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「空が近い」
ビル風に煽られる長い髪を両手で押さえ、カチは青く晴れ渡る空を見上げた。
緩やかに流れてゆく大きな雲はとても柔らかそうで、手で掴めば飴のように溶けてしまいそうだなとカチは思う。
「何もないから、なおさらそう思うのかもしれないわね。現在の地球は、この浮島……ゼタフロート以外は、海と空しか存在しないものね」
「ゼタフロートっていうのですね」
バイクを取りに行った真朱に言われるまま、カチは環境保護機関の巨大なビルの入口にノートと並んで立っていた。オフショアは建物から出ることができないらしく、途中で別れた。
「人が、たくさんいますね」
「私たちにしてみれば、巨大な浮島でも、地球の面積から言えば、一パーセントにも満たない小さな浮島だもの。人がひしめいて見えるのは当然よ」
日差しは中天にあり、大きな道路が一直線に伸びる道は、様々な大きさの車が行き来している。
カチは歩道を談笑しながら歩く、携帯型の小径思念遮蔽装置……すなわちサイレンスを着けているアルビレグムの男女を目で追った。隣に立つノートも、サイレンスを装着している。
「……来たようね」
響くエンジン音に、カチは驚いた。
小気味のよいリズムに誘われ、ふっと視線を動かすと、環境保護機関の地下からサイドカーが飛び出した。
銀色の車体に、青いラインの塗装。地面から数十センチの高さで浮いている大型のバイクが、カチとノートの前に乗り付けられた。
「まったく、面倒だな」
バイクにしがみつくようにして乗っていた真朱は、上体を持ち上げて嘆息した。
「ちゃんとヘルメットを被りなさいって言っているでしょう、真朱」
「俺には必要ないさ」
着けていたゴーグルを外し、乱れた髪を撫でつけている真朱の態度に、ノートは肩をすくめる。
しかし、いつものことなのか。それ以上は何か言うことはなかった。
「乗れよ。嫌なことは、さっさと片付けたいんだ」
「は、はい……でも」
サイドカーの座席から取り上げたヘルメットを、押しつけるように差し出す真朱に頷いた。でも、カチは地面から浮いているバイクが気になって、歩み出せない。
「大丈夫だよ。浮いているからって、空を飛ぶわけじゃない。まあ、走行中に落ちたら怪我だけじゃ済まないかもしれないけどな。おとなしくしてりゃ、落ちることなんてないさ」
鈍色のパイプが組み合わさって作られているエンジン。更に、機関部に動力を送るソーラー・パネルを真朱はこつんと叩いてみせた。
「タイヤだと色々と不都合がでるんだ。ゼタフロートの地面はいくら丈夫な素材で作られていたって、結局、ブロックだからな。タイヤで踏みつけていれば、痛みも激しくなる。だから、車両はみんな浮いているんだ」
人差し指を地面に向ける真朱に、カチは自分の足元を見つめた。
ブロックを繋ぎ合わせて作られているにしては滑らかだ。海に浮かんでいると思わせないほど揺れを感じさせない。
高いビルも聳えているのだから、不思議だ。
「それに、地面から浮いているぶん、揺れが少なくて、乗り心地は最高だ。……だから、早く乗れ。オレの運転に間違いはないよ」
「あ、はい!」
投げつけられたヘルメットを受け取り、カチは被ろうとした。そこで、耳を覆うサイレンスが邪魔なことに気づいた。
「あの……」
「外して首に掛けておけ。四の五の言わずに、早くメットを被れ。サイドカーに座って、街でも眺めてろ。あっという間に、目的地に到着だ」
取り付く島もなく一方的に言う真朱に、カチは頷くしかない。おとなしくヘルメットを被ってサイドカーに乗りこんだ。
エンジンの微動が少し気になるが、革張りのシートは柔らかく、座り心地は割と良かった。
「安全運転でお願いね、真朱」
「行ってくる」
真朱は愛想なく言って、ゴーグルを装着した。グリップを握り、前傾姿勢に構えた――瞬間だった。
不意に振動が強くなった。カチは襲いかかってくる衝撃に驚き、声になりきれない悲鳴を上げた。胃が冷えるような恐怖に、シートをぎゅっと握りしめる。
空気が風となって、顔にぶつかり――弾けてゆく。
緩やかな午後の雰囲気を醸し出していた街並みが、慌ただしく視界を流れ去る。目が回るような光景に、カチは圧倒された。
「さて、乗り心地は、どうだ?」
風を切って走るバイク。顔にのし掛かってくる風圧に、カチは何も答えることはできない。馬鹿にするようにほくそ笑む真朱を恨めしく睨むのが精一杯だった。
カチが驚いている間に、真朱が駆るバイクは市街地を抜け、高層ビルの合間を走る高速道路を突き進んでいた。
幅が広く取られた道路には、バイクと同じように低空浮遊している車が走っている。
「びっくりしました」
「そりゃあ、いい」
速度を落としたのか、カチは息を塞ぐほどの強風から解放された。ほっと息を吐き、改めて周囲を見回す。
環境保護機関から見上げた空は、更に近い位置にある。宇宙ステーションの壁面の凹凸がくっきりと見えるほど、大気は澄んでいた。
「世界は、どうなってしまったのですか?」
様々な色のライトが点滅し、地球と流れ星のマークが描かれているステーションには、赤い塗料で、区画を表す記号と数字が書かれてあった。
カチの記憶の中にあるものとは、たしかに違うようだ。
「滅んだのか……生まれ変わったのか。まあ、俺には、あまり関係ないさ。生まれる前の話だからな」
カチは強風に煽られる長い髪を両手で押さえた。
神妙な気持ちになって、作り物とは思えない浮島を取り囲んでいる深い海の色を見つめた。
(全てが、夢のよう……)
高層ビルが乱立し、編み目のように張り巡らされた道には、たくさんのエアカーが行き来している。
カチは眼前で蠢く、人の世界の力強さに圧倒された。
しかし、それ以上に、箱庭のような文明を取り囲んでいる空と海の大きさには、唖然とした。
あまりの質量に、カチは海の中にいたことすら忘れてしまうくらい、漠然とした恐ろしさを感じていた。
「あれは、なんですか?」
恐怖に飲まれまいと視線を外し、カチは左手方向に聳え立つ銀色の尖塔を指さした。
晴れ渡る空を突き刺さんばかりに伸びる左手の尖塔は、日時計のように長細い影を、混雑した街並みに落としていた。
「アルビレグムの生命線だ」
どういうことかと首を傾げれば、真朱は自分のこめかみを、ゴーグルのバンドの上から突いてみせた。
「設置型の大径思念遮蔽装置。お前が首に掛けているサイレンスみたいなもんだよ」
無感情に、素っ気なく答える真朱の横顔を見上げる。
唐突に、胸が締め付けられるような息苦しさと軽い頭痛を感じた。カチは眉を顰めて、こめかみを押さえた。
脳裏をかすめる強烈な感情にわけが分からず、カチは戸惑った。
真朱は、カチの様子に気づいていないようで、話を続ける。
「海からの精神汚染を防ぐために、特殊な波形の脳波を人工的に作り出して発信しているんだ」
真朱の言葉に、カチは信じられない思いで穏やかな海を見つめた。
「海から……汚染される?」
確かに、広大な海は飲み込まれてしまいそうなほど雄大だった。美しさと同時に、恐ろしさも感じた。
しかし。太陽光を反射する水面はひたすら穏やかにも見える。襲いかかってくる類のようなものには、とうてい思えなかった。
「この地球上で最も変質したのは、海だ」
カチの疑問を振り払うように言った真朱は、エンジンを吹かし、前方を行く車両を次々と追い越してゆく。
振り落とされてしまいそうな猛烈な勢いに、カチはサイドカーの手すりを必死になって握りしめた。
シートにちゃんと座ってさえいれば、放り出されることはないのだろう。だが、慣れないスピードは、とにかく恐怖心を煽る。
「誰もが海を恐れている」
「海を……?」
なぜ、と問いかけて、カチは背筋を引っ掻く悪寒に息を呑んだ。俗に言う、嫌な予感というものか。
カチは感覚を辿って視線を泳がせ、背後を振り返った。
「あれは、なんでしょうか?」
いつから底にいたのか、猛烈な早さで駆けてくる一台のバイクを見つけた……瞬間だった。
甲高いエンジン音を引き裂いて、破裂音が青空に響きわたる。
「何だ!」
せっぱ詰まった真朱の声。
「なんですか、この音!」
フルフェイスのヘルメットを被る、黒革のボディースーツを着たライダーは、女だろうか。
スレンダーでありながらも丸みを感じさせる姿態で、漆黒の大型バイクを華麗に捌ききっている。
「伏せていろ!」
真朱の怒鳴り声と共に、バイクが速度を上げた。
カチは反応が遅れ、振り返ったままの体勢でつんのめった。危うくサイドカーから転げ落ちそうになって、冷やりとする。
目の前を高速で流れてゆく道路に擦られては、たまったものではない。
「なんなんですか、いったい!」
シートに俯せになるように屈み、カチは迫りくるバイクを恐れ見た。
二つのバイクの車間距離は一進一退。どちらも決して引くことはない。どこまでも続く高速道路上を猛進してゆく。
「さあな。友達じゃないことだけは確かだね!」
「お友達、いないんですか?」
背中から押しつけられるような風圧に声を荒げて問うと、真朱の舌打ちが返された。
「いなくはない。多くはないがね」
バイクはエンジンを唸らせ、突き進んでいく。
前方には海を横断する巨大な吊り橋が待ち受けていた。
抜け道のない一本道では逃げる場所はない。互いのバイクの性能とライダーのテクニックに賭けたスピードレースを繰り広げるしかない。
塔の間にメインケーブルを渡し、そこから伸ばされるハンガーロープによってつり下げられている通常の吊り橋とは違っている。
海から突き出る二本の塔と、橋桁をケーブルで直接つながれた斜張橋の姿に、カチは既視感を覚えた。
「……横浜ベイブブリッジ?」
何本ものケーブルの隙間から吹き付けてくる風の音を聞きながら、カチは追われていることを一瞬だが忘れ、橋に見入った。
「似せて作られたものさ」
素っ気なく言って、真朱は更にスピードを上げた。
後続の黒いバイクも、エンジン音を唸らせ、追い掛けてくる。
制御不能に陥る一歩手前の高スピードで橋を横断する二つのバイクに従いてこられる車は皆無。
むしろ、切迫した雰囲気を感じ取ってか、車のほうから彼等に道を空けていた。
対向車すらも恐れ、スピードを落として成り行きを見守るばかり。四車線の巨大な道は、即席のサーキットと化した。
「あの、ますおさん!」
「まそおだ! 何だよっ!」
振り返る余裕も、まともに答える余裕もないのか。怒鳴り声だけが返ってくる。
「あの人!」
カチは、猛追してくるバイクのライダーが、グリップから右手を離すのを見て驚いた。
「まじかよ!」
サイドミラーで見たのか、真朱も驚愕の声を上げた。
まともに動かすのすら難しい大型バイクを、あの細い体型で操っていることでさえ奇跡に等しい。まして、片手で捌ききれるようなものではありえない。
だが、制御を離れた漆黒のバイクは、転倒はおろか、減速すらもしなかった。
獲物を狩る獣のような、獰猛で執拗過ぎる猛追を見せ、追いかけてくる。
「くそっ!」
真朱は悔しげに舌打ちをした。徐々にではあるが、距離を詰められている。
けっして、真朱が劣っているわけではない。マシーンの性能的にも、それほど違いがあるようには思えない。
たんに、側車が付いているか付いていないかの差だろう。単車である分の身軽さが、僅かな優勢を作っているにすぎない。
「屈めと言っているだろう! 死にたいのか!」
「でも!」
「お前にできることなんて、なにもない!」
確かに、真朱の言うとおりだ。カチには、この状況を打開する術はない。
言われたとおりに大人しく、体を小さくしているべきなのはわかる。だが、わかっていてもカチには、指示に従うことができなかった。
自分の中にある「なにか」が、追撃者から目を離すことを許さなかったのだ。
(――何?)
ぞくりと、背筋が粟立った。
感覚が示すまま、カチはライダーをさらに注視した。肌がぴりりと乾くのは、危険を感じとっているからに違いない。
手を差し伸べるように、真っ直ぐに伸ばされる右手には拳銃らしき武器が握られている。
「ます、真朱さ……!」
車体を揺るがす衝撃。カチは眼前で爆ぜる火花に飛び上がった。
「さすがに、当てられないか。いや、むしろ警告か?」
「どうして、あの人は?」
銀色の車体についた弾痕を見つめ、カチは震えた。死の恐怖を突きつけられたようだ。
「いきなり撃ってくるような馬鹿は、旧人類解放運動同盟ぐらいだろうな」
もうすぐ橋が終わる。
通常の高速道路に戻れば、一般道へ繋がる道に出ることもできる。交通量が更に増す一般道なら、漆黒のバイクの追撃をやり過ごすこともできるだろう。
――だが。
後方から響く轟音に、橋を支えるワイヤーが水揚げされた魚のように跳ねる。
「嘘だろう!」
唖然とした真朱の呟きは、横手を駆け抜ける漆黒のバイクのエンジン音に掻き消された。
限界以上の力を引き出された大きなエンジンからは炎が吹き出し、車体のほぼ半分を燃やしたまま、漆黒のバイクはカチ達を追い越して車線に割って入った。
甲高いブレーキ音。
漆黒のバイクは車体を橋桁にこすりつけながら、滑るように力業でターンする。二台のバイクが、正面から向かい合った。
「真朱さん!」
フルフェイスのライダーは炎上する車体に構わず、銃を構えた。鈍色の銃口は、バイクを駆る真朱にしっかりと向けられている。
「……まずい」
真朱はバイクを停止させることも、銃弾を避けることもできなかった。
スピードがつき過ぎていて、下手に動かせばバランスを崩して転倒しかねない。しかし、止まれば狙われる。
どうにもならないと、苦い表情を浮かべる真朱のこめかみに冷や汗が流れた。
「真朱さん!」
発砲音が響き、銃口から弾丸と共にマズル・フラッシュが迸る。
バイクとは比べものにもならない早さで宙を駆ける弾丸が、真朱へと襲い掛かった。
「ダメ!」
風とは別の作用によって、カチの長い髪がたなびく。
「馬鹿、こんな所で!」
カチは世界が揺れるような感覚に襲われ、息を呑む。
橋桁を勢いよく突き破り、青い……海水の柱が、迫り来る銃弾を飲み込んで目の前に現れたのだ。
「くそっ」
真朱が駆るバイクは、吹き上がる水柱に突っ込む寸前で、急停止した。
「わたし? わたしが、こんなこと?」
噴水のように勢いよく吹き上げるさまを呆然と見上げるカチに、海水が雨となって降りそそぎ、空から降りそそぐ太陽光の屈折によって水柱の周りに眩い虹が架かった。
「あの人が、いない?」
吹き上げたときと同じ勢いで、海水は舗装に生じた亀裂に吸い込まれ、海へと消えた。
べたつく潮に不快感を覚えながら、カチは青い空の下で虚しく炎上するバイクを見つめ、眉をひそめる。
フルフェイスのライダーの姿がどこにもないのだ。忽然と、カチと真朱の目の前から消えてしまっていた。
「なんだってんだよ!」
まるで狐に化かされたような、もどかしい感覚。バイクの計器を叩いて歯噛みする真朱をカチは見つめ、次いで、近づいてくる轟音に空を仰いだ。
「真朱さん、あれは何ですか?」
空を揺るがす轟音は、プロペラの回転音だった。
「くそ、騒ぎを嗅ぎつけてきたか。……これを被ってろ」
どうして? と聞く間もない。真朱の上着が頭から掛けられる。
海水を被っているために、べたついて気持ちが悪い。撥ね除けようとして、吹き付ける風に上着が飛ばされそうになった。カチは反射的に強く掴む。
「ヘリコプター?」
「報道だ。これだけ騒ぎを起こせば、来ないほうがおかしいか。……くそ、面倒だな」
大きな穴が穿たれた橋の上空。旋回しているのは、小型のヘリコプターだった。
飛んでいるのにもかかわらず、開け放たれた扉から身を投げ出して、カメラを回している。
「いいか、姿を見せるんじゃないぞ」
「どうしてですか?」
真朱の顔を見ようと、上着を取ろうとして、すぐに大きな手で頭ごと押さえられた。
「アンピトリテがふらふら出歩いているって知られてみろ、四六時中知らない奴等に追い回されるぞ。悪いが俺は、そこまでお守りはしてやれないぜ」
嘆息して、真朱はバイクの計器についているボタンを押した。
「ノート、応答しろ」
『ちょっと、あなたたち! 何やってるのよ!』
「わっ! ノートさん?」
甲高い怒声が響く。
「話は、あとだ。日本国庁舎に連絡を取って、迎えを呼んでくれ、バイクがダメになった」
『まったく、もう! 大変な騒ぎになっているのよ!』
「始末書なら、いつもどおり書いてやるから、早くしろ」
『……わかったわよ』
渋々といった調子でノートは承諾した。
真朱は通信を切り、炎上を続けるバイクを睨み付けた。
カチもまたサイドカーに座ったまま、燃えさかる炎を呆然と見つめた。次いで、自分の白い手を見下ろす。
今にも折れてしまいそうなか細い手……体。
抉られた舗装の穴から見える海の青が、なぜかカチには、とても恐ろしいものに見えた。