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あなたの未練 お聴きします  作者: 小山洋典
第二話 ツナガルナニカ
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ツナガルナニカ 第七部

 弥生さんと向き合った私たちは、タバコと灰皿をいつも通り机に差し出して、最後になるであろう面接に取り掛かった。

 先輩が、いつもののんびりとした口調で切り出す。

「弥生さん、天上界に送る前に、また呼び出してしまったことに、お詫びを申し上げます」

 弥生さんは、タバコのパッケージを開きながら、

「ほんと迷惑よ。あたしに、まだ何か用なの?」

 いらだたしげに、タバコの煙を吸い込み、吐き出した。


 そんな弥生さんに、先輩は重々しい口調で、はっきりと言った。

「娘さん……明日香さんは、自分の真実を見つけ出しました」

「はあ?」

 わけがわからない、といった態で、弥生さんが間の抜けた声を上げる。

 先輩は、気にしたふうもなく、言葉をつづけた。

「次は、あなたが真実を見つけ出す番だと思うのです。それが出来ない限り、あなたは天上界に行っても、また現世に引き戻されることでしょう――またお役所仕事の繰り返しですよ」

「笑えない冗談ね。でも、あたしの未練なんて、とうになくなっているんでしょう? 自分でそう言ったんじゃない? あたしを天上界とやらに送るって」

 先輩は、じっと弥生さんの瞳をのぞきこむ。

「私もね、そう思っていましたよ。ただ、あなたは死ぬ前に、明日香さんと同じく、義務を果たさなければいけない。あなたの真実をね――」

「――あたしの、真実……?」

 瞳をのぞきこまれて気まずいのか、弥生さんは目をそらした。

「……実は、あなたとお話しした後、私どもはまた2度ほど明日香さんに会ってきたのです」


***


「明日香さん、何度も付きまとってすみません。あの絵は、どうしましたか?」

 先輩は、放課後、また明日香ちゃんを近くの公園に連れ出して、そう聴いた。

 明日香ちゃんは、気の抜けた表情で、抵抗なく私たちについてきた。

 夕刻に差し掛かっている。赤い光が目を焦がす中、公園のブランコをゆすって、明日香ちゃんは口を開いた。

「――棄てました。燃やして、すべて忘れようとしました」

「……そう、ですか」

 先輩は、優しく包み込むような声で、そういった。

「昨日は、一晩中泣いていました。本当のお母さんのことなんて、知りたくなかった。

 ――今の優しいお母さんやお父さんが、いなくなってしまうような気がして、それで……けじめだったんです。お母さんに……本当のお母さんに別れを告げようと」

「……」

 先輩は何も言わない。ただ、明日香ちゃんを気遣うような目で、無言に慈愛を込めて、見つめていた。

「私、今の生活が、とても幸せです。本当のお母さんじゃないかもしれないけど、両親は私を深く愛してくれてます。それで……いいんだとおもいます」

「それが、あなたの出した真実ですか?」

「はい」

 先輩は、かぶりを振りながら頷いた。

「明日香さん」

「――はい」

「あなたは、とても強い方ですね。あなたに会ってからね、ずっと考えていたことがあるのです。あなたは、子供ころ虐待を受けて、挙句の果てに捨てられた。それなのに、本当のお母さん、弥生さんに対する恨みつらみは、一言も発してない」

 明日香ちゃんは、ハッとしたように眼を見開いた。

 それからしばらく経って、小さいが、明瞭な声で話し始めた。

「――それは、私が今、幸せだからだと思います。私が養子だったことはショックだったし、本当のお母さんのこともびっくりしましたけど、今は友達もたくさんいるし、お父さんもお母さんも優しい。私は結局、橘明日香ではなくて、椎名明日香なんです。そう、私は今の生活が好き。大好きなんです」

「そうですか――」

 先輩は息をひとつはくと、

「もし、あなたの本当のお母さんが生きていたとしたら、伝えたかった言葉など、ありましたでしょうか?」

「伝えたかった言葉……」

 明日香ちゃんは、思案した揚句、うつむいていた顔をあげた。

「どんなにひどい母親だったとしても、私、本当のお母さんが好きでした。……うん、大好きだった。――でも、今のお母さんもお父さんも、大好き。だから、感謝しなきゃいけないと思うんです。私を産んでくれて、ありがとうって……」


***


 そこまで、ゆっくりと報告すると、弥生さんは遠くを見る目つきになっていた。

 タバコの灰が、長く延びて、指からこぼれ落ちそうになっている。

 それに気づいてか気付かずか、灰皿でタバコをもみ消すと、弥生さんはそっけなく言った。

「――あ、そ」

 先輩は、ゆっくりと言った。

「明日香さんは、今、幸せでいます。この先、どんな不幸が舞い込んでくるかわからない。でも、彼女はとても強い。何とかどんな壁でも乗り切って、幸せに暮らしていくと思いますよ」

 弥生さんは、「そう」と呟くと、言葉をつづけた。

「よかったんじゃない? あたしには、できすぎた子よ。よっぽど今の家庭がいいのね。さて、これで、あたしの未練は本当に終わり。後は天上とやらにつれてってもらうだけね」

「はい」

 先輩は、のほほんと言った。ただ、その目は深く弥生さんの瞳を見据えていた。

 弥生さんは、タバコをもう一本取り出そうとして、思いとどまったように手を止めると、タバコを箱の中に戻した。

「……あたしね」

 弥生さんは、独り言をつぶやくように言った。

「あたし、ひどい母親だった。ただ、あの当時、あの子への憎しみは、消すことができなかった。都合がいいよね、こうして、死んだあとになって、あの子のことを、こんなにも愛していると気づくなんて」

 弥生さんの独語は続く。

「あの絵を見るたび、あたしは、あたしのしてきたことを思い出さずにはいられなかった。だから、棄てられなかったの。あたしがどんなんでも、あの子は、私を母親だと認めてくれていた。だから、あの子はあたしの子どもなんだって。あたし……あたしは……」

 弥生さんの頬を、一筋の涙がこぼれ落ちた。

「あたし、あの子のこと……明日香のこと、愛している。今でもね」


 弥生さんの言葉は、「愛していた」ではなかった。現在進行形で、彼女は娘のことを「愛している」のだった。それは、彼女と別れてから、ずっと隠し持っていた思いだったのだと、私は気づいた。


 弥生さんは、タバコを一本ぬいて、今度は火をつけて、紫煙を吸い込んだ。

 そして、私のほうを向くと、

「実習生さん」

「……はい」

「あたし、あなたの言った通り、ひどい母親だった。自分でも、そんなことは知っていたのよ。自分を殺してしまいたくなるくらい、痛々しくね。でも、あなたがあのとき、本気で怒ってくれたから、あたしは今も……死んだ後も母親でいられたのかもしれない。あなたは私を無視することもできたのにね。どうしてかな、あなたに罵られた時、あたしは、あたしがあの子の母親なんだって思えた」

 私が何も言えずにいると、まぶたをぬぐって、弥生さんは言った。


 ――私は、不意に理解した。

 弥生さんは、実の母親だと明日香ちゃんに認めてもらいたかったわけではない。感謝されることを望んでいたのでもない、罵倒され、憎まれ、拒絶されても良かった。

 ただ、母と子の何かが、失われて宙ぶらりんになっていた何かが、細い糸で、かすかに繋がったとわかったとき、うずもれていた未練をようやく断ち切ることができたのかもしれない。


 ――私はまだ『親』というものの何たるかを知らない。だから、本当のところは何も理解できない。

 ――けれど、それが母と子というもの。親子というものなのかもしれない。


 弥生さんは微かに私に向かって微笑んだ。

「ありがとう。嘘じゃないわよ? ほんとうに。これが、あたしの本心」

 それから「――さて」と、自分を鼓舞するかのように言うと、弥生さんは、いつもの調子に戻って、ふてぶてしい態度で、もうひとつだけ言葉をつづけた。

「死神さんに子供ができるのかどうかは知らないけど、あなたはこんな最低な母親になってはだめよ。こんなに長く生きてきて、言えるのはこれだけ。でも、何か、つかえがとれた気がするわ。さあ、私を天上へ連れてって」

 いつものように、あっけらかんと笑う。


 ――でも。

 ――それでいいのだ。それが、橘弥生、その人なのだから。


 私はそう気付いた。


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