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ブルーの言うとおり、何らかの影響を受けているのだろう。油断していたわけではないのに、殺気だった気配を感じ取ることがまったくできなかった。
「しかし、来るのが遅かったな、真朱。祭りは既に始まったよ」
嘲笑の混じる声を合図にして、シェルターが胎動した。体の奥底を掻き回すような低音の振動に、思わず体が萎縮してしまう。
甲高い機械の回転音は反響しあい、幾層もの音を紡ぎ上げてゆく。
やがてそれは、呻き声にも似た不気味な音楽となって、静寂に包まれていたシェルターを掻き乱した。
「真朱さん!」
カチは理由もなく湧き上がってくる焦りに突き動かされ、真朱の名を呼んだ。
この不気味な振動は勿論のこと、対峙する真朱とブルーの間にある緊張感が、途轍もなく恐ろしかった。
「振り切れない、か」
そう呟いた真朱は、ナイフと銃を手に持って構えた。
「そうだよ、真朱。お前は、私から逃げることは絶対にできない。分かっているんだろう?」
「行け、カチ!」
銃を持っている側の手で、カチは扉に向かって突き飛ばされる。カチは不意を突かれた格好で派手によろめき、扉へと突っ込んだ。ぶつかる、と声のない悲鳴を上げるカチだったが、強張った手が扉に触れたとたん、軽い空気音を立てて扉が開いた。
「真朱さ――」
転がり込むようにして飛び込んだカチは、勢いを殺しきれずに転倒した。ぐるりと視界が一回転する。
旋回する視界の中で、真朱は果敢にブルーに立ち向かっていった。そうしながら、背中越しにカチに対して叫んでいる。
「いいな、カチ! お前が止めろ!」
開いたときと同じように、閉まっていく扉。真朱の姿も声も閉ざされ、カチはただ独り呆然としたまま座り込んだ。
「……わたしが?」
天井は相変わらず高い。
飛び込んだ部屋は、先ほどとは違ってちゃんと床があり、円形のホールになっている。さらに奥へと続くだろう扉が、三つ見えていた。
機械音は依然として、止まる気配はない。体が痺れるような微動は、まだ続いていた。
急に心細くなって、泣き出しそうになる胸中の衝動を抑え、カチは唇を噛んだ。
座り込んでいる場合でないのはわかっている。閉ざされた扉の向こうで、真朱は命を張って戦っているのだ。立ち止まっていてはいけない。
カチは手の平に爪が食い込むほどに拳を握り、立ち上がった。
銀色の髪は風とは違った動きで舞い上がり、体の奥底から確かな力が溢れてくるのを感じた。
大丈夫、自分はやれる。カチは必死に自分自身に言い聞かせた。
「あっちなのね」
何もない空間に、光の粒がぽつぽつと、滲み出してくる。向かって左、飾り気のない扉へと、光の糸は続いている。それが、カチの進むべき道しるべとなった。
意志の力で不安を振り切り、カチは思い切り駆けだす。
頼りない二本の足は、すぐに縺れそうになり、バランスを崩しかける。何度も転びそうになりながら、それでもカチは走るのを止めなかった。ぐずぐずしていれば、何もかもが無駄になってしまうだろう。
「胸がざわざわする。近いの?」
ロックが外されているのか。近づいただけでスライドしたドアに面食らいながらも、カチは迷うことなく部屋へ飛び込んだ。
「ようこそ、お出でなさった」
嗄れた声で呼び掛けられて、カチは身構えた。
巨大なシェルターの外観と同じ、丸いフォルムで統一された機械に埋もれるようにして、須加がひしゃげた笑みを浮かべている。かちゃかちゃと、響く不気味な音は、医療キャリーから伸びる管が擦れる音だろう。
「あなたは、この場に立ち会うべき存在。さあ、あなたの同胞が長く、深い眠りから……アカシャの呪縛から解き放たれる時ですよ!」
「待って!」
力の限りに叫んだカチを見て、須加は怪訝そうな表情を皺だらけの顔に浮かべた。
なぜ邪魔をされるのか皆目わからない――そんな、不快なモノを見るような、身の毛のよだつ視線を、須加から向けられた。
カチは負けじと、須加の淀んだ眼球を見つめた。
「なぜ止めるのですかな?」
サイレンスを着けた頭を重たげにがくんと揺らし、須加は首を傾げて、ぎょろりとした目を瞬いた。眼窩から飛び出てしまいそうなほど、赤く充血している眼球は、どうにも気味が悪かった。
アンピトリテの眠るタワーで出会った時よりも、明らかに様子がおかしいように思える。アカシャの影響なのだろうか。
「あのタワーで、わたしは見ました。沢山のアンピトリテ……それに、マーフォークが死んでゆく姿を。あんな酷いことがもう一度ここで起こってしまうのなら、このまま眠らせてあげてください!」
「なにを言い出すと思えば」
くつくつと、肉がそげたことで、カーテンのようにたるんでいる皮膚を揺らし、須加は笑った。
「アンピトリテであるのに、なぜあなたは、わからないのですか! あなたは聞こえないのですか、この声を。束縛から解き放たれることを切に訴えている、我らが同胞の声が聞こえないのか!」
老いた体のどこから声を出しているのか。重低音の振動が響く室内に、須加の声は響き渡り、カチを打ち据えた。
「聞こえないというのなら、見ると良いでしょう。これが、あなたの同胞だ!」
須加は声を裏返させて叫び、チューブの絡まる腕を操作パネルに叩きつける。聞こえた鈍い音は骨の軋む音か、折れた音か。
だが、須加は気にも留めず、ぶらついた右手で、顎を伝い落ちる脂汗を拭った。カチはその姿に恐怖を感じた。狂っている……いや、狂わされているのだろうか?
異様な雰囲気に飲まれつつあるカチは、不意の振動にふらついた。なにが起きたのかと周囲を見回し、小さな声を上げる。
「これは……」
「これが、システム・クレイドル。延命処理システムの一つですよ。あなたもまた、この中で長い眠りに就いていたのでしょう?」
白い長方形の箱が、壁の中からゆっくりと迫り出してくる。その数は、一つや二つではない。
幾千とも、幾万ともしれない純白の棺。この全てにアンピトリテが……地球を襲った災厄から逃れた人々が眠っている。
カチは強くなる胸のざわめきに、吐き気を感じていた。強烈な眩暈に倒れそうになる。
「深い海を泳ぐ夢を見せる揺籃。肉体を低温保存し、安眠装置によって脳に夢を見せるこれは……優しすぎる檻だ。人のためならば、それも良い。しかし、アンピトリテとなった今、これは必要のないシステムなのです! アンピトリテは全員が望んでいるでしょう! 広い世界への解放を! 私には聞こえるのですよ、声が! 確かに!」
「だめ。止めて! いやな感じがする!」
足が震え、手が震えた。
漠然とした恐れは、理由が皆目わからないからこそ、余計に恐ろしい。
「どうして止めるのですか?」
「……怖い、怖いの」
「怖い? そうですか、そうでしょうとも」
細い腕を、おそらくはシステム・クレイドルの制御装置である機械の上に載せ、須加は白髪を振りながら頷いた。何度も、何度も、何度も。
それこそ、機械に額を打ち付けるようにしてひとしきり動かし、にんまりと笑ってみせた。
「あなたが恐れるのも道理。このシェルターを満たすのは、深い悲しみによる怨嗟です。助けを呼ぶ声は、聞く者にとっては、とても恐ろしいものでしょう?」
骨張った肩が、ゆらゆらと揺れている。
――おかしい。
理性を感じられない強張った顔。唾を撒き散らして、興奮のままに叫ぶ喉。血走る瞳から感じ取ることができるものは、まさに狂気だった。
アンピトリテの解放を推し進めるだけの、ただの妄執。それは本当に、須加の意志なのだろうか。
「私は、解放を願っています」
老いた体を支える医療キャリーが、派手な音を立てて床に転がった。中に詰め込まれていたベージュ色の薬液が、階段を伝って滴り落ちる。
「アンピトリテの目覚めをして、私のこの身に染みついた、人道に外れた罪を洗浄するのですよ!」
痩躯を仰け反らせ、須加は笑った。甲高く不気味な笑い声が、アンピトリテの寝所を埋め尽くす。
「だめ!」
須加の右手がレバーに載せられるのを見て、カチは叫んだ。その声を掻き消すように、壁に取り付けられているスピーカーから、無機質な声が注がれる。
『システム・クレイドルの緊急解除コードを確認。シェルター第一級緊急警報発令』
サイレンが響く。カチは、徐々に強くなってゆく振動に焦った。
「なにが起こるの?」
「目覚めるのですよ! 恒久の眠りに落ちていた神聖なるアンピトリテが目覚め、束縛から解放される! 私の罪は、ようやっと浄化されるのです!」
興奮を増して、荒くなるばかりの須加の声。カチは触発されるように息苦しくなる胸を押さえ、脳内に送り込まれてくるビジョンに歯を食いしばって悲鳴を耐えた。
流れ混んでくる記憶は、須加のものだ。
科学者として、興味本位のままに海から連れ出したアンピトリテたちを刻む日々。混沌とした興奮がそこにあり、後悔など微塵も感じなかった。
だからこその贖罪か。
「……勝手すぎます」
「私は歌おう。解放からの喜びを! アカシャの脅威は去り、静寂が訪れるのだと!」
嗄れた笑い声と共に、サイレンは鳴り響く。
『隔壁を閉鎖。緊急浮上シークエンスを同時発令。メイン・バラストタンクに気蓄機より空気注入を開始します』
サイレンが止み、シェルターがぶるりと震える。ごぼごぼと、カチを海底に引きずり落としたメタンガスのような水音だ。
「……だめ」
震えて力が出ない足を一歩、どうにか前へと出す。
「止めて、いけない。これ以上は……だめ」
「戸惑うことはありません! これは、救いです!」
「あなたは、わからないんですか! わたしが感じている恐れが!」
前屈みになり、己の重心を勢いに変えて次の一歩を踏み出す。一歩、また一歩と進み。次第に小走りへと変わり、カチは叫んだ。
「止めて! これ以上は――だめっ!」
銀色の髪が舞い上がる。
声はカチの意志を汲み、不可視の衝撃波となってパネルを操作していた須加へと襲いかかった。
「――ぎゃっ!」
醜い悲鳴が上がり、宙に軽々と吹き飛ばされる須加の体。
弧を描いて落下する有様を、カチはただ、呆然と目で追うことしかできなかった。
枯れ木のような体はなすがまま、堅い床に叩きつけられた。蛙の鳴き声を潰したような醜い悲鳴が漏れ、骨の砕ける鈍い音が響く。
カチは、感覚ではなく視界が捉えた恐怖に血の気が引くのを感じていた。
自分は、いったい何をしてしまったのだろうか。
「あ、ああっ」
悲鳴になりきれない、引きつった声が口から漏れる。
俯せに倒れる須加は四肢を小刻みに痙攣させていた。息はあるようだが、無事であるとはとうてい思えない。