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青の住人  作者: 濱野 十子
五章 深い海の底
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「どうしよう……どうしたら、わたし、どうしたらいいの!」

 答えてくれる人はいない。

 血管がショックで収縮し、血の流れが滞る。カチは不意に襲いかかってくる眩暈に、大きくよろめいた。パニックを起こしていると分かってはいるものの、冷静な判断ができない。

『緊急浮上シークエンスを発動開始、カウントダウン開始。緊急浮上後にシステム・クレイドルの解除を行います。管理職員は所定の位置に着き、シートベルトを着用してください』

 ガタッと音を立て、照明の光度が落ちる。薄暗い室内で、中央の制御装置の機械が、ぼんやりとした光を浮きだたせた。

 青白く瞬く、実に不気味な光だった。

 暗くなり、須加の姿が見えなくなったということもあってか、カチにいくらか平常心が戻る。

「止める。わたしが、止めなきゃ。……真朱さんが言ったもの、わたしがやらなくちゃ」

 震える体に唇を噛みしめ、カチは制御装置へと向かって歩く。時折ふっと振動に混じって聞こえる須加の呻き声に、胸中に湧き上がってくる恐怖と罪悪感を必死に耐えた。

 やらなきゃいけないことがある。託されたのだと、カチは自分に強く言い聞かせた。

 薬液にまみれ、滑りやすくなった階段を慎重に登り、カチは須加がいた場所に――数字が点滅しているディスプレイの前に立った。操作パネルと、上に押し込まれた青いレバーがある。

「どうすれば?」

 動かし方も、まして、止め方も、カチには全然わからない。途方に暮れ、制御装置に両手をついた。

「――っ!」

 ぞくり。産毛が逆立つ。

 銀色の髪が風に巻上げられるように逆巻き、カチの体を淡い光が包んだ。

「これを下げればいいの?」

 感じ取ったのは、須加の思念。

 カチは青いレバーを掴んだ。これを下げれば、緊急浮上はリセットされる。アンピトリテもこのまま、深い眠りの中に戻るだろう。

 ――だが、カチの手はレバーを握ったまま、動こうとはしなかった。

 神経が切り離されてしまったかのように、右手が思うように動かない。カチはわけも分からず頭を振り、視界の端に映った違和感に驚愕した。

 壁からせり出したままの、アンピトリテを内包する棺から、銀色の光の粒子がにじみ出していたのだ。

 いつの間にか、周囲は銀の光の粒子に満たされていた。

「光が満ちている? いったい、何なの?」

 早くレバーを下げなければ、手遅れになる。分かってはいても、思考は雪のように舞う銀色の光の粒子に囚われていた。

 ――たすけて。

 粒子は声と共に弾け、瞬く。

 ――ここから、だして。

 ぱちん。ぱちんと。声を響かせながら、爆ぜ、即座にまた生まれる光。奇妙なほどに美しい光景を、ただ呆然とカチは見上げていた。

 ――わたしたちは、かえりたい。

 ――わたしたちは、もどりたい。

「どこへ? どこへ戻りたいの?」

 響いてくるこの声は、アンピトリテの思念なのだろうか。

 わからない。皆目わからないが、カチは金縛りに遭ったかのように、動けずにいた。

 そうしている間にも、ディスプレイで瞬く数字は刻まれ、シェルターの振動は大きくなってゆく。

 ――ここから、でたい。

 ――わたしたちは、のぞんでいる。

「何を望んでいるというの? あなたたちは――きゃっ!」

 衝撃に、カチはレバーから手を離して床に転がった。激しい痛みが全身に響く。

『緊急浮上を開始します』

「だめ、待って!」

 カチは叫ぶ。だが、プログラムは言葉で制することは一切できない。

 急いで立ち上がり、青いレバーを引こうと力を入れる。だが、びくともしない。浮上を始めたことで、ロックが掛かってしまったのだ。

「そんな、動かないなんて、わたし……!」

 ディスプレイには、海上までの到達時間が記されていた。百四十秒、およそ二分でシェルターは地上に帰還する。

 ……できなかった。

真朱が命がけで戦っているのに、自分は何もできずに、ここに立っているだけ。全く、何一つできなかった。

 絶望感に満たされた胸中に、カチは項垂れた。無力感がどっと押し寄せてきて、異常に体が重い。

 ――かいほうを、ねがう。

「いったい、何から?」

 ――そのために、おまえは、はなたれた。

「……わたし?」

 いくら問いかけても、声は応えることはない。ただ、一方的に語りかけるだけだった。

 ――かえる。

 ――わたしたちは、かえる。

 ――はるかなる、そらに、ふかき、しんえんの、そらに、かえる。

 シェルターが大きく横にぶれた。ディスプレイを覗き込めば、数字はゼロを示していた。

 カチは目を見張った。慌てて、アンピトリテを閉じこめている棺を振り仰ぐ。

『浮上終了。システム・クレイドル強制終了完了』

 機械音声は無情に告げた。

 照明が元の明るさに戻され、銀色の光の粒子は消える。声も出せず、見上げるばかりのカチの前で、棺の蓋はスライドし、ゆっくりと持ち上がった。

 もはや、どう足掻こうとも止めることなど、できない。

 棺の中から、人の形をした「それら」が起き上がる。

「アンピトリテ?」

 白い肌に、銀色の頭髪。数を数え切れないほどの無感情の対の瞳が、カチへ注がれた。

「……違う」

 カチは力なく頭を振った。

 見た目は自分と似通った特徴をしてはいても、直感はカチに否と告げている。棺の中から目覚めたのは違う存在だと。

「あ、あぁ。私の悲願は……成った。アンピトリテは目覚めた。私はようやっと、声から解放……される」

 須加は、瀕死の状態であることなど全く意に介していない様子で、這い蹲ったまま笑っている。折れ曲がった左腕にすら気づいていない表情だった。

 痛み自体を感じていないのだろうか。

『シークエンス終了にともない、全ての隔壁のロックを解除します』

 放送と共に、全ての扉が開いた。

 微かに聞こえてくる波の音は、シェルターが浮上したことをカチに知らしめているようだ。

「あなたたちは?」

 突き刺さるような、無言でありながらも確かな意志を感じさせるアンピトリテの視線がカチに向けられている。

「あなたたちは、誰?」

 答える声はない。沈黙と重圧の中で聞こえてくる足音に、カチは自分が入ってきた扉の方角を振り返った。

「……カチ」

 潮の香と、血の匂いが鼻をかすめた。

「真朱さん……」

 制服を血に染め、傷だらけの真朱が立っていた。ブルーの姿は見えない。

「カチ、お前」

 カチは真朱の視線から逃れようと、身を翻した。耐えられなかった。自分自身が矮小に思え、嫌になる。

 制御装置から駆け下り、真朱が立っている扉と正反対の扉へと向かって、カチは力の限りに駆けた。

「待て、カチ!」

 声を振り切り、カチは長く伸びる通路を走る。


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