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青の住人  作者: 濱野 十子
六章 青の在処
38/40

 肌がチリチリと痛む感触に、カチは息を呑んだ。恐怖に負けてしまわないようにと、真朱を抱きしめる手の力を強くする。

「どんな声があったとしても、俺はこの世界で生きてゆく」

『カウントを開始します。残り……十秒』

 太陽光よりも眩い光が頭上に輝く。熱さえ感じそうな強い光に、カチはぎゅっと反射的に瞼を閉じた。

 トランジエントのか細い声を掻き消して、銃声が響く。

 一発、二発、三発と続けざまに放たれる銃弾は、壁に当たってあさっての方角へと飛んでいった。

 悲鳴のように響く跳弾の音に、カチは怯える自分を叱咤し、瞼を持ち上げる。

 真朱の背中。

 その向こう側には、リドフォールの姿が見える。口元に浮かんでいる笑みは、思惑が通ることを確信している、勝者のものだった。

 四発目、五発目と響く銃声は、ことごとく避けられ、壁を抉った。リドフォールの顔に浮かんだ笑みは消えない。

宇宙ステーションが砕ける未来を、リドフォールは見ているのだろうか。

「無駄だよ、真朱! 僕は止められない! 奴等は死ぬよ!」

 声を上げて笑うリドフォールに答えず、真朱は引き金を引き続けた。爆薬の唸り声と閃光が、鼓膜を震わせ、網膜を痺れさせる。

『残り、八秒』

 弾が尽き、真朱は物陰に待避して銃弾を込めた。

「――カチ」

「はい」

 しがみついたままの格好で、カチは間近にある真朱の瞳を見つめる。あと何秒かで死ぬかもしれないのに、不思議と恐怖は感じていなかった。

 なんとかなる。……と、思うのは、さすがに楽観的すぎるかもしれない。それでも、カチも真朱も、決して絶望してはいなかった。

「信じる。お前の力を!」

「はい!」

 二人は立ち上がり、リドフォールと対峙した。

 シェルターは小刻みに振動を始め、天井は光に埋め尽くされる。成層圏近くに達したことで、月のシステムに充填されているエネルギーの干渉を受けているのだろう。

 サイレンスは、その名の通りに沈黙し、オフショアの声もノートの声も聞こえてくることはない。

 光と、息づかいだけが室内を埋め尽くしている。

 わずか、数秒しか持たない世界の中にある重い空気をつんざいて、銃声が響いた。

 全部で七発。

 もったいぶることなく放たれた銃弾は、真朱の意思を代弁するかのように真っ直ぐにリドフォールに向かって飛び掛かっていった。

「遊びは終わりだよ。おとなしく空を見ているんだ。お前を悲しませるものが、綺麗さっぱり消えるさまを!」

『残り五秒……衝撃に備えてください』

 リドフォールの頬に刻まれた紋様が明滅した。

 体内に取り込んだオルカ・トランジエントの力を使い、リドフォールは弾道を先読みして、華麗に避けてゆく。

 まるで踊るように、長い三つ編みと白いファーがくるくると、ステップを踏む足について回った。

「解放の時は近い。僕は――!」

 唐突に、リドフォールは足を止める。

 全てを理解しきってない、いささか呆けた感じの表情で足元へ視線を向けたリドフォールは、真新しい血が太腿から流れ出ているのを見つけた。

 被弾したのだ。

「……なぜ、だ?」

 足から力が抜け、くずおれる。

「絶対反響定位能力(正確に対象の位置を特定する能力)だよ、リドフォール」

「ばかな。未来予知を超える力があるなんて!」

 身じろぎすることもできないでいるリドフォールの視線が、カチへと向けられる。

 憎悪を感じる強い視線に、カチは背中が粟立つのを感じた。

『残り、四秒』

 凍えるように小刻みに震えるリドフォールの体から、紋様が消える。被弾の痛みと、撃たれたことへのショックが強すぎて、運命連結システムとの繋がりが切れたのだ。

「真朱さん」

 重たげな銃を放り出し、下げられた真朱の右手にカチは自分の手を添えた。頭上の赤い光は今なお強く、禍々しい牙を宇宙ステーションへと向けている。

 残された時間は限りなく少ない。いや、ないといってもいいだろう。

 しかし、後のことは全てオフショアに任せるより他に方法はなかった。もどかしさと恐怖心を押し殺し、カチは真朱の手を握った。

『残り三。……二、一……システム、緊急停止します』

――沈黙。

 直後、輝きが収縮し、透明の天井に青空が戻ってくる。晴れ渡り、白い雲が浮かぶ空はとても綺麗に思えた。

「僕が、失敗した?」

 リドフォールはただ呆然と、晴れ渡る空に浮かぶ宇宙ステーションの輪を見上げた。チラチラと、一番星のごとく月の隕石迎撃システムの赤い光が遠くで瞬いている。

「あとは、オフショアがシェルターを止める。お前の負けだよ、リドフォール」

「僕を撃ったのかい? 真朱、僕を撃ったのか!」

 取り乱すリドフォールの胸中を埋め尽くしているのは、怒りでもなく、失望でもなかった。

「アンピトリテ。お前が真朱を、たぶらかしたのか!」

 穏やかな表情も、余裕を感じさせる仕草も、もはやそこには存在しなかった。目尻が吊り上がって強張った表情は、ただ恐ろしいばかりだ。吐き出される怒声は、そのまま凶器となってカチを打ちのめした。

 突きつけられる銃口よりもなお、剥き出しにされる殺意にカチは震え上がる。

「やめろ。銃を下ろせ、リドフォール!」

 真朱の恫喝に、リドフォールは銃を握りしめたまま口を噤む。怒りに濡れた金色の目が、じろりと真朱に向けられた。

「俺のせいなんだろ。旧タワーの施設が破壊された時に、お前はアカシャに汚染されたんだ。なあ、そうなんだろう?」

 真朱は前に出て、座り込んだまま動けないでいるリドフォールをじっと見つめた。

「僕は、アカシャになど支配されない。僕は解放者だ、アカシャの呪詛からアルビレグムを解放するためにここに在るんだ!」

 銃を持つ手が震え、端正な顔には大量の汗が滲み出す。

「アカシャの声を消し尽くす、それが僕の願いであり、救いなんだよ! 何故わかってくれないんだい、真朱!」

 リドフォールの手から銃が落ち、軽くなった手で耳を覆うサイレンスを、更に両手で覆った。叱られた子供のように体を丸めた姿は、怯えているようにカチには思えた。

「アカシャは、あなたに何を見せているのですか?」

 ふわふわと漂うばかりのアカシャが放つ銀色の光は雪のように綺麗で、何も知らなければ無害なものにしか見えない。

 何も感じなければ、怯える理由を見つけることができない。

 カチはすっと息を吐き、目を閉じた。

 何も映らなくなった視界の中で、意識を集中させる。リドフォールの意思を掻き乱すものの正体を、カチは探した。

 ――あなたが殺したのよ。

 ――わたしたちを殺したのよ。

 聞こえてくる女の声に、カチは驚いて目を開いた。

 ――守れなかった。

 ――嘘つきね。

 周囲を埋め尽くすアカシャの群れが、女へと姿を変える。声が響く度に空間に現れ、消えてゆく女は、長い銀色の髪と黒い瞳を持つ、アンピトリテだった。

「母さん?」

 隣で呟いた真朱に、カチはリドフォールを責め立てる女の一人をまじまじと見た。

 ――どうして、わたしを手放したの。

 ――愛してはいなかったの?

 間断なく問いかけ、責め立てる幻聴に、リドフォールは、呻き声を上げた。脂汗の滲む顔は蒼白を通り越して白く凍えている。強く噛みしめられた唇からは、血が一筋、糸を引いて流れ出していた。

 ――信じていたのに、どうして僕らを殺したの?

 女の声に、少年の幼い声が混じる。……真朱だ。

「止められなかっただけだ! 僕が望んだことじゃない! 殺したわけじゃない!」

 リドフォールはアカシャの声を掻き消そうと、吼えた。体面などもはや取り繕っている余裕もない。

 人工島と遠く離れたこの場所で、アカシャが渦巻く宇宙に限りなく近いこの場所で、密度を濃くするばかりのアカシャは、リドフォールの後悔を形にしてゆく。

 ――本当に愛してくれていたの?

 ――なんで、見捨てたの?

「これが、アカシャの声なのか」

 黙ることを知らない、一方的に響くばかりのアカシャの声と幻視を前に、がたがたと震えているリドフォールを、真朱は呆然と見つめた。

「違うんだよ、違うんだよ真朱」

 涙に掠れた声。酷く弱々しい声に真朱は、たじろいだ。

 ――嘘つき。

 ――愛してなど、いなかったんでしょう?

 ――嘘つき。

「違う、違う! くそっ、消してやる。消し尽くしてやる! 貴様ら全部、この世界から追い出してやる!」

 血と唾を吐き出し、リドフォールはアカシャに向かって叫び続けた。感情を剥き出しにした声は、獣じみている。

 ――声を消すためにはどうするの?

 たとえるのなら、まさに女神といった微笑で、女はリドフォールに問いかけた。

 ――どうする?

 首を傾げた格好で佇む女の前でリドフォールは跪いたまま、視線だけを持ち上げた。

 二人は、アカシャのぼんやりとした銀色の光に包まれていた。その姿はさながら、絵本で描かれるような騎士と女王のように見え、場違いな神々しささえ醸し出している。

 シェルターの中に満ちる狂気が見せる、形ばかりの幻想なのだろう。

「宇宙へ……宇宙へ行くんだ」

 うわごとのように、リドフォールは呟く。

 それが唯一の救いだと、渦巻く狂気から逃れる、ただ一つの方法であると、自分自身に言い聞かせるように。

「宇宙へ行っても、アカシャの声は消えません」

 女はもとの銀の光へと戻り、コミュニティーに取り込まれていった。たくさんのアカシャに囲まれたまま、リドフォールは血の気の失った唇に歯を食い込ませ、血走った目でカチを睨み付けた。

「あなたが、あなた自身を責め続けるかぎり、声は消えることはないんです」

「黙れ! 黙れ、アンピトリテ!」

 リドフォールは手放した銃を掴み取り、カチへと向けて発砲した。

 だが、震える手では狙いは定まらない。カチを外した弾丸は、そのまま背後にあるディスプレイの端に着弾した。

「リドフォール。何故、アンタはあの時、俺を研究所に引き渡したんだ?」

 生彩を欠き、正気を欠いて疲弊しきったリドフォールの視線が、僅かに揺らいだ。充血して腫れた眼球を癒やすように、そこからは涙が滲み出している。

「嘘じゃない。僕は――」

 リドフォールの声を遮って、赤い光線が頭上から射し込む。

 嫌なものを感じて、カチは光を辿って視線を持ち上げた。

「そんな! 止まったわけではなかったの?」

 青い空に、赤い光が煌めいた。

 瞬きをする度に光量を増してゆく光は――運命連結装置に支配された月の砲台は、座り込んだまま動けないでいるリドフォールに向かって、無言の殺意を照射していた。

「逃げろ、リドフォール!」

「だめ、真朱さん!」

リドフォールへ駆け寄ろうとする真朱の腕にカチは抱きついて、押しとどめる。

『軌道修正完了。発射します』

「トランジエント、おまえなのかい?」

 リドフォールの問いに、直接答える言葉はない。

 ディスプレイの中の、平面的な少女はただ無感情に、照射される光の中に座り込むリドフォールを見つめているだけだった。

 リドフォールを取り囲む、光の檻の濃度が膨れ上がる。

 赤から濃厚な白へと色を変え、熱を帯び始めた。照明が割れ、トランジエントの姿はディスプレイと共に砕け散った。

 大気圏を脱出するために作られた、華氏八百度までの高温を耐えきる三層の分厚いシリカガラスで作られた窓を容易く熔かして、焼け爛れた空気がシェルターへと流れ込む。

 恐ろしく強い光が視界を埋め尽くし、何かを叫んでいるリドフォールを、あっという間に飲み込んでいった。

「そんな、リドフォールさん!」

「伏せろ、カチ!」

 真朱に押し倒されながら、カチは光に飲み込まれてしまったリドフォールを思って嘆いた。襲いかかる死の恐怖よりも、無力なまま消えていったリドフォールを憐れに思わずにはいられなかった。

 網膜を焼く光から目を閉じ、カチは押しつけられた床の上で咽ぶ。その声さえ、光は飲み込んでいった。

 破壊はまさに一瞬だった。

 光線は触れるものだけを容赦なく熔解させ、跡形もなくこの世から消し尽くし、呆気なく消失した。

 後に残ったのは、熔けた窓と大穴の開いたシェルターのみ。リドフォールがいた場所だけを刳り貫いたように、ぽっかりと穴が開いている。

「生きて……る?」

 カチは真朱の体の下で呟いた。熱に焼かれた喉がひりひりと痛む。

 真朱の意識はなく、全ての体重がのし掛かっていて息苦しい。意識が朦朧としている状態では、手足に力を入れることもできず、僅かに動かすことしかできない。

 唯一、自由になる目で、砕け散り、熔けた枠だけが残るディスプレイに視線を向けた。

 暴力的な破壊をもたらした光線だが、かなり精確に焦点が絞られていたようだ。でなければ、こうして焼かれずに生き残っているとは、とても思えない。

 生きていることに安堵して良いのか、正直、カチにはわからなかった。

 リドフォールを苛んでいたアカシャは、共に光線に焼かれてしまったのか。照明が砕け、熔けた窓を塞ぐように隔壁が降りた室内は、夜の帳が降りたかのように、薄暗い。

 何もかもが唐突すぎて、何を考えて良いのかわからなかった。

 熱され、酸素が薄く濁った空気にカチは喘いだ。ひどい頭痛が意識を掻き乱し、瞼は鉛のように重くなる。

「……真朱さん」

 僅かに伝わる心音だけが、真朱の生存を伝えていた。

 カチは真朱の鼓動だけを頼りに、折れそうになる心を支えた。消えかける意識を、必死に繋ぎ止める。

「こんな状況になってしまったけど……リドフォールさんは、たしかに……真朱さんを愛していたんですよ」

 光に飲み込まれる寸前。

 カチは、光によって掻き消されたリドフォールの声を感じ取っていた。伝えなければいけない。その思いだけで、カチは消えかける意識を奮い立たせる。

『シェルター内に複数の火災を感知しました。速やかに消火作業を開始してください。繰り返します……』

 トランジエントではない。シェルターに響く機械じみたひび割れた声が、淀んだコントロール・ルームに響き渡る。

「火事? ……っつ!」

 全身を揺さぶる大きな揺れに、カチは息を飲んだ。災厄はまだ収束したわけではなかった。いや、むしろここから始まると言っていいだろう。

 断続的に爆発音が響き、床が大きく揺さぶられる。

 巨大なシェルターを抉った光線は、突き抜けはしなかったものの、エンジン部分にまで達していた。

 破壊されたエンジンは誘爆を引き起こし、次々に生み出される火災は、あちらこちらに飛び火し、シェルターを内部から焼いてゆく。

『第二エンジン停止、推進力十パーセント低下』

 どこか遠くから、サイレンの音が聞こえてくる。

トラウマになりそうな狂気じみた甲高い音は急を告げ、はやく行動するようにと急かす。だが、真朱は目覚めず、カチも動くことができないでいた。

『各サブエンジンに誘爆の恐れがあります、速やかに消火作業を進めてください』

悲しいことに、乗員は意識の定まらないアンピトリテだけだ。彼等が果敢に消火作業を行うとは、とうてい思えなかった。

 おそらくは、シェルター内の全ての酸素を焼きつくすまで、火の手が治まることはない。

「だめ……わたし、真朱さんに……」

絶望的な状況に嘆く余裕もなく、カチはとうとう瞼を閉じてしまった。深い眠りにも似た倦怠感に、体も意識も支配されてしまう。

 二回目の大きな揺れ。その衝撃によって、脆くなった床が瓦解するのすら、何処か遠い所のように感じたまま、カチは瓦礫となった床と一緒に落下していった。


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