気がします。そのままの自分を自分自身が受け入れて、クライエントと一緒に居させてもらうこと。今回も失敗続きだったけど、今になって、ようやく理解できました。……できたような気がします」
少し胸を張って言うと、先輩はじろりと私を睨んだ。
「その言葉を言えるようになるには10年早いな。まあ、今回は60点といったところかな? なんにせよ、成績は『優』しかつけんが」
眠そうな顔でボリボリと頭を掻く先輩に、
「でも、私は先輩を信頼していますよーー信用ではなく」
私はいたずらっぽく言ってみた。
先輩は、じろりと私を睨むと、「やれやれ」というようにかぶりを振って、
「実習生、俺にそんな価値はないよ。ただ俺には俺のクライエントへの責任の取り方がある。あるはずだと信じてる。実習生、お前はまだ失敗してもいいんだ。必ずフォローはする。だから、まずは、お前自身の答えを見つけろ。エージェントとは何か、クライエントとは何か? その意味をな。それは永遠に続く禅問答かもしれないが、それでも考え続けろ。それだけは、絶対に忘れるな」
先輩はコーヒーを一口飲むと、
「まあ、だがとにかく、淹れてくれるコーヒーはうまい」
――その言葉を聞いて、私は、ちょっとドキッとした。
『……うまいコーヒーだ。今日は、特にな』
あのときの先輩が、不意にオーバーラップして、私は少し頬を赤くした。
「実習生、どうかしたか? 顔が赤いぞ?」
先輩が訝しげに聞いてくる。
「――え、いや……掃除、張り切りすぎて、血のめぐりがよくなってるだけですよ。あ、私も、久しぶりにコーヒー飲もうかしら。先輩、いただいてもよろしいですか?」
先輩は小首をかしげると、
「ああ、別にかまわんが。ついでに、俺の分ももう一杯、コーヒーを入れてきてくれ。俺の灰色の脳みそがまだ起きやがらねえ」
「はいはい、では、すぐに」
先輩からカップを受け取ると、いつものように、だが、私は少し浮ついた歩調で、キッチンへと向かうのだった。
<了>




