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「馬鹿で言うことを聞かない放蕩息子だが、それでも真朱は僕の可愛い子供だからね」
「……じゃあ、私は?」
血が飛び散った橋桁に、流れ落ちた涙の粒が溶ける。
カチは震えた。
体の芯から凍えるほどの大きなこの絶望は、ブルーが感じているものだ。
「海へ還るといい。おやすみ、ブルー」
三発目の銃弾は、ブルーの額を割った。悲鳴すらも上げられず、無力な体はすがりついていた手摺りを乗り越え、呆気なく落下した。
「あ、あぁ……そんな、こんなことって」
響く水音に、カチは拳を握った。最悪の裏切りに、ブルーは何一つ言うことを許されないまま、殺されたのだ。愛を求める人の手によって。
震えるほどの怒りが感情を支配する。
真朱の……それに加えて自分の複雑な感情が交じり合い、カチは叫ぶ代わりに唇を噛みしめた。
手の平に爪を食い込ませ、口腔に血の味が滲み出すほどに強く歯を立てても、高ぶるばかりの感情を持てあます。
「リドフォール! アンタ、なにやってるんだよっ!」
血を吐きながら、真朱は吼えた。
「何を怒っているんだい、真朱? お前を助けてあげたんだよ」
「……だとしても、アンタは最低な親だよ!」
立ち上がろうと身じろぎする真朱に、リドフォールは肩をすくめる。表情や仕草には、ブルーを殺めたことへの呵責などは一切、欠片ほども感じられない。
「僕は、あの子の親であったことは一度もないよ。ブルーが勝手に僕を父親扱いしていただけさ」
「酷い。ブルーは、あなただけを頼りにしていたんですよ!」
立ち上がり、カチはリドフォールの金色の瞳を見つめた。
笑みに隠された本心を探ろうとしてみた。
だが、平常心を保てない現状では正確に感じ取ることは不可能だった。絡まった糸のように、正体の掴めないリドフォールの内面に、カチは戸惑うばかりだ。
「知っていたよ。群れをなくしたブルーには、僕と真朱しか繋がる存在はなかった。だとしても、僕には何の関係もないこと。ブルーは研究の中で発生した生命体。他のマーフォークと一緒の存在でしかないな」
リドフォールは、まだ暖かい銃口をカチへと向けた。
「特別なのは、真朱だけさ。彼女との間に生まれた命は、真朱だけだった」
「なぜ、その愛情をブルーにも向けられないの!」
「なぜと言われてもね。理由は言ったとおりさ」
気味の悪いほどに濃厚で、一方的な感情に、カチは嘔吐感さえ覚える。
「――特別? ああ、そうだろうな。アンタはあの時、確かにそう言っていたよ」
口腔に溜まった血を吐き捨て、真朱はよろめきながら立ち上がった。とはいえ、ブルーに負わされた怪我の回復具合は、あまり良くはなさそうだった。
手摺りに掴まらなければ立てない有り様の真朱に、カチはいてもたってもいられなかった。咄嗟に、庇うように前に出る。
「何もかも、研究のため。アンタには、それしかないんだ」
侮蔑の混じる真朱の言葉に、すっとリドフォールの顔から笑みが消える。
「真朱。僕はね――」
シェルターに響く激しい揺れに、リドフォールは言葉を切って視線を天井に向けた。
分厚い隔壁に覆われている天井が、断続的にブルブルと震えているように見える。上昇によるものではない。外部からの衝撃だ。
『――カチ! 聞こえている? 早くシェルターから脱出しなさい!』
「ノートさん、脱出って? なにが起こっているんですか」
『連星政府はシェルターを大気圏内で破壊するつもりよ! ステーションの隕石迎撃システムが起動したのを、確認したわ!』
シェルターを脅かす揺れに、カチは血の気が一気に下がるのを感じた。くらくらと視界が揺れるのは、気のせいではないだろう。
「シェルターが撃ち落とされる?」
「なんだって! 貸せっ」
真朱はカチからサイレンスを取り上げ、装着する。
ノートと言葉を交わすうち、真朱の表情からは見る見る血の気が失われていく。蒼白にさえ思える顔色は、緊張した面持ちと相まって今にも倒れてしまいそうだ。
「リドフォール! そこを退け!」
「邪魔をする気かい?」
「馬鹿なことを言ってるんじゃない! わかっているのか? このまま上昇を続ければ、死ぬのは俺やオマエだけじゃない、シェルターにいる何万ものアンピトリテが、全て蒸発するんだぞ!」
銃を向けているリドフォールの表情は、まるで変わらない。
威嚇なのか。断続的にシェルターを打ち付ける攻撃は、致命的な損傷を負わせるまでには至っていない。だが、このままで終わるわけもない。
戦場が拡大するばかりの宇宙空間にあって、外敵を討ち滅ぼすための兵器は進化し続ける一方なのだ。巨大なシェルターを破壊するほどの威力を持つ兵器は、恐ろしいことに、ごまんと存在している。
「邪魔はさせないよ。僕にはマーフォークを救う使命があるのだからね」
「この状況をわかって言っているのか、リドフォール」
眉を顰め、呟かれる真朱の声は、怒りというよりも困惑が滲んでいる。
カチも、リドフォールが何を考えているのかわからなかった。
状況を無視している言動や行動もそうだが、多面感応能力をもってしてもリドフォールの真意を感じ取ることができなかったのだ。
「マーフォークを救うという使命。……本当に、それは貴方の意志ですか?」
「ああ、そうだとも。アルビレグムが多重幻聴症候群から解放されるためには、アンピトリテの献体が必要だ。そのために、僕は彼らを連れて宇宙へと行かなければならないんだよ」
リドフォールの感情は、まるで洞窟の中で反響する声のようだとカチは思った。同じ言葉なのに、響き方が違うだけで厚みを増す、不協和音。
まるで、人混みの中に放り込まれたような圧迫感に、脂汗が滲んだ。
「お願いです! 銃を下ろして、道を譲ってください! このままでは、本当にたくさんの命が失われてしまいます!」
カチはリドフォールに向かって一歩、踏みよった。
頭上から降り注ぐ照明の光を反射する銃身は、てらてらと輝き、狙いをカチへと定めている。しかし、怯んではいけないと、カチは唇を噛みしめた。
「シェルターは止まらないよ。誰にも、止めることはできないだろう」
微笑むリドフォールの顔を、銀色の光が照らす。
カチは驚いて足を止め、生ぬるい風と共に舞い上がってくる光の粒を呆然と見やった。
雪のように……いや、むしろ泡のように、ふわふわと吹き上げてくる銀色の光の粒は、銃を構えるリドフォールの周囲を取り囲んでゆく。
「なにが起こっているの?」
「――宇宙に行かなければならないんだよ」
それまで、余裕を崩さなかったリドフォールの声にはじめて苦悶の色が混じった。サイレンスを耳に押さえつけ、脂汗を滲ませている。
「アカシャの声を、消すために必要なことだ! なぜ、わからない!」
声はヒステリックに響いた。全てを見知ったかのように、常に平静を保っていた姿からはとても想像できないほどの狂態に、真朱の顔色も変わる。
「リドフォール。アンタ、まさか多重幻聴症候群なのか?」
「黙れ、真朱!」
リドフォールは銀色の光がたゆたう空間へ向け、引き金を引いた。
重さを感じない光の粒は、簡単に砕ける。だが、瞬時に何事もなかったかのように、元の集合体へと戻っていった。
嘲るような光景に、リドフォールは無駄だと知りつつ、引き金を引いた。何度も何度も銃声は鳴り響き、装填された弾が尽きるまで止むことはなかった。
「僕が……この僕が、多重幻聴症候群であるなんてことは一切ない。僕はアカシャの、アンピトリテ研究の第一人者だったんだよ。その僕が病気だなんて絶対にあり得ないだろう!」
息を切らし、大きく肩を上下させながら、リドフォールは銃のマガジンを取り替えた。たどたどしい手つきは、彼らしからぬ稚拙なものだった。
「脆弱な地球人と一緒にしないでくれたまえよ!」
アンピトリテが目覚める仮定で発生した水。そのたまり場から尽きることなく生み出される光に、カチは既視感を覚えていた。
「あなたは、アカシャの意志に操られている」
宇宙へ行くことに固執する意志。
「シェルターのアンピトリテたちと同じだわ!」
もともと地球人である彼等が、なぜ宇宙を切望するのか。豊かな大地ではなく、空虚が広がるばかりの宇宙を望むのか分からないでいた。
だが、その望みがアンピトリテ自身のものではないのだと仮定すれば、少しは理解できるような気がした。
砂粒のような極小の存在であるアカシャは、今、この時もコミュニティーを形成しながら空間を漂っている。あつまり、固まるのが彼等の本能なのだろうか。
隕石と共に宇宙からやって来た……いや、やって来てしまったものであるのなら、アカシャが宇宙へ帰ろうとする心情は、分からないでもない。
「アカシャが貴方を駆り立てている」
「――黙れ! この僕が、アカシャに操られるなど、断固としてありえない!」
「お願い、落ち着いてください。今やっていることは、貴方の本心であると、本当に確信を持って言えるのですか!」
リドフォールの表情が、苦悶の形に歪む。銃を突き出している右手は、引きつけを起こしたかのように震えていた。
「リドフォールさん!」
「煩いっ!」
怒声と共に、銃声が響いた。
「――あっ!」
右腕に熱を感じた。
わけも分からず、呆然としたまま視線を向けてみれば、目の覚めるような鮮紅色の血しぶきが、視界に散った。