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青の住人  作者: 濱野 十子
一章 還るところ
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 天井から降りそそぐ人工灯とは別に、迫り上がってくるような光を感じる。手すりを握りしめたカチは、身を乗り出して下を覗き込んだ。

「海じゃない」

 天井からの照明をキラキラと反射している水面は、残念ながら海ではなかった。吹き抜けの遙か下にあったのは、海水を湛えた巨大なプールだった。

 プールと言っても、驚くほどの広さがある。今の大きさのカチなら、海と言っても支障がないほどに広く、深そうだ。

 一瞬、カチは追われているのを忘れた。ずいぶんと長い間、目にしてないように思える、深い青色に見入っていたのだ。

 とめどもない懐かしさに引き込まれ、カチは無意識にさらに身を乗り出した。近くなる水の匂いに、いよいよ心が逸る。

「馬鹿! 落ちるぞ!」

「え? あっ!」

 不意に響いてきた怒声に驚くよりも先に、カチは襲いかかってきた浮遊感に息を呑んだ。

 落ちている。

 細い腕は体重を支えきれず、カチは手すりから滑るようにして宙へと投げだされていたのだ。

「くそっ!」

 見上げる光の中に影が差した。

 手すりを乗り越え、宙に躍り出して落下してゆくカチに向かって手を差し伸べたのは、真朱だった。

「手を伸ばせ!」

「……でも!」

 吹き上げてくる風に転がされながら、カチは必死になって手を持ち上げる。

「もっとだ! 死にたくはないだろう!」

 叱咤の声に上半身をよじり、真朱へと向かって更に手を伸ばす。

 互いの指先が何度か触れあったのち、骨張った真朱の手がカチの手をしっかりと掴み取った。

「大人しくしてろ、絶対に喋るなよ! 舌を噛んだって、俺は知らないからな!」

 力づくで引き寄せられた。抱え込まれた頭は、真朱の胸に押しつけられる。

 強い鼓動と暖かい体温に包まれ、身の竦む恐怖からはいくらか解放された。だが、息をつくのはまだ早い。

 盛大に響く水音に、カチはくぐもった悲鳴を上げた。

 着水の衝撃に、真っ白に濁った水が吹き上がり、視界は一瞬にして、青に埋め尽くされていった。

(冷たい!)

 海水の中に埋もれていきながら、カチは震えていた。

 優しいとばかりに思っていた水は、地上よりも更に重く体を束縛し、恐怖心をカチに植え付ける。

 がっちりと真朱に抱きすくめられたまま、カチは癇癪を起こす子供のように手足をばたつかせて暴れた。だが、弱い力では波を立たせることすらもできない。

(――苦しい!)

 息も。自由にならない体も、ただ苦しかった。力が抜け、緩んだ唇の端から、酸素が泡となって流れ出す。

 最後に振り絞った力で口を押さえ、なんとか息を繋ぐ。だが、現界は近い。

 息苦しさと恐怖に薄れゆく意識に、顎が上向いた。

 カチはぼんやりと霞んでいく視界の中で、水面に揺れる純白の人工灯の光を見た。

 いや、確かに視線は上を向いてはいるが、見ているのはまったく別の光だった。

 視界と共に薄れゆく思考。煩わしい耳鳴りが鼓膜を引っ掻く。

 脳裏に浮かび上がるのは、星の瞬く夜空だった。

 突如として現れた隕石により破壊された、宇宙ステーションの残骸と人々の亡骸が、一緒になって流星のように燃えている。

 地上から四百キロメートルも離れた地球周回軌道上から落下するパネル片は、全てが燃え尽きることはない。薄いオゾン層を分け入って、地上へと雪のように火の粉を舞い上がらせながら降りそそいでいた。

(これは……なに?)

 まるきり、夢を見ているような感覚だった。

(世界が壊れていく)

 破壊され、紙くずのように散らばり、焼けてゆくステーション。無数の人命。

 更に、それら諸々を撥ね除けて隕石は日本海近郊に落下し、世界は崩壊を始める。カチの意識も、そこで暗転した。

(これは記憶。わたしの……記憶)

 シロイルカとしてではない、人としての記憶の中に溺れ、カチは深い闇の中へと沈んでいった。 

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