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追いかけてくる真朱の足音と声に、胸が張り裂けそうになる。外から感じ取った感情ではない。これは、おそらく、自分自身の心だ。
できることがあるのなら、とついてきたのに、結局は何もできずに立ちすくむばかりの情けない自分。項垂れるばかりの姿を見られるのは、嫌だ。
(どうして? どうして、わたしはここにいるの? わたしは、何?)
目尻が焼けるように熱い。知らずに涙が溢れ出ていたことに気づいて、さらに嫌悪感が強くなる。
カチは涙を拭って、開かれた扉から射し込む、太陽の光の中へと飛び込んだ。
何もない、青ばかりの世界が視界を埋め尽くす。息が切れ、カチはパイプの手摺りに寄りかかった。
だるい足で、これ以上はもう走れそうにはない。逃げ道も中間で途切れていた。
大きく肩を上下させて息を整えながら、カチは波を掻き分けて浮き上がってくる、無数の白い影に息を飲んだ。
わからない。いや、わかりたくなかったと表現したほうが良いのかもしれない。
まさかとは思っても、その先に思考を繋げることができないのは、無意識下での自己防衛だろう。
だが、目を背けることだけは断固として、できなかった。
カチは手摺りを握りしめた。いくら気のせいだとごまかそうと、見たものを覆すことはできない。
青い海に点々と浮かんでいる白い塊は、シロイルカに違いなかった。いや、浮かんでいるのはシロイルカだけではない。恐らくはこの海域を泳いでいた海洋生物の全てが、海面に腹を見せて浮かんでいた。――死んでいる。
「……カチ」
名を呼ばれ、振り返る。真朱だった。
長い間、海中にあったシェルターは海藻がこびりついていて、日の光の下ではさすがにみすぼらしく見える。滑りやすくなっている床を、真朱はゆっくりと歩み寄ってきた。
「真朱さん。わたし……止められませんでした」
カチは手摺りに掴まりながら、後ずさる。ゆらゆらと波に揺られるばかりの死体は、濃い青に妙に映えて見え、無力な自分を責め立てているように思える。
気のせいであろうと、なかろうと、関係ない。
「泣くな。俺がやるべき仕事だったんだ。お前のせいなんかじゃない」
「わたしのせいです。わたしがやらなきゃいけなかったのに!」
慰める言葉が、胸に刺さる。
「……みんな、死んでしまったんですか?」
「アカシャとの繋がりが切れ、擬体はただの入れ物になっただけだ。厳密に言えば、死んだとは言わない……が」
「一緒に、泳いでいたんです」
強い潮風に、銀色の髪が巻上げられてうねる。カチはこぼれる涙を止めることができず、霞む視界で死臭の漂う海を見つめた。
「わたしの仲間。いつも一緒に泳いでいた群れなんです。わたしが止められなかったから、死んでしまったの!」
叫び、カチはくずおれた。
「海に溶けたアカシャが、死んだ人間の記憶から読み取り、作り上げた擬体……なんて言ったところで、お前には関係ないだろうな」
嗚咽するカチは何も言えず、両手を顔で覆って、ただ泣いた。
「お前にとっては、共に生きた群れだ。家族のようなものなんだろう?」
覆い被さってくる温もりに、顔を上げた。すぐそばに真朱の顔があり、確かな吐息と鼓動の音が聞こえる。
冷たい潮風に奪われる体温に震え、カチは背中をさすってあやす真朱にしがみついた。 記憶の底にこびりついている、孤独への恐怖が心を苛んだ。
「真朱さん。アンピトリテは本当に、人間なんですか?」
骨張った真朱の肩に顎を乗せ、カチは子供のようにしがみついたまま、鼻を啜った。衝撃から立ち直り、涙の引いた目尻は爛れて痛い。
「人間に見えないのも無理はない。お前やオフショアみたいに自我をもって目覚める例は片手ほどもないんだ。大多数は、意識障害を負った状態で発見される。棺から出てきたアンピトリテを見たろう?」
無言のままじっと見つめてくる瞳を思い出し、カチは頭を横に振った。
「本当に?」
自我。つまり意志がないと真朱は言う。でも、カチは、目覚めたアンピトリテたちの視線に戸惑いを感じていた。
気のせいなのだと、そう言ってしまえばそれで済むような僅かな違和感にすぎない。だが、カチには、アンピトリテが意志のない無力な存在だと思うことが全然できないでいた。
同じアンピトリテであるのだとしても、棺から目覚めた彼等と自分たちとでは、なにかが大きく違っている。自我がある、ないではなく、根本的な違いをカチは感じていたのだ。
外気の寒さとはまた別の寒気を感じて、カチは身震いした。
「真朱さん。わたし、アカシャの声を聞いたんです」
「何だって? アカシャの声だと?」
体を離し、カチは怪訝そうな真朱の漆黒の瞳を上目遣いに見上げ、続けた。
「アカシャは言いました。かえりたい、と」
「どこに?」
「わかりません。けど……」
カチは瞼を閉じ、無言で見つめてきたアンピトリテを脳裏に思い起こす。
「わたし、アカシャの意志をアンピトリテから感じていました」
真朱は「信じられない」と、眉を顰めている。疑っているわけではなく、驚いているのだろう。
アカシャの干渉は常に第三者的なものだと言われていた。対象の記憶をほじくり返して吸収する。アカシャから何かを語りかけてくる事例を、真朱は知らない。
「はっきりと、言い切ることはできませんが、わたしは、確かに……」
「カチ?」
ぞくりと心臓が跳ねる。鋭くなるばかりの直感に促され、カチは視線をシェルターに向けた。その時だった。
潮騒の音だけが響く海上に、鋭い銃声が響き渡った。
「ブルー?」
慌てて立ち上がった真朱は不意に眉を顰めた。通信装置にもなっているサイレンスを耳に押し当てる動作をする。何かあったのか。
「どうしたんですか、真朱さん?」
「ノートからの通信だ。……おかしいな、聞こえ辛い」
気になって、カチは自分の耳を真朱のサイレンスへと押しつけた。砂嵐のような雑音が響いてる。
海上に出ているのに、電波の状態が悪いのは、なぜなのだろうか。
カチの疑問に答えるように、ノートの声が雑音に混じって聞こえてきた。
『……ま……お……ようやく……つな……たわね』
「何が起きた、ノート?」
真朱は擬体が漂う海原を見据えた。ヒメガミの船影は見えなかった。
シェルターはだいぶ離れた場所に浮上したようだ。しかし、衛星を経由して伝わる音声に、距離など問題ではない。何らかの障害が生じているのは確かだ。
真朱の緊張を感じ取り、カチも力の入らない足を叱咤して立ち上がった。
『して……やられ、たわ。真朱……我々は、利用……た』
「なんだと?」
ノイズに掻き消されながら、懸命に意味を伝えようとするノートの声に、カチは海を見つめた。
何もかも終わってしまったと、絶望にくれるには、まだ早い。胸に滞ったままの不安は、カチにそう伝えているようだった。
◇◆◇◆
照準にズレが生じたのは、頭上から見下ろしてくる無数の視線のせいだろう。ブルーは苛々と舌打ちをして、右手の銃を構え直した。
銃口の上についているフロントサイトを、床に転がったままの須加へと再度、しっかりと固定する。
「あぁ……ブルー。我らの――いいえ、私の指導者よ。私は成したのです。これで、私は救われる」
顔を僅かに持ち上げるも、目は既に機能を失っているのか。視線は左右あさっての方向へと向けられていた。ブルーの構えている銃には、気づけない。
「ああ、そうだ。お前は救われるよ。音のない世界に行けるんだよ」
須加は微笑んだ。
死の淵にあり、多重幻聴症候群に冒された体と脳では、歌うようなブルーの声の端々に秘められた狂気を感じ取ることはできない。
がちりと、激鉄が持ち上がる。最後通知は下された。
「――お前が生み出した憎しみと共に、朽ちればいいさ。私の前から消えてしまえよ」
至近距離で撃ち放たれた弾丸は、狙いの通りに須加の頭を打ち砕いた。硝煙の臭いと血臭、物言わぬ死体が放つ虚無感に、ブルーは笑った。腹の底から声を出す。
「おやおや、そんなに楽しいかい?」
「こいつは嫌いだった。罪を認めているくせに、自分だけ救われようと足掻く姿は、みっともなかったよ。だから、嫌いだった」
穴の開いた須加の頭蓋から、夥しい量の血が流れる。ブルーは飽きることなく鮮やかな赤色を見つめ、辺りに散らばる薬液と混じる様を目で追った。
「そうか。それは辛いことをさせてしまったみたいだね」
「大丈夫」
軽い声に、軽快な足音。
銃を握りしめたままのブルーに臆することなく、一人の、長身の男が現れた。
「もう、動かなくなったから、どうでも良いよ。それよりも、私は帰れるかな?」
ブルーは銃をしまい、男へと向き直る。
三つ編みにした、赤く長い髪。痩身を包む黒いスーツと、首の傷を隠すファー。
「ねえ、父さん。私は海に帰れるかな?」
リドフォール・レイ・スクーノト・アルビレグムに対して、ブルーは子供のように微笑んだ。