ツナガルナニカ 第六部
次の日、私たちは放課後を待って、明日香ちゃんを待ち伏せした。
やがて、友達と一緒に下校の途についていた明日香ちゃんが友達と別れると、一番初めに出会ったときのように、明日香ちゃんの前に立ちふさがった。
「――もう、かかわらないでください、と言ったはずですけど」
私たちを見て、明日香ちゃんはハッとした様子を見せたが、いつもと変わらず、真っ正直に、毅然として言った。
先輩はわざとらしく、すまなそうに頭を書いてみせると、
「約束を破ってすみません。しかし、どうしても重要なことがあるのです。あなたの協力なしには、弥生さんの魂が報われないのです」
「何を言っているのか、よくわかりません。もし宗教勧誘なら、お断りですよ」
「そうですね、常識的に考えて、そんなふうに感じられるかもしれません」
訝しがる明日香ちゃんに、先輩はおどけて見せた。
「しかし我々は、そういったものではありません。私はね、あなたには義務があると思うのです。亡くなった弥生さんの未練を断ち切る義務が、です。そのために、我々はあなたに事実を見せなければなりません。もちろん、なにが真実を決めるのはあなた自身です。あなたには、すべてを知った上で、真実を決める必要がある。そう思うのです」
先輩は息を吐き出すと、
「今から、つきあっていただけますね?」
いつになく強引に言った。
***
築何年かもわからない、ボロボロの木造アパートに明日香ちゃんを連れてきて、先輩は言った。
「ここが、あなたの本当のお母さん――弥生さんの住んでいたアパートです。間取りは1DK。前世紀の遺物ですよ。まだ、弥生さんの後には誰も入ってないみたいなので、部屋を空けてもらいました。ご一緒に来ていただけますか?」
「こんなアパートに……」
明日香ちゃんは、ショックを受けたのか、言葉を詰まらせた。
金属製のさびた階段を上って、二階に行くと、私たちは、弥生さんの部屋へと入った。
何もない片づけられた部屋。カビ臭いにおいが鼻を突く。
夕焼けの日差しが差し込み、主のいない寂寥感を悲しいまでに醸し出していた。
「お母さん――本当のお母さんはこんなところに住んでたんです。だれにも頼らず、だれにも救いを求めず、一人で孤独に死んで行きました」
「……そう、ですか」
明日香ちゃんは、胸に手をあてて、絞り出すように言った。
そんな沈痛な面持ちの明日香ちゃんに構わず、先輩は続けた。
「弥生さんは、スナック嬢として働いていましたが、通い詰めていた男性にスト―キングされて、めった刺しにされて、亡くなりました。新聞でも小さな記事で取り上げられてましたが、孤独な人生を送ってきたようです」
「……」
何も言えないのか、明日香ちゃんはただ黙って俯いた。
「覚えていますか? あなたは、水商売に行く母親を見送り、帰ってくるのをじっと待ってた。帰ってきたら帰ってきたで、殴られ、タバコの火を押し付けられ、弥生さんに棄てられるまで、あまりにも不幸な生活を送ってきました」
淡々と言う先輩に、明日香ちゃんは唇を噛んで、言った。
「それが、私のお母さんだったんですね」
「はい」
先輩は頷くと、部屋の隅に置かれた段ボール箱を持ってきて、明日香ちゃんの目の前に置いた。
「これが、弥生さんが34年間生きてきて、残ったすべての遺品です。服などは処分されたようですが、これが、弥生さんのすべてだったんです」
そう言って、先輩は一枚の画用紙をとりだした。
「これは、あなたが子供のころに描いた絵です。鬼の絵です。でも、本当は、お母さんの絵を描いたんですね。この絵を見たとき、私の心は痛みでいっぱいになりました」
明日香ちゃんは、目を見開いてその絵に見入った。
それは明日香ちゃんの夢に出てくる鬼そのものだったからかもしれない。
「……すみません、覚えていません。とにかく、私の本当のお母さんは、とてもひどい人だったんですね。でも、それを知って、何になるんです? 同情しろとでも言うんですか? 私は橘明日香じゃない。もう、椎名明日香なんです」
「そうですね、その通りだ……」
先輩は頭をぼりぼり掻いた。
「ただ、一つ引っかかるんです」
「何が、ですか?」
訝しげに、明日香ちゃんが尋ねる。
「あなたの本当のお母さんは、この鬼の絵は、自分の絵だと言ってました。見るたびに心を突かれる、悲しすぎる絵です。しかし、それを破り捨てもせず、死ぬまで、ずっと持っていた。どんな気持ちでもっていたのかはわかりません。ただ、自分が死ぬその日まで、大切に取っておいたんですよ」
「――!」
明日香ちゃんは、言葉を失うと、幼いころに自分が描いたその絵に見入っていた。
先輩は、そんな明日香ちゃんに、諭すように言った。
「明日香さん、私は、親になるというのは大変なことだと思うんです。子供のために働き、見返りを求めず、女手一人で育て上げる苦労は、並大抵のことではありません。あなたの本当のお母さんは耐え切れず、あなたに別れを告げなければならなかった。あなたのことを憎いと思うこともあったかもしれません。単なる血のつながりが、親子であるということは、私は認めたくありません。ただ、この絵を、棄てられない絆として大切に持っていたことは、間違いない事実だと思うのです。胸の痛みを感じながら、何度も何度も、この絵を大事にしてきた」
明日香ちゃんの頬に、一筋の涙がこぼれおちた。
「でも、私はお母さんのことを覚えてません。こんな鬼の絵を持っていたくらいで、私の幸せを願っていてくれたんでしょうか? ――私、今が幸せなんです。子供のころから、あの夢から解放されたいと思っていたんです。それが、いきなりこんなことを教えられて、どうすれば……いいえ、違う……あなたたちはどうしたいんですか?」
「この絵を大切に持って置いてください。そして、あなたの真実を見つけてください。どれだけ時間がかかっても、あなたがあなたの心のドアを開くまで。それが、憎悪であっても、愛情であってもかまわない。あなたの真実を、本当のお母さん――弥生さんに届けてあげていただけませんか?」
明日香ちゃんは、子供がいやいやするように、首を振った。
「そんな――そんなこと言われても……」
明日香ちゃんは絵を持ったまま、部屋から飛び出した。
突然の逃亡に、私が反射的に追いかけて行こうとすると、先輩は固く厚い手で私の肩をつかんだ。
「先輩! 止めないでください!」
しかし、先輩は暴れる私の肩を万力のようにつかんで離さず、悲しそうに言った。
「……後は、明日香さんの決めることだ」




