ツナガルナニカ 第四部
事務所に帰ると、先輩は何も言わずに弥生さんの資料に目を通していた。
無言の空間。固まった時間。しかし時計の時を刻む音だけが聞こえてくる。
いつもと違う先輩に、調子が狂う。
ここは、私が何とかしなければいけないのかもしれない。
――よし。
元気とやる気だけが私の取り柄だ。たとえ、それがから回ったとしても。
「先輩、コーヒー入れますね。とびっきり美味しいインスタントコーヒーを。生き返りますよ!」
まだまだ心に暗澹たるものがあるが、無理やりにでも元気を装って、そう先輩に声をかける。
「……ん、頼む」
しかし、先輩の反応はそっけない。
元気づけようなんて、やっぱりおこがましいかな?
少しばつが悪い気持を押し隠しながら、コーヒーを入れ、先輩に手渡した。
「どうぞ」
「ああ、ありがとう」
先輩は弥生さんの資料に目を通しながら、心ここにあらずの様子で、コーヒーに口をつけた。コーヒーを飲み込む、ごくり、と先輩が喉を鳴らす音が響いた。
こんなのいつもの先輩じゃない。先輩には、もっと余裕があって、飄々として、いい加減でいてほしかった。
『先輩、私……』
『うまい、やはりコーヒーはインスタントに限る』
満足そうに熱い息を吐き出した先輩は、「ん?」と私の顔を見た。
「どうした、実習生?」
「――え? あれ?」
「何だ? 気持ち悪い奴だな。言いたいことがあって呼び掛けたんじゃないのか?」
私はどぎまぎして、
「あ、あれ? てっきり、先輩が落ち込んでるものかと……? その、私、先輩にひどいこと言っちゃったし……」
先輩は苦笑して、肩をすくめた。
「俺、お前に何か言われたっけな? まあ、それで、俺を慰めようと? 10年はえーよ。そんなことでいちいち落ち込んでたら仕事にならん」
先輩は、コーヒーをもう一口飲むと、
「明日も、明日香さんの家へ行くぞ。長期戦になるから、今日は帰ってゆっくり休め」
いつもの飄々とした先輩に戻っていた。
私は毒気を抜かれて、
「はあ……わかりました」
と反射的に答えた。
なんなの、この立ち直り?
なにか、もともと落ち込んでいたのかどうかも疑わしくなってきた。
もっと落ち込んでくださいなんて言わないけど。
――と、とにかく、私の心配、返してくださいよ、もう!
「それじゃ、お先に帰らせていただきます」
少し怒った口調で、私が言う。どうも感情的になってしまうのが私の悪い癖なのだが。
「ああ、明日も早いから、遅れるなよ」
「――先輩に言われたくありません、今日、起こしたの私ですし。先輩も執務室に寝泊まりしてないで、家に帰ったらどうですか? お風呂、ちゃんと入ってくださいよ」
「わかったわかった、じゃあな、また明日、実習生」
「遊馬です。それじゃ、また明日」
と、踵を返し、執務室のドアを開きかける。
その時、先輩の声が背中越しに聞こえた。
「――実習生、ありがとうな、うまいコーヒーだ。今日は、特に」
突然の先輩の優しげな、ぶっきらぼうだが温かく包み込んでくれるような言葉に、私はなぜだかわからないが、思わず少し胸が高鳴って、少し赤面した。
――なんだろう、今の鼓動は?
私は、焦る気持ちでその不可解な感情を押しとどめ、
「はい、それじゃ」
振り向からないで、そのまま執務室のドアを閉じた。
――振り返ると、今の鼓動の理由を知ってしまいそうだった。
***
次の日、日曜日。
相変わらず、朝の陽射しが気持ちいい。
――今日もいい天気になりそうだ。
そんな早朝の心地よさを味わいながら、私たちは今日も明日香ちゃんを待っていた。
もっとも、先に言ったように朝に弱い先輩は憮然とした表情を崩さないままだったけど。
相変わらず、明日香ちゃんの部屋のカーテンは閉まったままだ。
「先輩」
「んー」
「今日も出てきてくれませんね、明日香ちゃん」
「まあ、待つのも仕事さ。雨が降ってないだけましだ」
自分に言い聞かせるように言った。
「そうですね……」
明日香ちゃんは出てきてくれないのだろうか。
私たちが、ここで待っていることは、明日香ちゃんも気づいているはずだ。だからカーテンを開けない。先輩が言ってた通り、本当に長期戦に……
――と、思ったときに、明日香ちゃんの部屋のカーテンが開かれ、明日香ちゃんがじっとこちらを見下ろす姿がガラス越しにあらわになった。
「あ、せ、先輩……!」
私が嬉しくなって、思わずはしゃごうとすると、
「落ち着け。平然としてろ。警戒心をまた抱かれないようにな」
鋭く先輩の静止がかかった。
あわてて、居住まいを正す。
――平然に、平然に。
明日香ちゃんの姿が、ガラス窓の向こう側に引っ込んだ。
……それからしばらくして、玄関のドアが開かれた。
外出着に着替えてきたらしい明日香ちゃんは私たちのところまで来て、
「――迷惑です。でも……」
少しうつむくと、意を決したように顔をあげて
「教えてください、私の本当のお母さんのこと」
しっかりした声で、そういった。
***
近くのファミレスまで移動した私たちは、明日香ちゃんと対面になって、椅子に腰かけていた。
先輩はウェイトレスが持ってきたレギュラーコーヒーを相変わらずまずそうに飲むと、
「何か、思い出しましたか? それとも、気づいたことでも」
と、率直に切り出した。
明日香ちゃんは、目をそらし、思い出すようなそぶりを見せながら言った。
「夢を、見たんです」
「ほう、夢を」
先輩が繰り返す。
「……鬼の夢です。すごい形相で私を睨みつけて、私にひどいことをしようとするんです。でも、私は逃げようとはしないんです。なんて言ったらいいか……鬼だけど、鬼じゃないんです。私のほうが鬼をいつも待っているんです。一人ぼっちで、真っ暗な中、鬼が来るのを、怖い思いをしながら、でも、待っているんです」
中学生にしては、はっきり、しっかりした物言いが、明日香ちゃんの素直さと真面目さを際立たせる。母親と違って、こんなにもしっかりした子供が育つとは。鳶が鷹を生む、とはこういうときに使うのかな?
「なるほど」
先輩は、のんびりとした口調でこたえる。
「子供のころから、覚えがある夢です。何回も、何回も見てて、何の意味があるのか、わかりもしませんでした。それが、あなたたちに出会ってから、鮮明になって。私、鬼のことを、『ママ、ママ』と呼んでいたんです」
明日香ちゃんは、鎖骨の火傷に指を這わせながら、続けた。
「あれが、私の本当のお母さん……なんですね?」
先輩は、じっと明日香ちゃんの目をのぞきこむと、
「おそらく、それで間違いないと思います」
大きくはないが、温かく耳に届く声で、そう言った。
「そうですか」
明日香ちゃんはため息とも嘆息とも取れない息をついて、中学生にしては大人びた口調で口を開いた。
「私、今のお母さんと、お父さんが大好きです。優しいし、いつも愛してくれてるって感じています。私、今が幸せなんです。その幸せを、壊されたくない。たとえそれが――本当のお母さんであっても、です」
「そうですか」
たいして動じた風もなく、先輩は鷹揚に頷いた。
「ご両親に、ご自分が養子であることを確認したのですか?」
先輩の問いかけに、明日香ちゃんはかぶりを振った。
「聞いてません。聞けるわけ、ないじゃないですか。――でも、子供の頃から気づいていたと思います。お父さんとお母さんの様子が……微妙に空々しいというか、何かを隠しているような気になったことがあって……私、お父さんとお母さんの優しさに壁があるのを、なんとなく、気づいていたんです」
それから、ややあって、明日香ちゃんは重々しく口を開いた。
「私、今が幸せです。気になったけど、やっぱり本当のお母さんのことは、思い出したくないです。今の幸せを壊さないでください」
それから、ため息を吐き出すと同時に、
「もう、付き纏うのはやめてください。私、本当のお母さんのこと、知らなくていいです」
突き放すように、未練を断ち切るように、そう言った。




