ツナガルナニカ 第三部
――私たちの衝撃の告白の後。
明日香ちゃんは、先輩の突然の告白に、しばらくの間固まっていたが、やがて困惑した言葉を発した。
「……え? お母さんなら、たったいま、行ってきますって言ってきたばかりですよ?」
まるっきり理解できてない。
それも当然だろう、明日香ちゃんが弥生さんに捨てられたのは3歳のころだ。自分が捨て子だという記憶すら残ってないに違いない。もう、橘明日香はいない。今、ここにいる明日香ちゃんは、椎名明日香ちゃんなのだ。
先輩は、わざとらしい沈痛な表情を崩すことなく、諭すように言った。
「そうではないのです。あなたの本当の名前は、椎名明日香じゃない。本当の名前は、橘明日香なのです。あなたの本当の生みの親は橘弥生さん。あなたは養子として、椎名家に迎えられたのですよ」
「え? ……え?」
明日香ちゃんは、ますます混乱している。そのうろたえぶりが、思考回路の停止をあけすけに表現していた。
「あ、あの、私、これから学校なんです。どいてくれませんか? 私は椎名明日香です。本当のお母さんとか、突然現れて……どなたかと勘違いされてませんか? だいたい、あなたたちは誰なんですか? 悪ふざけにもほどがあります」
そのとおりだ。突然現れて、あなたの両親は本当の両親じゃない、本当の母親は死んだ、と言われて、すんなり受けいれられる中学生が、どこの世界にいるのだろう?
先輩は、ふぅ、と、これまたわざとらしいため息をついて、
「突然こんなことを言われても信じられないでしょうね。しかし、あなた自身にも、かすかな記憶の痕跡はありませんか? あなたの今のご両親に、違和感を覚えたことは?
――よくお考えください。私どもは、また参ります。その時までによくお考えになって、またお話しさせてください」
「ふ、ふざけないでください! 私、学校があるんで! またにしてください!」
憤慨して、私たちを睨みつける。
だが先輩は、ゆっくりした口調で、しかし、はっきりと言った。
「はい、私どもは、またあなたにお会いします。あなたを、お待ちしております」
明日香ちゃんは先輩の毅然とした態度に、言葉をつまらせると、キッと私たちを睨みつけて、駆け足で私たちの脇をすり抜けていった。
***
私は、明日香ちゃんの困惑を引き受けるように、躊躇いながら先輩に尋ねた。
「先輩、本当に、これでよかったんでしょうか? 明日香ちゃんは、弥生さんのことを忘れています。幸せなことじゃないですか? そう、明日香ちゃんは今、とても幸せなはずです。それなのになぜ、真実を告げなければいけないんですか?」
「んー」
先輩は先ほどとは打って変わった、いつも飄々とした態に戻って、間延びした声で答えた。
「実習生、事実と真実をごっちゃにするな、といっただろう。弥生さんが実の母親だった、これは事実だ。明日香さんと弥生さん、それぞれの真実を見つけ出すのは、彼女たち次第だ。それにな――」
先輩は、ため息をつくように言った。
「忘れられていい魂なんか、存在しないよ。それが、善かれ悪しかれな」
「でも……たとえ弥生さんの未練が明日香ちゃんに関することであっても、わざわざ明日香ちゃんの幸せを壊す権利が、我々にあるんでしょうか? 私は『親』の気持ちはよくわかないですけど、親っていうのは、子供の幸せを……」
そこまでいって、私は言葉に詰まった。
――あたしはあの子を恨んでいるのよ。
かぶりを振って、私は続けた。
「普通の親というのは……どんな親でも、子供の幸せを願うものではないのでしょうか? 私、正直に言って、弥生さんのことを受容できません。正直に言ってしまうと、嫌いなタイプです。自分の子のことを、あんなに邪険にしていました。頭でわかっていても、感情として許せません」
「それでいいんだよ」
意外な言葉を先輩は、やれやれと言った態で、諭すように言った。
「実習生、これは覚えとけ。お前がどんなにひどいクライエントだと思おうが、自分のありのままの感情を持ち続けろ。そのうえで、ありのままのクライエントと一緒に『居させてもらう』ことだ。俺たちは神でも断罪者でもない。しかし、小手先の言葉で自分の感情を押し殺すんじゃない。俺たちは、正直な自分のままで、ただ、クライエントの魂に『寄り添わせてもらう』存在なんだ。自分の理想や基準を押し付ける存在ではない」
先輩は、私を叱責しているのではない。何か、とても大事なことを教えようと、気づかせようとしているのがわかった。しかし、今の私には、そんな先輩の気遣いも、どうしても受け入れられなかった。
先輩は、いつもより幾分真剣な表情になって、先輩は私に尋ねた。
「――実習生、お前、弥生さんのことを少しでも考えたこと、あるか? あれだけ凄惨な人生を送ってきて、未練は何もないと言い切る、弥生さんのことを、少しでも考えたか?」
そう言われて、私はハッとした。確かに、私は弥生さんの上辺の態度にばかりこだわって、弥生さんの過去のこと、その苦しみのことなど、何も考えられずにいた。
十八で駆け落ちをして、ドメスティックバイオレンスにあって、何の希望もない中で、絶望的な状況で、一人で子供を育てなくてはならなかった。娘を愛することもできず、ただひとり、苦しんできた。
それは、どんなに大変なことだっただろう?
――いや、「大変」などという言葉では表しきれない。そんな言葉で片付けられるなど、弥生さんにとって、どれほど失礼なことか。
そのことを眼前に突きつけられ、私は自分の身勝手さに絶句した。
「……わかっています。頭ではわかっています。でも、受け入れられない現実って、どうしてもあるじゃないですか? 先輩は、ありのままの感情で、弥生さんのことを……お母さんのことを、受け入れられたんですか?」
「……」
短い沈黙の後、先輩は、肩をすくめて言った。
「しかし、それがおれたちの仕事なんだよ。クライエントの未練を晴らすこと。そうしないと、弥生さんの魂は、ずっと現世にとどまり続けることになる」
私は、唇をきゅっと噛んで、言葉を絞り出すように言った。
「先輩……私、先輩は養成機関の教授たちとは違うと思っていました。でも、先輩も一緒なんですね。人の幸せよりも、仕事を優先させることが、『良い』エージェントの条件なんですか?」
「……」
先輩は何も言わない。
何か言ってほしかった。「そうだ」でも「ちがう」でも。つまるところ私は、先輩に幻滅したくなかったのだと思う。
「それなら……。それなら、私は落ちこぼれのままでいいです。先輩は教授たちとは違う。先輩まで成績を気にしてるような仕事なら、私はエージェントという仕事になんか、つきたくないです」
先輩はしばらく無言だったが、疲れたように息を吐いた。
「――正論だよ、遊馬。間違いなく正論だ」
先輩は踵を返すと、事務所へと帰る道を歩き始めた。
私が三歩遅れて先輩についていくと、先輩は、振り向くこともせず、呟くように言った。
「遊馬、じゃあ、俺たちがやらなきゃ、だれがやるんだ? 俺たちの仕事を、だれが肩代わりしてくれる? その覚悟がなければ、エージェントになることなど、やめたほうがいいぞ」
いつも大きい先輩の背中は、今は疲れて小さくなって見えた。
――その時、私は、「実習生」ではなく、「遊馬」と名前で呼ばれていたことに気付いた。
先輩に不信感を抱き始めたのは、この時からだったかもしれない。
後から思うと、私は、甘えすぎていたのだ。先輩という温和な、大きすぎる存在に。
***
次の日の土曜日。
朝から私たちは、明日香ちゃんの家の前に立ち尽くしていた。明日香ちゃんの部屋は、2階にある。窓から私たちのことは見えるはずだ。
しかし、窓にはカーテンが引かれており、昼近くになっても、開かれる様子がなかった。
「先輩……」
昨日のことがあってから、先輩は少し元気がなさそうに思える。
どことなく、話しかけるのがはばかられて、昨日は事務所に帰ってからも、私たちが交わした言葉は少なかった。
私は、なんと続けていいか分からずに、言葉を空中に霧散させた。
と、突然先輩は、呟くように言った。
「――鎖骨の辺りにな」
「え?」
私は、何かを言いだそうとしてる先輩の声に耳を傾けた。
「明日香さんの鎖骨の辺りに、火傷があった。タバコを押し付けると、ああいう火傷のあとが残る」
「先輩……」
「――火傷の痕が、あったんだよ」
先輩は、そういうと、口をつぐんだ。
その日は結局、明日香ちゃんの部屋のカーテンが開かれることはなかった。




